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書評『イスラーム 書物の歴史』


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付記 この書評は、先般『イスラム世界』82号に掲載された拙稿の元原稿を若干短縮、整形し掲載するものである。ここでは、いつも私が常套としてきた(書評としてはまあありきたりの)「持ち上げてちょっぴり落とす」式の書き方を取らず、のっけから辛口の批判を書き連ねる「落としてから、持ち上げる」式の書き方を取った。別に明確な意図があるわけではなく、いつもとは別のやり方を試してみただけのことである。

ただ、今にして思えば、こういう順番で書いたことによって、批判部分だけ読んでそのあとのフォロー部分を読まずに気を悪くなさる関係者の方がいらっしゃるかもしれない。その筋の方には、どうか最後までお読みいただき、ご寛恕を請いたい。

書評:小杉泰・林佳世子編『イスラーム 書物の歴史』(名古屋大学出版会、2014年6月20日刊、453頁)


「これを知らずして書物を語るなかれ」という実に挑戦的な帯書きがまず目を引く本書は、これまで我が国の読者にまったくと言ってよいほど馴染みのなかったイスラーム世界の「書物」を真正面から扱った論集である。一般的に本の帯に示される惹句は、販売戦略のなか出版社サイドで作成されることも多かろうから、これが本書の編者や執筆者の側からひねりだされた言葉とは考えにくいかもしれない。しかし、西欧のグーテンベルク以降の印刷本に記述が偏りがちであった従来の「書物の歴史」の語られ方に照らすならば、この惹句は本書の目指すところ、あるいは編者の「心意気」を直截に示した、あるいは読み取った言葉として実に分かりやすく、本書の性格を簡潔に言い表していると言えるだろう。

本稿では、まず粗略ではあるが本書の内容を、多少個別的に評者のコメントを交えつつ紹介し、次いで総合的な評価を試みることとしたい。


1. 本書の内容

まず本書の目次を示す。各章の題名に続け、執筆者名は括弧内で示すこととする。

はじめに 光は東方から-文字と書物の水脈(小杉泰)

第Ⅰ部 イスラーム文明と書物文化の隆盛
第1章 イスラームの誕生と聖典クルアーン(小杉泰)
第2章 製紙法の伝播とバグダード紙市場の繁栄(清水和裕)
第3章 アラビア語正書法の成立(竹田敏之)
第4章 写本クルアーンの世界(小杉麻李亜)
第5章 イブン・ナディームの 『目録』(清水和裕)
第6章 アラビア文字文化圏の広がりと写本文化(東長靖)

第Ⅱ部 華麗なる写本の世界
第1章 書物の形と制作技術(後藤裕加子)
第2章 アラビア書道の流派と書家たち(竹田敏之)
第3章 書物挿絵の美術(ヤマンラール水野美奈子)
第4章 イスラーム科学の写本(山本啓二)
第5章 アラブの歴史書と歴史家 — マムルーク朝時代を中心に(中町信孝)
第6章 神秘家たちの修行と書物(東長靖)
第7章 サファヴィー朝のペルシア語写本(後藤裕加子)
第8章 オスマン朝の写本文化(小笠原弘幸)
第9章 オスマン朝社会における本(林佳世子)
第10章 ムガル朝インドの写本と絵画(真下裕之)

第Ⅲ部 現代から未来へ— 写本・印刷本・デジタル本
第1章 イスラーム写本の流通と保存(三浦徹)
第2章 写本研究の愉しみ (1)— アラブ史の現場から(大稔哲也)
第3章 写本研究の愉しみ (2)— オスマン朝史の現場から(永田雄三)
第4章 イスラーム世界と活版印刷(林佳世子)
第5章 聖典の刊本とデジタル化(小杉麻李亜)
第6章 デジタル時代の古典復興— アラビア語メディアを中心に(小杉泰)


以上の通り本書は3部22章からなり、全体の構成としては、第Ⅰ部にイスラームと書物の関わり合いに関する原初的な問題やアラビア文字の世界的拡散のような包括的なテーマ、第Ⅱ部に個別具体的なテーマに関する写本文化の諸相を提示し、第Ⅲ部では現代における写本の保管、研究状況ならびにその後継技術を扱った論文と、専門研究者の写本研究の体験をつづったエッセイ2編を配置している。必ずしも「通史」を意識した構成をとらずにそれぞれ独立したトピックを扱った章(論稿)に、ゆるやかなまとまりをもたせた構成をとっている。各章のタイトルを一瞥すれば明らかなように、本書が主にターゲットとしている「書物」は基本的に「手書き写本」(手稿本)であり、活版印刷術導入以降の印刷本(刊本)が全体的な構成のなかで占める割合は小さい。


はじめに 光は東方から-文字と書物の水脈

編者のひとり小杉泰による序章(はじめに)では、まず本書を編むにあたっての前提となる問題の所在として、従来の「書物の歴史」が西欧の活版印刷発明以降のことに偏りがちだと指摘する。より巨視的に見れば、西欧の印刷革命に先行する形でイスラーム世界では早くから写本市場が成立しており、「多品種少量生産」を特徴とする写本文化によって「効率的」に「知の伝達」がなされていた。それゆえ8世紀から18世紀まで続いたイスラーム世界の写本文化(および中国の活版印刷文化)を含む形での「グローバル」な書物の歴史の読み直しが必要だ、というのがここでの小杉の主張である。本書はそうした問題意識を受け、さらに書物の「デジタル化」という「大きな画期」の変化も見据えつつ、「書物の歴史を編みなおすことを、少なくともその重要な一翼を担うこと」をめざすとする。

 
第Ⅰ部 イスラーム文明と書物文化の隆盛

 まず冒頭の第1章(小杉泰)は、「イスラームとアラビア文字が育んだ書物文化の出発点」として、「最初の書物」であるクルアーンの成立(結集)をめぐる背景とその成立プロセスを詳述した論稿である。7世紀のイスラームの誕生につづく聖典クルアーンの成立の背景として、古代オリエント、地中海世界の文化的な「伏流」に価値を見る点が目を引く。第2章(清水和裕)はイスラーム世界の写本文化の発展を担保した紙の伝播と流通の問題を扱う。前半はブルーム(J.M.Bloom)の先行研究を軸として、製紙法の伝搬に関する「タラス河畔の戦い伝播説」への批判を詳しく紹介しつつも、紙の伝播の問題としてはそれは核心ではなく、「中国とつながった中央アジアをイスラーム王朝が支配下に置いたことによって、イスラーム世界に伝播したという事実」の重要性を改めて強調する。後半は製紙法のイスラーム世界伝播後に、写本の書写、売買などを一手に担ったワッラークと呼ばれる専門家たちの活動を紹介する。第3章(竹田敏之)は聖典クルアーンの成立とともに整備されていったアラビア語正書法に関する論稿である。具体的には、初期のドゥアリー等による母音記号(ナクト)の考案と導入、アッバース朝期のハリールの新たな母音記号(シャクル)の変革、さらにクルアーン(ウスマーン版)の綴り(ラスム)と並行して発展していった類推型正書法(キヤースィー)等の問題を扱う。第4章(小杉麻李亜)はクルアーンの正典であるウスマーン版の成立から、「朗誦性の再現と美的水準を兼ね備えた写本」の出現を見たイル・ハン朝期までのクルアーン写本の発展史を辿った論稿。書記の文字であるナスフ体によるクルアーン写本の成立に、その原初より朗誦性が重要な要素を占めていたクルアーン写本の「視覚的な芸術性」への変貌の画期を見る点は注目される。この小杉論文とその前に配置された竹田論文を併せ読むことにより、イスラームの発展と歩調を合わせるようにアラビア文字文化が絶え間なく革新と発展を遂げていった過程が了解され、実に「読ませる」内容となっている点は高く評価すべきである。つづく第5章(清水和裕)は10世紀のバグダードで活動したワッラークであるイブン・ナディームが著した浩瀚な『目録』の全容を紹介し、9-10世紀バグダードの「写本出版文化の圧倒的な規模」の提示を試みたものである。『目録』の目次に沿う形での当時の「イスラーム社会の知」の体系を窺うとともに、『目録』から知りうる『アラビアン・ナイト』や「知恵の館」の「歴史情報』の提示を試みている。そして第6章(東長靖)はイスラームの拡大とともに広範な拡張を見せたアラビア文字につき、イスラームを受容したイラン、テュルク、インドほか各言語文化の受容にかかる諸事情を素描するとともに、一般的なアラビア文字写本のスタイルにつき付言する。本章の記事は新ウイグル語の音素に関する記述に誤りがある点がいささか気になる。


第Ⅱ部 華麗なる写本の世界

第1章(後藤裕加子)はアラビア文字写本の製本技術が「頂点を極めた」とする15世紀のティムール朝時代のペルシア語文化圏の写本につき、モノとしての写本の構造とその制作ならびに装丁技術を中心に据えた論稿である。前代のビザンツ帝国期の製本技術を引き継ぎ、中央アジアや中国の要素が装丁技術に反映され一つの完成を見ることとなった写本制作技術の発展プロセス、さらにそうした発展を担保した職人および工房の時代ごとの変遷等の諸点は、ヨーロッパや東アジア世界の同様の事例と比べるうえで興味深かろう。第2章(竹田敏之)は、アラビア文字の主要な書体の開発と書道の流派、著名書家たちの活動等からなる「書道文化」を、その勃興(アッバース朝期)から活版印刷普及期(オスマン朝後期)まで通史的に眺めた論稿。その要を得た記述は、「イスラーム書道」ならびにアラビア文字書体全体の見取り図を把握するために大変役立つ。第3章(ヤマンラール水野美奈子)は写本文化における挿画の問題を扱い、前提としてのイスラーム世界における絵画の文化的位置づけの問題につづいて、挿画の二つのジャンルであるタズヒーブ(文様絵画)と具象絵画につきそれぞれ解説を加えている。第4章(山本啓二)はイスラーム科学、すなわち「8世紀から15世紀頃にかけてイスラーム圏で行われた科学的営み」のなかで制作され読まれた写本類を主として書誌的な視点から紹介した包括的な論稿。さまざまなジャンルからなるアラビア語写本のなか、科学関連の写本類の内訳や現下の保管状況がコンパクトにまとめられている。第5章(中町信孝)は主としてマムルーク朝時代に編まれた膨大な数の歴史書(historiography)につき、複雑な引用関係、各著作の生成過程、歴史家たち相互の情報伝達、等の諸点から窺われる「歴史家の知的実践の痕跡」の問題を扱う。文献学の奥深さを思い知らされる重厚な論稿である。第6章(東長靖)は「修行論・霊魂論を中心にスーフィーたちが書物として遺した説」を解説した論稿。スーフィズムの理論と実践の問題が、それぞれ拠り所となる古典的な書物と関連付けられた形で簡潔にまとめられている。第7章(後藤裕加子)は「挿絵入りペルシア語写本」に関する論稿。従来補助的な「情報提供媒体」であった挿画がイル・ハン朝期に次第に重要度を増し「芸術」に転換を見せ、やがてジャラーイル朝、ティムール朝を経てサファヴィー朝で「一つの頂点」を迎えるまでの主要作品を丹念に追う。第8章(小笠原弘幸)は主としてパトロンとしての宮廷とのかかわりを軸に、オスマン朝期の「豪華写本」の文化を通史的に捉え示した論稿である。宮廷専属の文人「王書詠み」という担い手を得て発展を見せた写本文化が、ムラト3世の治世に至って「精髄」とされる浩瀚な歴史書や豪華写本を生み出し、やがて17世紀の「写本文化の転換」を経て修史官年代記へとつながっていくまでを手堅く記述する。一方第9章(林佳世子)はさきの第8章とは対照的に、オスマン朝期の街場レヴェル-オスマン朝臣民の社会における「普通の本」のあり方と書誌を包括的に展望した論稿である。当時の本屋の風景に始まり、マドラサ、個人そして図書館の蔵書の所蔵状況と内訳、教科書から窺われる当時のカリキュラム、およびアラビア語文法、論理学、修辞学、神学、イスラーム法学、伝承学、クルアーン解釈学など当時読まれていた各学科別の主要文献にまで話が及ぶ。第10章(真下裕之)はインドにおけるイスラーム写本ならびに絵画の大まかな流れを踏まえたうえで、現存するムガル朝期の写本ならびに絵画から窺いうる、当事者たちがそれら「文物に刻み込んだ働きかけ」の問題を検討した論稿。具体的にはデリー・スルタン朝期からムガル朝のアウラングゼーブまでの時代を中心とする写本と絵画の歴史を通覧し、ついでジョン・ホプキンズ大学所蔵写本『勝利の書』と大英博物館所蔵絵画『フマーユーンの園遊会』それぞれの書き込み、印章、そして改変などの諸要素から、そうした当事者たちの「働きかけ』の背後にある歴史認識を読み取る。


第Ⅲ部 現代から未来へ— 写本・印刷本・デジタル本

第1章(三浦徹)はアラビア文字写本の書誌を中心に据えた論稿。イスラーム写本の現在の国際的な収書状況と、アラブ世界での一般的な写本の作成から流通にいたる諸事例、そして写本の目録編纂のうえで必要となる情報項目の問題などを扱う。つづく第2章(大稔哲也)、第3章(永田雄三)は、それぞれエジプトとトルコを主たるフィールドとする著者が、各地域の写本史料の所蔵、利用事情を紹介するとともに、それぞれの切り口から写本研究の実際を紹介した論稿である。まず大稔はエジプト史の立場から参詣書写本研究の実際に加えて、日本における写本のおおまかな利用・研究状況などを示す。つづく永田は自身がトルコで行ったオスマン朝期文書史料(政府文書ならびにイスラーム法廷文書)の調査・研究活動の体験をつづる。この分野の最前線を走る研究者の調査研究の手続きがこのように具体的に提示されることは大変まれであり、とりわけ同学の読者には学ぶところが大きいであろう。第4章(林佳世子)は「近代」への適応の結果として本格的な登場を見た、活版印刷術を用いたイスラーム書物に関する専論である。欧州、マイノリティ社会そしてイスタンブルにおけるミュテフェッリカの「印刷の館」操業(18世紀)に至る初期のアラビア文字活版印刷の展開につづけて、エジプト、トルコ、イランで開設された官営印刷所の出版活動を経て、19世紀後半には中東世界に石版(リトグラフ)ついで活版の印刷が定着していくまでの過程を追うとともに、従来の写本文化との関係を字体、奥付、新記号の3点につき検討する。第5章(小杉麻李亜)は20世紀初頭に本格的に登場した聖典クルアーンの刊本につき、現代までの流れを通史的に概観した論稿。補足的に1980年代以降のデジタル化や1990年代以降のオンライン化にも言及している。最後に第6章(小杉泰)は写本時代以降のアラビア語圏の活版印刷の状況を概観するとともに、つづく「デジタル時代」におけるコンピュータ上のアラビア文字処理事情、タイポグラフィそしてクルアーン、ハディースなど古典コンテンツのデジタル・メディアへの移植に係る諸事情を紹介する。

本書の評価

本書の読者の多くは、まず本書の目次をひらいて、おそらく狐につままれたような感覚を覚えるのではないだろうか。「書物の歴史」とは言いながら、その大半の内容は一般に人がイメージするような「出版物」ではなく、手書きの写本に関するものだからである。もとよりそれは本書の著者たち、わけても編者の意図するところであったろう。そうした書物=印刷本というものの見方は、電子本が登場し、移行が進められつつあるとされる現代ではもはや通用しなくなってきているし、イスラーム世界では、西欧の数百年の印刷本の歴史に先行し、かつ併走する形で高密度の写本文化が存在していたからである。そうした読者の「常識」を覆し、写本に正当な位置を付与しようとする編者たちの意図は確かにすぐれて正当なものである。

 しかし、その意図が真っ当なものだとしても、本書は率直に言って通読するのにかなりの根気を必要とする一書である。まず「歴史」とはいっても本書は通史としての体裁をとっていない。各章の記述の端々に他の章へ誘導する文言が盛り込まれるなど、論稿相互に関連性をもたせようとする、それなりの工夫の跡は確かに窺えなくはない。しかし各章のテーマ、文体、書式はばらばらであり、各章の論稿の中には本書の趣旨をあまり汲み取っていないのではないかと思われるようなものも (ごく限られるとはいえ)目につく。読者が本書から「イスラーム 書物(実は概ね写本)の歴史」を一続きの流れとして読み取っていくのは簡単ではなかろう。たしかにいくつものテーマの論稿が並び立つさまは見ようによっては壮観であり、にぎやかで贅沢なつくりではある。しかし本書ではそれら個別のテーマがそれぞれどういう関係を有し、大きな歴史の流れを形作っていたかという点が実に見えにくいのである。編者の「水脈」という言葉を用いるならば、ここに示された写本文化の「水脈」はそれぞれどのようにつながっていて、どんな大河へ注ぎ込んでいると言うのか。通史的な記事として成功しているのは聖典クルアーンの歴史、正書法から書体(書道)、デジタル化までのアラビア文字の歴史ぐらいであろう。他のトピックに関しては、読者は各章の内容に個別的に興味関心を掻き立てられることはあっても、それが結局歴史的にどう今につながっていくのか、流れの中に位置づけるようなチャンネルが開けられておらず、いちいち消化不良を覚えるのではないかと懸念する。つまりこのままでは本書の内容の大半は論稿の羅列ないしはパッチワークにすぎぬといわれても仕方がないのではないか。編者はこの点、いますこし編者としての権限を駆使してreader friendlinessに意を用いるべきではなかっただろうか。

以上のような一書としてのまとまりの問題のほかに、本書は「イスラームの書物」を、その対象を写本に限ったにしても、必ずしも包括的に扱ってはおらず、その収録情報には不備も少なくないという点も指摘しておくべきであろう。この不備は主として書物のジャンル、そして書物が生産された地域の2点に関するものである。

まずジャンルとしては、まず聖典クルアーンについて、通史的な読み方が可能な例外的な要素として評価できるものの、そのほかの言語への移植、すなわちタフスィールの広がりについて網羅的な記述がないのはいかにも残念である。これは仏典やキリスト教の聖書の翻訳へのそれぞれの分野での扱われ方を見れば、この問題の重要性は明らかであろう。クルアーンばかりではない。「イスラーム圏の書物」全般につき、翻訳の問題は避けては通れない文化史上の大きな問題ではなかろうか。聖典以外にも、たとえば清水が第Ⅰ章5節(以下Ⅰ-5のように略記)において示したナディームの『目録』の構成(88-89頁)を見ただけでも、本書で示しえた「書物」のジャンルが極めて限定的であることは明らかである。

つぎに本書で扱われた地域について言えば、中東世界、とくにアラビア語圏が最重要の地域として優先的に扱われるのは当然としても、イランはほぼ美術史のみが扱われ、より広域のペルシア語圏の写本文化-これには中央アジア、アフガニスタン、インドそして中国も射程に入ってくる-について本書で知るところがほとんど無いのはどういうことだろうか。さらに現在では世界最大のムスリム国家インドネシアを有する東南アジア~海洋アジア世界につき一言半句もないのは納得がいかない。ついでに言えば評者の専門である中国領中央アジア(東トルキスタン)についても、まるで書物は存在しないかのごとき扱いである。

さらに、従来の印刷本中心の書物の歴史との違いを明示的にし、写本文化を前面に示すための措置とはいえ、イスラーム圏の印刷本についての記事が著しく少ない点は、やはりアンフェアではないだろうか。現在イスラーム圏の文化に接する人はひとしく印刷本を通じて文化を摂取している。本書の執筆者にしてもコアな研究史料として写本を読むとはいえ、膨大な印刷本の世話になっていない研究者は一人もいないのである。そもそも当の本書にしても、いくら編者がデジタル化の時代の到来を声高に唱えようとも、昔ながらの印刷媒体により発行されているという現実を見るべきであろう。そういう現実に目を向けずに、いささか偏りのあるアラビア文字印刷本の概説的な記事につづけて、一足飛びにデジタル化へと話題が及ぶのは明らかに飛躍である。小杉はあとがきにおいて「印刷物を取り巻く環境」の大きな変化に際し、「デジタル化以前・以後」を生きた世代の証言を残そうという意図を明らかにしている。さればこそ、その「証言」はむしろ将来は失われていくであろう、執筆者たちの実体験を踏まえたアラビア文字印刷本と人間の付き合い方に関するものになるのではないか、と評者などは考える。まだ活字を拾っていた時代からオフセット印刷が導入されるまでの印刷工房や、書物の制作過程、そしてインターネットでの売買が導入される以前の書物の流通、街角の書肆での読者たちの書物の探索と購入をめぐる問題など、むしろ失われゆく貴重な証言は印刷本をめぐることの方にある。技術的なコンピュータへのアラビア文字の移植の問題などは、そうした現下失われつつある問題に比べれば、あまり大きな意味を持たないのではないだろうか。

第Ⅲ部に配置された論稿のいくつかは、研究者にとってはありがたくても、書物の内容の統一性という見地からはやはり違和感がありはしないだろうか。写本の収書状況、研究者の体験記、さらには文字文化のデジタル化をめぐる個人的な体験談などは、いわば研究論文ないしは歴史記述の「バックステージ」の話である。これがシリーズものの論集ならば、それに挿入される『月報』のようなものに掲載されるべき筋の文章ということになる。例えば本書の後半に一括して別格の扱いで掲載されるべきであって、少なくとも「歴史」を「記述」した『イスラーム 書物の歴史』の本編に置くべきものではないだろう。

最後に、索引について、人名と書名の索引だけで、地名やとりわけ事項索引がないのは明らかに不便であり、改善を要する点であることを指摘しておきたい。いったい、本書の内容につき人名と書名だけをピンポイントで拾い読みするような読者はどれほどいるのだろう。それを意味なしとはしないものの、専門研究者、一般読者の別なく、目次に加えて一定のキーワードを手掛かりに横断的に本書の内容を眺められる事項索引があれば、本書の利便性はかなり増すはずである。


* * *

以上、僭越ではあるがいささか辛口の評価を書き連ねた。そのいくつかは要するに本書が完璧ではないことを勝手に咎めだてる、評者の手前勝手な「ないものねだり」の如きものであって、編者や、特に執筆者諸氏に本質的な反省を促す筋のものではない。この点は了とされたい。評者は一人の研究者の末席にある者として、本書をむしろ高く評価しているのである。

本書の最大の意義は、すでに冒頭で述べた通り、これまで読者が読み知ることが難しかったイスラーム圏の写本文化の歴史に関する論稿をひとまとめにした一書である、という点にある。本書を通じて読者は人類の書物の歴史のなかに燦然と輝くイスラーム圏の写本の存在をしかと認識させられることであろう。

より具体的には、まず写本文化の発展を担保した諸要素として製紙法の伝播(Ⅰ-2)、アラビア文字(ならびに書体:Ⅰ-3; Ⅰ-6; Ⅱ-2; Ⅲ-6)、中核的な書物としての聖典(Ⅰ-1; Ⅰ-4; Ⅲ-5)、製本・装丁技術(Ⅱ-1)そして挿画芸術(Ⅱ-3; Ⅱ-7)等の諸点につき、まとまった記述が日本語でここに提示されたことの意義は実に大きい。これら諸点は西欧や東アジアとも直接対照可能な要素であり、本書の登場は編者がねらいとしたように、より大きな視点からの書物の歴史の読み直しへの道を拓くこととなろう。

またそれ以外の写本文化(ならびにその継承文化)の諸相を扱った論稿の数々(Ⅰ-5; Ⅱ-4; Ⅱ-5;Ⅱ-6;Ⅱ-8;Ⅱ-9;Ⅱ-10; Ⅲ-4)は各々独自の価値があり(必要なコメントはさきに各章の紹介部分で示した通りである)一括してその価値を述べるのは難しい。しかし、雑駁な言い方ではあるが、いずれも「イスラームの書物」の奥深さを十分に示しえた価値ある内容であると言える。

さらに写本そのものというよりは写本を研究者がどう利用するか、あるいはどう利用したかという、書誌の総合やその利用に関する論稿(Ⅲ-1; Ⅲ-2; Ⅲ-3)は、読者が他の論稿とは全く別の角度からイスラーム圏の写本文化を眺める機会を提供している。この3編は読者、わけてもこれから写本を読もうと志す若き学徒には、写本研究の魅力と手立てを明瞭に示す一種の指南書としてこのうえなく有益だろう。

以上の点を踏まえて、評者もまた本文冒頭の惹句を復唱したい。まことに「これを知らずして」人類史における書物は語れないのだから。


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第13回中央アジア古文書研究セミナー

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2日目の会場。思えば中央アジア文書の講読に毎年これだけの人が集まるというのも、凄い。これ13年も続けているのですよ!?


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第13回中央アジア古文書研究セミナー
日時:2015年3月21日(土);3月22日(日)
会場:京都外国語大学国際交流会館4階会議室(No.941)

【プログラム】
第1日目:3月21日(土)―古文書講読・講演
趣旨説明(堀川)、参加者自己紹介
菅原純「カーディ文書を中心とする新疆テュルク語民間文書:概説と講読」
Baki Tezcan "The Portrait of the Preacher as a Young Man: The Education and Early Career of Kadizade Mehmed"

第2日目:3月22日(日)―古文書講読
矢島洋一「近世・近代西トルキスタンの合法売買文書」
磯貝健一「19世紀ブハラ・アミール国の訴状とその背面文書(または「判決文」)」
総合討論

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このセミナーも13回目。今回はなんと私が初日のトップバッターとして「新疆文書」につきお話しする機会を頂戴し、文書講読もあわせ行うこととなった。「門前の小僧」としてこの会に参加すること10余年。ここに至り「耳学問」の成果を開陳する、というよりは「不出来な受講生の習熟度チェック」を公開で行う機会をいただいたと言う訳である。

以下、セミナーのプログラム順に自分なりの参加記をご紹介していくこととする。なお、今回は合衆国(カリフォルニア大学ディヴィス校)のバーキー・テズジャン准教授(オスマン朝史)がご参加になり、そのご講演の効果もあって参加者数は40人越えの大盛況であった。


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第1日目:3月21日(土)―古文書講読・講演

菅原純「カーディ文書を中心とする新疆テュルク語民間文書:概説と講読」

今回、私の担当セッションでは、私が10年以上前に収集し、先ごろ新疆大学に移管した「新疆文書」(菅原コレクション)につき、そのあらましを紹介すると共に、今回は不動産契約に関する基礎的な文書2種をそれぞれ2点ずつ講読した。「新疆文書」の概要についてはこのブログでも新疆大学の講義などで割と詳しく紹介したので、ここで繰り返すことはしない。そちらについては当ブログの過去記事(1, 2)を参照されたい。

いくぶん新し目のコンテンツとしては、共産党の「革命」によってこうした文書類が忌まわしき旧時代の一つの象徴として槍玉にあげられ、儀式的に焼却されたという歴史事実につき、映像資料を示して紹介した。これは例えば1999年に刊行された写真集『新疆解放』(新疆美術撮影出版社、no.300)に掲載された「(抑圧から)解放された農民は、土地契約文書を焼却して勝利を歓迎する」というキャプション付きの写真や、1960年に制作された宣伝映画『夏合勒克乡的农奴制度』(中国科学院民族研究所委託、新疆電影制片廠撮制)の再現映像(カーディによる文書の作成シーン及び焼却シーン)等から窺うことができる。


宣伝映画『夏合勒克乡的农奴制度』(部分)01:31よりカーディによる文書作成の「再現場面」あり(ネットに上がっていない本編は全部で50分あり、解放後の文書焼却場面も含まれる。セミナーでは手持ちの本編映像資料から必要な部分を切り出しお見せした)。


文書講読については、一般的な「不動産売却文書」と「合法売却文書」を計4点、スウェーデン伝道団作成になる『書式集』掲載文書と実際の文書という組み合わせで読みあわせることとした。いちおう私は講師ということであったが、実質的には司会者の磯貝さんのご指導を拝聴するというスタイルで、そのいちいち周到な語釈、解説にはただただ感嘆するばかりで、実に勉強になった。いったいこの種の史料講読はその言葉に通じているだけではダメで、深いイスラーム法学の知識を必要とする。そのことを(門前の小僧として、それを感じていなかったわけでは断じてないが)改めて痛感させられた次第である。不出来ではあるが、今後もたゆまず励んでいきたい。

それにしても、何人かの方に読んでいただいた文書講読は、ペルシャ語やアラビア語、オスマン語、ウズベク語などをベースにする方々の「読み方」が、音声的にはそれぞれの「癖」を反映していて実に面白かった。カーシュガルの文書であるからして、住民は当然(まあ、私が拙く読むように)カーシュガル方言、平たく言えば現代ウイグル口語により近い発音でこれら文書を読んでいたに相違ないはずなのであるが、そうした別の地域のことをなさっている方々がお読みになると、まるで別のことばのように聞こえてくるのである。無論、実際にその文書が音声的に実際どう読まれていたかということは正確にはわからない。しかし細かなつづりや書き癖のようなものが頻繁に問題になるこの種の史料講読にあっては、書き手がそれを音声的にどう理解していたか、というのは極めて重要な問題であるように思われる。これはひとり新疆文書だけの問題ではなく、中央アジア文書においても個別的に考慮に入れられるべきポイントではないだろうか。

最後に私のセッションで、主として磯貝さんのご指摘の中で、これは要注意と思われたポイントを部分的に書き出しておく(中にはこのセミナーで幾度も繰り返された用語も含まれている。物覚えの悪い自分自身に対する「覚え」として示す)。

iqrarは(もっぱら私が用いた)「陳述」よりは、より法学的には「承認」(とりわけ、本来は本人に不利となる事柄についての承認)と解釈されるべきである。したがってiqrar-i shar'iは「聖法に則った承認」である。
ishiklikは戸(ishik)の数から転じて部屋数を示すと解釈されるのが一般的だが、間口の単位として解釈しうる可能性がある。これは今後の検討が必要。
ishiklikは、語釈としてはそうでも、綴り上はむしろishikleと読まれる可能性はないか(検討課題)。
◎ASKNHはusknaと読まれるべきで、(土地の)「上物」を指すものと理解される。
hoquq-i marafeq「恒久的占有権」
ghabn-ghrurdin otmek「売買の障害がない」
borlap beripはそれぞれの語の正確な解釈はひとまず措くにしても「登記して」と解釈するのが妥当か。
◎合法売却契約は、ここでは所定の期限終了後に対象物件を買い戻す契約すなわち「買い戻し約款売買」であり、伝道団書式集収録「抵当(rahn)文書」はその意味では筋がいい内容である(つまり私が指摘したような「異教徒の著作物としての誤解」は根拠がなく、むしろ雛型となった書式集の存在を考えてもよい)。
◎不動産売却文書では、その対象物件と売却者の所有関係の由来を明示することがまずもって必須である。講読文書での「父親から相続した(atamdin mirath qalghan)」や「金あるいは貨幣で購った(zarkharid)」などがそれにあたる。
◎書式集の「規範」文書の年号はいちいち刊行年が示されている点が注目される。これもまた書式集の刊行をめぐる出版者側の工夫(配慮)の一つと考えられよう(高松氏のご指摘による。あとで違う版を確認したら吃驚!まさにその通りであった)。

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Baki Tezcan "The Portrait of the Preacher as a Young Man: The Education and Early Career of Kadizade Mehmed"

テズジャン氏のご講演は16-17世紀オスマン朝の名望家(?)で一般にスーフィズムの敵対者とされるKadizadeliの指導者Kadizade Mehmedの初期の経歴につき検討したものであった。なにぶん自分のセッションの直後の講演ゆえかなり集中を欠いた状態で拝聴したためあまり記憶に残っていない(その点はお詫びします。何しろ疲労困憊していたので)。ただそのようなスーフィの敵対者と色分けされがちな人物であっても、すべてのスーフィと敵対していたわけではなく、一部スーフィとの交流もまた注目すべきである、というような点(確か議論ではムジャッデディーヤなども俎上に上がっていたものと記憶する)は意見の応酬があった。こちらはいずれ書かれたものなどで復習したい。


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第2日目:3月22日(日)―古文書講読

矢島洋一「近世・近代西トルキスタンの合法売買文書」

矢島さんの講義は前日私も扱った「合法売却文書」につき、西トルキスタンの事例を包括的に扱ったものであった。

「合法売却」契約については先にこのブログでもながながとその契約の内容につき説明を試みたことがあった。要するにイスラーム法の上で禁じられた利息の取得を「合法的」に行うための一つのトリックとして存在した契約であり、中央アジア(西トルキスタン)ではひろく行われた契約であったことが明らかにされている。

この契約でいつも初心者をまごつかせるのは、こんな脱法まがいの契約のどこが「合法」なのかという点である。この点につき。今回矢島さんは日本語での「合法ドラック」(「リーガル・ハイ」とも。現在は「危険ドラッグ」))の事例を引かれ、この事例と同様に「合法ぎりぎり」というニュアンスからひねり出された術語ではないかと指摘なさり、これには「なるほど、これだ!」と、思わず膝を打った。

今回講読予定として示された文書は4点で、3点がペルシャ語、最後の1点がテュルク語の帳簿(デフテル)収録文書で、私としては当然4番目の文書が一番の関心事であった(大変癖のある文字で書かれており、また書式も新疆のそれとはかなり違い、同時に示された一部ペルシャ語文書のスタイルを明らかに引きずっていた)。しかし、時間切れで会場での読みあわせが行われなかったのは残念至極であった。最後にいただいた「判読例」でこれは独習するしかない。無念であった。


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磯貝健一「19世紀ブハラ・アミール国の訴状とその背面文書(または「判決文」)」

磯貝さんの今回の講義は、ブハラ文書の訴状と判決につき詳しい解説がなされ、実に有益であった。とくに一般に訴状にはムフティの認印が押され、その訴状の適否をムフティが行っていたというのにはいささか驚きをもって拝聴した次第である。新疆文書の場合はムフティが認印を押した文書もないではないが、いくつかの文書は明らかにカーディが押しており、おそらくはカーディのデフテルに一緒に押したであろう「割印」が多くの場合に押されているのが特徴である。この辺のマナーの違いは今後掘り下げていくべきであろうと思われる。

また訴状の構成、訴訟のプロセス(この流れの説明図を見るのは初めてではないが、今回のものは特に詳細を極めている)についても、各段階でのターミノロジーが詳細に示されている点が注目され、これは新疆文書のみならず、イスラーム世界における係争の審理過程を比較考察する上で参照価値が高い。

ほかにも和解(示談は法廷外で行われるものゆえ和解とは明瞭に区別される、ということは私は暗愚にしてこれまで全然知らなかったことを告白する)、そして訴状の反対面に記された判決などはいずれもこれまで知らなかったことであり、今後の新疆文書講読の肥やしにしたいと思っている。

いつものことながらお二人には多くのことを今回も教えていただいた。これはいつも思うのであるが、お二人はこのセミナーで示された知見をぜひかっちりした概説の形で(出来れば英語で)お出しになるべきである。もしそういう本が出れば、さまざまな意味で学会に裨益するところは大なるものがあるであろう。

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ところで今年は2015年。つまりあの東北大震災から4年で、あの年に大学を入学した学生がこの春に学窓を巣立っていったという年である。それゆえ東京の法政大学では卒業式にあわせ4年前に行えなかった入学式もあわせ行った由。本当に、この4年間を思うと感慨深いものがある。この中央アジア古文書研究セミナーはといえば、実に震災後僅か2週間後の3月26日に「第9回中央アジア古文書研究セミナー」が開催され、「こういう時だから、関西が頑張らなければ」とあえて開催に踏み切られた堀川先生はじめ、主催者の心配りに深く感じ入ったことがあった。そのことがあらためて思い出される。

この会はいつも(傍目には)同じ種類の史料を、同じ会場で、同じような顔合わせの参加者が読みあわせ、打ち上げではこれまた同じように飲み語らうという、ある意味においては毎回変わり映えのしない集まりである。しかし13年も続けていると、変わり映えしないようでいて、確実にそれなりの成果が蓄積され、また折々のドラマが生まれていることに気付かされる。13年も続けていれば、その集まりはもはや特別なイヴェント(訪れる場所)というよりは、ある意味そこにいることが自明にさえ感じられる場所(帰って行く場所)のように思われてくるから不思議なものである。こういうところにも人生のひとつの奇跡があるかのようだ。

今回のセミナー冒頭で、当会の主催者である堀川先生は、あと2年でご自身が定年を迎えられること、京都外国語大学でのこの集いもあと2回となるであろうことに言及された。今後、磯貝さんや矢島さんが主導する形で会場を変えて続けるにしても、このセミナーをこの雰囲気のまま行えるのはあとたった2回と言う訳である。それ以降はどういう形であれ、これまでと同じというわけにはいかないだろう。あと2回が変わりなく有意義に開催されることを、また、できることならそれ以降も、何らかの形でこの枠組みが維持発展していくことを、心から望まずにはおれない。

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附記 今回のセミナーでは、三浦徹先生の「海を渡った皮紙(ヴェラム)文書-モロッコの契約文書コレクション」(東洋文庫編『アジア学の宝庫 東洋文庫-東洋学の方法と歴史』勉誠出版近刊、所収)のコピーをいただき、また阿部尚史(ABE Naofumi)さんからご近著"Preserving a Qazar Estate: Analysis of Fath-'Ali Khan Donboli's 'Property Retention Tactics'" in STUDIA IRANICA 43, 2014: 129-150.の恵贈を受けた。ここに記して深甚の謝意を表したい。

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にわか辞書作りの弁2009

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以下のエッセイも、2009年に執筆した、こちらはボツ原稿である。当時は『現代ウイグル語小辞典』が出版間際で、その状況下で「何か書け」と言われ「即座に書けるネタ」がこれしかなかった。あれから5年以上経過し、相変わらず私はウイグル語を教え、また辞書作りも細々と続ける羽目になっている。

あれから技術的にもレキシック・プロがSILのなかでも最前線を退き代わりのアプリが登場し、またウイグル語辞書も新しいものが出ている。とりわけ新疆での電子辞典の発達普及は恐ろしいものがある。おまけに文中で生まれたばかりの「愛しいわが子」であった長男もいまや7歳で、『妖怪ウォッチ』に夢中なクソガキに成り果てている(いや、愛しいわが子であることには変わりがないが…)。

そういう状況ではあるけれども、やはり辞書は地味で根気の要る作業の積み重ねで作られるものだし、そういう「汗」を反映させた、完成度の高い「編者畢生の辞書」のようなものはまだ出ていない。また今後も出るかどうかは分からない。してみれば、5年ぐらいたったからと言って、この内容が陳腐化したかどうかなんて分からないのではないかと言う気になった次第である。このエッセイは今に続く、過去の時点での私の辞書とのうんざりするような付き合いの記録としてお読みいただければ幸いである。

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恥ずかしながら、最近、辞書を作っている。


「恥ずかしながら」というのは、自分のやっていることは確かに「辞書作り」ではあるけれども、世間一般の「辞書作り」に対するイメージよりはおおいに安直で能天気な代物だからである。私は辞書を作っている。それは疑いない。しかし、そう自分の仕事を紹介することであらぬ誤解を受けてしまうのは分不相応でいかにも格好悪いし恥ずかしい。

そもそも私の辞書作りは最初からベースとなる「底本」が複数あって、それらを言ってみれば自分勝手にまとめあげただけなのである。私がやったことは冒頭に載せるそのことばの概要(文法スケッチ)を書き、手前勝手な視点からエントリーする語を選び、個別の記載事項をチェックして必要に応じて追加と削除、内容の修正、加筆をおこない、辞書後半に機械的に日本語を見出しとするリバース・インデックスをつけたにすぎない。辞書の「要」とも言うべき用例は掲載できなかったし、組版も出来合いの辞書作成ソフトの出力機能に頼りっぱなし、という代物なのである。

確かに私は「辞書を作っている」。しかし、私のこの「辞書作り」はいまの段階ではとうてい「辞書編纂」などではなく、実際「辞書作り」と称するのも恥ずかしい。あえて言うなら「にわか辞書作り」とでも呼ぶべきものである。

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申し遅れたけれども、いま私が「にわかに作って」いる辞書は、題して『現代ウイグル語小辞典』と言う。見出し語一万七千語弱に日本語の語釈と熟語、同義語、類義語、一部の語源、そして日本語見出しのインデックスを付した簡易辞書である。くどいけれども用例は収録していない。

「現代ウイグル語(以下ウイグル語と略記)」ということばは世間にあまりなじみがないかもしれない。ことばの系統としてはトルコ語の親戚にあたり、ウズベキスタンの国語であるウズベク語とは兄弟のようによく似たこのことばは、中国の西端に位置する新疆ウイグル自治区をはじめとして、隣接する中央アジア諸国などで話されている。その文字は変則的なアラビア文字を使用する。今日の話者人口は推定で一千万人はいると考えられ、星の数ほどもある世界のことばの中では比較的大きなことばに分類されるだろう。あるいは本誌の読者のなかには、近年の中国からの独立運動に関する報道や、NHKの人気番組『シルクロード』を通じて彼らをご存知の方もいるかもしれない。

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そもそもこの私がなぜ「にわか」ではあっても辞書作りなんぞに手を染めることになってしまったのか。言っておくが私はことばの専門家ではない。新疆史を専攻する、どちらかと言えば出来の悪い歴史研究者であり、「手段」としてウイグル語文献を読んだり、その場の必要に応じてウイグル語を話したり書いたりすることはあっても、このことば自体を「目的」として取り組むつもりはもともとなかった。だいいち現代ウイグル語のレヴェルもそれほど高くない。新疆に二年暮らし、そこで自分なりにウイグル語を磨いたものの、日本人で私よりもこのことばの読み書き、会話に優れた人は少なくないだろう。

しかし縁あって大学で三年ほどウイグル語を教える機会があり、そこでウイグル語を学ぶための教材や、辞書のない不便におおいに煩わされることとなり、それが結局は「にわか辞書作り」へと私を向かわせることとなった。

日本語でウイグル語が学べる独習書は信頼できるものとしては竹内和夫の『ウイグル語四週間』(大学書林、一九九二年)のみだし、辞書も一九八二年にウルムチで出版された『維漢詞典』(現代ウイグル語―中国語辞典)を底本にした小松格『ウィグル語辞典』(泰流社、一九九三年)、飯沼英三『ウイグル語辞典』(穂高書店、一九九二年)が出ているけれども、どちらも絶版になって久しく、しかも授業を進めるうえでは使い勝手もそれほどよい代物ではなかった。お手製の粗末な教材と、絶版となった数百ページの対日辞書を毎年コピーしては学生に配り授業をするのはなかなか面倒なことであり、私はコピー機、裁断機そして製本機と格闘しながら、もし機会あらば、ぜひとも自分なりにウイグル語を学ぶための教材や、ウイグル語と付き合っていくための一定のボリュームの辞書を手がけてみたいと過分な志(妄想)を抱くに至ったのである。

この「志」は、三年にわたったウイグル語の授業が終了してからも、私の意識の中ではずっと蓄えられていた。しかし、具体的にどのようなかたちでそれに着手するか、という青写真のようなものは全然なかった。それがにわかに現実味を帯びてきたのはアジア・アフリカ言語文化研究所の「言語研修」でふたたびウイグル語を教える機会に恵まれたことによる。

アジア・アフリカ言語文化研究所(略称AA研)は東京外国語大学の付置研究所で、その「言語研修」は一九六七年いらいほぼ毎年実施されてきた、同研究所の基幹事業とも言うべきプログラムである。国内ではなかなか学びにくいことばを取り上げ、最大五週間、百五十時間にわたり研修を行う、ある先生の言葉を借りるならば「ブートキャンプ」さながらの、学ぶ側からすればまことに贅沢な機会と言えるだろう。教える側にしてみれば、この研修プログラムはプログラム独自の教材を作成し、それを実際の研修で用いる中でその教材の完成度を高めることが期待されており、一方的な「サービス」に終わっていないところが最大の特徴である。

それにしても盛夏の五週間を、土日の休みがあるとはいえ、ひたすらただひとつのことば(しかも、他ではなかなか学びにくい珍しいことば)の世界に浸るなんて体験は願ってもそうそう得られるものではない。このご時世にあって、この言語研修は存在そのものが奇跡にさえ思える。私がウイグル語言語研修の話をいただいた際に一も二もなく即座に承諾したのは、こうした伝統的、いや伝説的とも言うべき事業に一度は参与してみたいという長年のあこがれもさることながら、研修の教材作成の一環として、生臭い言い方で言うならばその予算を活用して、他でもないウイグル語辞書の雛形を作成することができるのではないかと考えたからであった。

さて、私の辞書作りに関して、まずもって大変幸いしたのは、記述言語学者である妻が専門家としてレキシコグラフィーの知識と経験を有していたということであった。言語研修の話が持ち上がったころ、妻はベンデ語と言うタンザニアのことばの語彙集(ベンデ語、日本語、英語、スワヒリ語の四言語対照語彙集)を出版した直後であり、タイミングとしては申し分なかった。妻からそのほやほやの辞書作りの段取りとノウハウにつき逐一レクチャーを受け、さらに妻が語彙集の作成に用いた辞書作成ソフトウェアの使い方を学ぶに及んで、戦略的にどのようなステップを踏めば、期日までに辞書とはいえぬまでも辞書の雛形のような語彙集を作成することができるか、という見通しが立てられたのであった。

さらにウイグル語はアラビア文字を使うことばだが、ほかのアラビア文字使用言語よりコンピュータ上での処理が格段容易な特性を有していることも大いに幸いした。アラビア語はじめペルシャ語、ウルドゥー語などの一般的なアラビア文字使用言語は長母音しか表記せず、短母音は読み手の側が適切に補って読むこととなっている。したがってアラビア文字から単純に機械的に長短の母音つきのラテン文字に置換することはまず不可能である。しかしウイグル語はアラビア文字使用言語としてはきわめて変則的なことに、母音が長母音、短母音を問わずすべて表記される。これはとりもなおさず、ラテン文字とアラビア文字の間の相互置換が可能であることを意味し、実際、あるウイグル人プログラマが開発したテキスト・エディタにはアラビア文字からラテン文字(これは一般にウイグルコンピュータ文字と呼ばれる)に一括変換させる機能がついているほどなのである。

この特性のおかげでウイグル語のデータソースはラテン文字による一元的な管理が可能なのである。ウイグル語アラビア文字のこうした変則性は二〇世紀初頭のソ連において、ゆくゆくは表音文字(ラテン文字やキリル文字)への転換を目指して暫定的に開発されたものではないか(そしてその暫定的であったはずの文字がどういうわけか中国領で今日まで用いられている!)と考えられるのだけれども、その変則性がはからずもこんなところで幸いしているということになるだろうか。

ここで「辞書作成ソフトウェア」なるものについてひとこと紹介しておく必要があるだろう。今回私が用いたソフトは合衆国のキリスト教系言語学団体「夏季言語学会Summer Institute of Linguistics (SIL)」がフリーで公開しているレキシック・プロ(Lexique Pro)なるソフトウェアである。このソフトウェアは基本的にユニコード(UTF-8)のテキストベースでデータを作成し、プログラムでそれをコンパイルして電子辞書に仕立て上げるというもので、UTF-8がカヴァーする文字を用いることばであればほぼ例外なく手軽に辞書を作成することができる。もちろん文字の並び順も自在にこちらで設定することができるし、その気になれば複数のことばによる対照辞書だって作成することができる。

テキストベースでタグによって情報項目を識別し辞書を生成する、というのがこのソフトウェアの最大の特徴である。コンピュータを用いて辞書作りを企てる人は、データベースソフトにとびつきがちだけれども、お気の毒ながらこれはまずうまくいかない。何なれば、―これは私淑するある先生の受け売りだけれどもーデータベースは表計算的発想、つまりX軸とY軸(タテとヨコ)の一対一の対応でもってデータを束ねていく。しかし普通の辞書の書式というものはは往々にしてそういう発想からは逸脱する振る舞いをするからである。単語の語義はひとつではなく、複数の語義を帯びている場合がほとんどである。また同音異義語の扱いをどうするかと言う問題もある。それ以外にも参照項目や同義語が複数にわたる場合はどうするのかとなると、一対一の発想ー表計算的なプログラムではどうにもうまく処理できないと言うわけだ。多少なりともデータベースや表計算を扱ったある人にはこの点はご理解いただけると思うのだが、どうだろうか。

いっぽうレキシック・プロでは、各見出し項目はそれを示すタグで区切られ、見出しタグと次の見出しタグで区切られたフィールドがすなわちひとつの単語のフィールドと言うことになる。見出しタグのすぐ後には見出し語が入力され、同様に発音記号、品詞、日本語語釈、日本語ふりがな、参照項目、同義語、借用語などが、それぞれのタグに情報を後置する形をとる。項目に対し情報が複数ある場合はスペース+セミコロン+スペースで区切ることになっている。また複数の語釈や同音異義語の取り扱いについてもそれぞれ特別なタグを付すことができ、それらをプログラムが適切に認識し、処理できるようになっているのである。

そしてさらに素晴らしいのは、このソフトが最初から紙媒体の辞書への出力とインターネットで公開する電子辞書出力を想定しており、何の苦もなく美麗な辞書の版下(リッチテキスト形式)とウェブ公開に対応したファイルを作ることができると言う点である。昨今の風潮はコンピュータを利用した辞書といえばすぐに電子辞書に発想が傾きがちで、言語研究者も電子辞書の構築や紙媒体の辞書のデジタル化には熱心でも、新たな紙媒体の辞書づくりには一般に関心が高くないように見受けられる。けれども、辞書を実際に使う側から見れば、私自身は辞書は紙のほうが使いやすいと確信している。電子書籍が紙の書籍に比べそれほど社会に受け入れられているわけではないのと同様に、需要の面からも、また機能面からも紙媒体の辞書はまだまだ電子辞書に一日の長があるように思われるのである。そういう意味においてレキシック・プロのこうした配慮はことばとの付き合いかたに対する開発者の見識の高さが窺われ、賞賛の念を禁じえない。

ともあれ、ことばは違うとはいえ辞書学の知見をもつ身内の存在、文字処理環境の担保、辞書の作成そして出版を支援するソフトウェアの存在といった心強さは、私に「にわか」ではあっても辞書作りをするうえで確かな見通しを与えるものだったのである。

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現代ウイグル語研修を担当することが決まり、教材のひとつという枠組みで語彙集の製作に着手したのは、研修本番まで八ヶ月を残した二〇〇七年の正月のことだった。

その最初のステップは見出し語のリスト化である。これについては底本のひとつである一九九二年に合衆国で出版されたヘンリー・G・シュワルツ編になる『ウイグル語―英語辞典』を利用した。高名なモンゴル学者であるシュワルツのその辞書もやはり前出の『維漢詞典』を忠実になぞり、かつ独自の増補を施した重厚な辞書である。この辞書は見出し語をはじめ記事がすべてラテン文字で示されているため、スキャンすればOCRによってたやすくその内容をコンピュータに取り込むことができる。比較的高額な辞書の背を落とすのは心が痛んだが、蛮勇をふるい背を落とし高速ドキュメント・スキャナにかけ、かくてその日のうちにシュワルツの辞書の内容はすべて私のコンピュータの中に収まった。

その次の作業は、既刊の対日辞書のデータをその作成済みの見出し語に対応するフィールドに入力していくことであった。こればかりは機械任せでは行えないので、言語研修の教材作成予算を活用し、アルバイトの方々に骨を折ってもらうことになる。辞書によってウイグル語の字母表記が異なっているので、私のほうでまずそれを対日辞書の字母にあわせ変換し、かつ対日辞書の並び順に見出し語データを並べ替える処理をまず施した。字母ごとに仕事を引き受けたアルバイトの作業者は、対日辞書の該当する単語の必要とされるデータ(語釈とそのふりがな)を黙々と指定書式に従って入力していった。

つづく作業は入力済みのデータを吟味し、クリティカルにそのデータの検討、増補、修正、場合によっては削除をおこない、かつ辞書作成ソフトウェアの書式にしたがって適切なタグを項目別に適切に配置していくと言う作業であった。この作業は人任せにするわけにはいかず、部分的に書式の整形を妻に手伝ってもらったほかは、すべて私が一人で行った。いちばん時間と手間がかかった作業であり、まさにこの辞書雛形作成の核とも言うべきタスクであった。

テキスト・エディタにむかって数十万行からなるデータの検討・編集を行うのは気が遠くなるような作業である。辞書作成専用に「ウイグル」と名づけたノートパソコンは常に私の手元にあり、ちょっとした空き時間、移動時間、昼と言わず夜と言わず、テキスト・エディタに書き込まれた辞書データの検討と編集は続けられた。たまたまそれは妻の出産の時期に重なっており、検診に訪れた病院の食堂や待合室、はては分娩の際に提供されたベッドの傍らや出産後の病室でもその作業は続けられた。そういうわけで、この作業にまつわる苦労は、私の中では長男の産声の記憶とセットになっている。

言語研修が始まり、前述のとおり「ブートキャンプ」さながらの修羅場が始まっても、私の辞書のほうの作業は終わらなかった。目を回す私の様子を見かねた妻は乳飲み子を連れて会津の山奥の両親の家に引っ込み、私は昼は授業、夜はその準備と辞書の作業に専念し、研修期間中に愛しいわが子の顔を見ることができたのは二度ばかり週末に会津を訪ねたときだけであった。

東京―会津往復の電車の中ではひたすらパソコンにむかっていつもの作業を続けていたのであったが。夜、ひとりで電車にのって東京に帰る途上、どこあたりでのことだったろう、外では大きな花火が上がっていて、遠くからは盆踊りの囃子が聞こえてきた。そうした景色を横目に、私は「なんて夏だろう」と一人愚痴ながらパソコンをたたいていたのであった。

その後、データの編集は何とかめでたくも終了し、研修期間内に受講生たちにはどうにか簡易製本による見本版を配ることができた。しかしそれは日本語見出し索引の「ら」行がまるまる欠けているなどとんでもない間違いがあり、編者としてはひたすら恥ずかしい限りであった。それからまたいくらか修正を施し、百部限定でめでたく出版されたのが『現代ウイグル語語彙集(附日本語ー現代ウイグル語索引)』(五三三頁、AA研、二〇〇七年八月)である。

本書を差し上げた方々からはそれなりのお褒めのことばをいただき、中には本格的に辞書代わりに利用して(もともと接着剤による軟弱な綴じ方であったため)ついに本をばらばらにしてしまったという若い方もいた。しかし難を言えば本書はウイグル語がどういうことばであるかと言う説明の記述もなく、また用例は皆無で熟語の記載さえなく、細かな記載事項にいたっては誤りが多数見られる不完全この上ない代物であった。

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さて、いまの私の「にわか辞書づくり」はその不完全極まりない旧版『語彙集』をあらためてAA研の『アジア・アフリカ基礎語彙集』シリーズの五十三番目の一書として、増補改訂して発行部数を大いに増し加えて出版しようと言う取り組みである。旧版では『語彙集』としていたタイトルも、この増補改訂版では『小辞典』と改めることとした。文法スケッチなどを掲載し一定の体裁を整え、誤りを可能な限り正し、かなりの数の熟語を新たに盛り込むことによって本書の実用性が飛躍的に向上しているように私には思われたからである。

こうした本書の質的な向上は、とりもなおさず言語研修の受講生やそれ以外の方々から寄せられた詳細かつ膨大な修正意見、そして発行元であるAA研が手配した査読者の方々の高度に専門的なご助言の数々に負うところが大変に大きい。私は何度も言うとおり「にわか辞書作り」に過ぎないけれども、本書が「にわか辞書」と呼ぶには出来すぎな、ちゃんとした質を有している部分があったとしたら、それはそうした方々のおかげに他ならない。私はただそういう方々に尻をたたかれながら手を動かしただけなのである。


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以上、私の「にわか辞書作り」は、苦労はなかったとは言わないけれども、「筆舌に尽くしがたい」難事ではなかったと言っていい。辞書編纂にまつわる、涙なくしては語れない英雄語りもない。

オーソドックスなイメージとしては、「辞書を作る」とは「辞書編纂事業」を意味するだろう。膨大な文献から書き抜いた言語情報をまず言語資料体(コーパス)として集積し、そのなかから辞書の見出し項目となる単語を吟味し選び出す。その過程で、たとえば一定期間における新聞での単語の出現頻度などが問題になることもあるだろう。見出しの採否もそれだけで大仕事だ。つぎに、個別項目につきその内容、すなわち発音、語釈、類義語、同義語、語源、そして熟語用例などをじっくり考察研究する。とりわけ用例は編纂者のセンスが問われる、辞書の要とも言うべきものだという。さらには印刷・出版の過程でもさらに複雑な工程が待っている。

辞書編纂とは、かように多くの手間を必要とする掛け値なしの大事業にほかならない。これまで多くの先達が個性的な辞書を世に送り出してきたけれども、その多くはこの大事業のなかで筆舌に尽くしがたいご苦労をされたのである。たいへんよくあると思われるのは、辞書編纂者が自分の畢生の仕事の成果を見ずに死んでしまうことで、そういう人の名前は辞書の責任表示の欄に「囲み」(=物故者を示す)で表示されることになる。死なないまでも、失明したり、親兄弟、妻子にとんでもない迷惑をかけたり、つくづく辞書編纂と言う仕事は、それをつくるひとを幸福にしない営為なのではないかとさえ思われる。

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私のこの「にわか辞書作り」は、ここまで縷々書いてきたように、既存の辞書の焼き直しのようなやくざな仕事だし独創性もない。妥協に継ぐ妥協の産物で私に出来るのは弁解以外の何ものでもない。はずかしいことこの上ない。しかし、それにしてもだ、もう作業もおおむね終わり、ほどなく辞書が印刷所から出てこようと言うのに、この仕事が終わった気がしないのはどう言う訳だろう。もうあんな地味な苦労はたくさんだし、他にも仕事としてやりたい研究や書きたいものが私には山ほどある。それなのに、この文は用例としてよさそうだとか、この語の同義語と類義語の区分をもう少し厳格に検討しないと、というような思いつきが依然として頻繁に私の意識をよぎる。そして単語の出現頻度や、適切な項目抽出のためのコーパスづくりのことが意識から去らない。それはあろうことか、厄介ごとというよりは、いつしか心地よい思考の営みになっている。

「にわか辞書作り」の仕事は終わったようでいて、実は死ぬまで続く大仕事のほんの始まりに過ぎないのではないか。そんな妙な不安を抱えながら、私はいま最初の『辞書』を手にする日を迎えようとしている。

[2009年9月 脱稿]

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喀什笊作り横町旧事

(かしゅがるざるづくりよこちょうきゅうじ) 

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以下のエッセイは、2009年にある文芸誌(だろうなあ、あれは)の依頼を受け、執筆したものである。入稿後その雑誌は予算不足により休眠状態となり、結果このエッセイは今なお出版されていない。あれからもう5年になるし、もしもあの雑誌がみごと復活を遂げたならば、その際は他のストックもないでもないので、これはここに示しておくこととしたい。ここで話題にしている文書の研究は、個人的には今まさに一番ホットな話題であり、今示すことにはそれなりの意味があるだろうと思われる。

(「研究余録」として、ご笑覧いただければ幸いです。)

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Documents


その場所は、カシュガル(喀什)という町でははありふれた横丁だ。別段人の目を引くような施設があるわけでなし、また道幅も大人が手を広げればいっぱいで、自動車も通行することができない。そもそも、外国人である私がその横丁に足を踏み入れる理由も本来はなかったのだ。

実際、見慣れぬなりをした私がその横丁に足を踏み入れれば、そこに暮らす人たちは「こちらの奥には何もありませんよ、道をお間違えでしょう」と親切な言葉をかけてくれることだろう。本当に奇妙なことだけれども、私がそんな遠い、中国の西端の町の、縁もゆかりもない横丁のことを気にかけるようになって、もう数年が過ぎた。

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笊(ざる)作り横丁、と私がこっそり呼ぶその場所には、もちろんその土地の言葉で「笊作り」を意味するいささか発音しにくい名前があるけれども、ここでは笊作り横丁と呼ぶことにしよう。その方が親しみやすいし、そのいかつい発音は正確には発音するのがちょっと難しいから。

ことのはじまりは世紀が改まって最初の夏のこと、その横丁ではなく、そこから少しばかり道を下った、ある裁縫屋の店先でのことだ。そのころの私はこの町の職人の暮らしにちょっとばかり興味があって、日本から用意した質問票を片手に、いろいろな職人の親方を訪ねては、やれ「あなたのお師匠はどなたになりますか」だの「お弟子さんは何人いますか」といった、初対面にしてはいささか不躾で図々しい質問を繰り返していた。若気の至り、というには不相応なくらいすでに私は年を食っていたけれども、そのときの私の振る舞い、図々しさは今思い出しても恥ずかしい。フィールドワークとは、どんなに周到に細心に気を使っても、多かれ少なかれ調査対象となる人々には不躾なものなのだ。「ある裁縫屋の店先」には、そういう不躾なインタビュー稼業にいい加減嫌気が差し始め、くさりながら町をぶらついているときにたまたま通りがかったのである。そして、足元に目を落とし、その刹那私の目はそこに釘付けとなった。

その店先にあったものは、お土産品として売られている古いコインやら紙幣の並べられた、その街中ではまあありふれたショウケースである。しかし、その陳列ケース部分の下の、まるで水槽のように四方をガラスで仕切られた部分におびただしい量の古紙が雑然と積み重なっている。思わず腰をかがめてガラス越しにじいっとみると、一枚、一枚に墨痕鮮やかなアラビア文字が書かれているではないか。牛乳瓶のふたほどの大きさの印章も押されており、それらが革命前の、古い契約文書の類であることは明らかだった。

もともとこの地域において、文書史料はその存在が絶望視されていた。この種の伝統文書はさきの革命のなか行われた土地改革の中で「人民」の旧体制からの「解放」を象徴づける定番のアイテムとして盛んに利用されたからである。つまり、公衆の面前でそれを焼却することで、人々を従前の社会の約束事から解き放つという「儀式」が行われ、それはこの地域に限らず、中国各地で等しくくりひろげられたのである。さらにそれから約二十年のインターバルをおいて、全中国で吹き荒れた「文化大革命」の動乱においてもそれは繰り返された。そういう歴史の経験を免れた文書類があろうとはーこの「発見」は大いに私を驚かせるものだった。

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「発見」された文書類のその後の運命についてはそれだけで一文をものするだけの面白さがあるけれども、ここでは省略しよう。紆余曲折を経て、文書の画像データはすべて私のパソコンに収まり、その後現在にいたるまで私はそれを読み続けている。そして、そのなかの一塊の文書の束が私と「笊作り横丁」を結びつけることとなった。

日本に帰って、まとめてプリント・アウトした文書のコピーを一枚一枚ざあっと眺めているうちに、その「裁縫屋文書」の一部にある種の傾向があることが程なくわかってきた。文書に必ず記される当事者の名前やその居住地名に重複するものがあり、ざっと六十点の文書がすべて「笊作り横丁」のある一家に関係する「家族文書」とでも形容すべきものであることが分かったのである。

文書の最古層は十九世紀の末葉、一八八四年に作成されたもので、アシュル・ビビなる女性がモッラー・ニヤズなる人物に「笊作り横丁」の六部屋からなる家屋を売却した不動産契約文書である。他方、最も新しいものはまさに文化大革命が進行していた一九六八年に、前述のモッラー・ニヤズの孫に当たるトゥルスンなる人物が家族のプロフィールを素描した覚え書きである。すなわち、六十点ほどの「家族文書」は一八八四年から一九六八年までの約八十年間の家族の社会経済活動を裏づける証拠資料と考えることができるだろう。言うまでもなく、その八十年は清朝から中華民国、そして二つの短命の革命政権(いわゆる「東トルキスタン共和国」)をはさんで中華人民共和国へと、この地域をめぐる政治体制に大変めまぐるしい変化のあった八十年である。

これら「家族文書」のなかで最も多いのが不動産の取引に係る文書である。売買、賃貸あわせて二十二点が不動産関連であった。これら不動産文書の記事によれば、くだんのモッラー・ニヤズを頭に以後四世代にわたるこの家族は「笊作り横丁」に居住し、世代を通じて不動産の取得と経営にいそしんでいたことが分かる。彼らはおそらくは家族の増加に応じて「笊作り横丁」の中で家屋を買い足したし、またカシュガルのまちの周辺に点在する農村にいくつか農地を購入し、それはその土地の農民に一年単位の契約で貸し出された。言うまでもなく、このような家族の不動産経営のあり方は、一九四九年の共産党の「革命」で糾弾された不在地主の典型に他ならない。

さらにこの家族はカシュガルの代表的な常設市場(バザール)であるアンディジャン街で布の商売に従事する商人でもあった。そのことを裏付ける店舗の共同経営者との契約書や、店舗の賃借契約書が残っている。この一家の商売はなかなか手広く行われていたらしく、文書に記された商品の仕入れ元や販売先と思しき地名としてコムル(哈密)、クチャ、ヤルカンド、ホタンといった他のオアシス都市の名前が見える。なかでもカシュガルの南東二百キロほどの所に位置する町ヤルカンドとの結びつきは強かったと見え、モッラー・ニヤズの子供たちのうち四人が一九三〇年代にカシュガルからヤルカンドに移住したこと、一九五四年にはおそらく父親から相続した「笊作り横丁」の家屋をそこに住む兄弟の息子(甥)に売却したことなどが文書の記事から確認できるのである。

それら以外にも、これら文書に記された情報は多岐にわたっており、家族が経験した係争(訴訟)や、こまごました物品の貸し借り、日照権をめぐる、近所との関係を窺わせるような文書、さらにはアズィズという名前の十一歳の少年の一年の丁稚奉公契約書などがある。これらの情報は家族の具体的な社会・経済状況を窺い知る上で有用であるばかりでなく、もっと大きな意味で、かつてこのまちの社会がどのような社会構造を有していたかという問題にアプローチするための材料をヴィヴィッドに我々の前に示してくれるのだ。

モッラー・ニヤズ個人にしても、またその家族にしても、それなりに富裕であったことは疑いないけれども、彼らは政治や事件を中心とする歴史の大舞台には何らかかわりを持たなかった。それゆえに彼らは普通の歴史記述(ヒストリオグラフィー)には何ら痕跡を残してはいない。彼らは世の大半の個人と家族と同様に、確かに存在していたにもかかわらず、沈黙のまま過去に去った普通の人々なのである。しかし、まったくの偶然から私が目にした文書の記事の数々は、いまや彼らを歴史の一部として甦らせようとしている。

*******

モッラー・ニヤズ一家の住んでいた「笊作り横丁」を実際に私が訪ねたのは、文書を読み始めてから二年後のことである。文書の記事から「笊作り横丁」があの一家の住所であることは明らかであったし、同じ地名の横丁がいまでもカシュガルに現存していることも私はつかんでいた。そこを訪ねて何をしようという明確な計画は何もなかったのだけれども、とにかくそこに私は行かなければならないと強く感じていた。行かなければ何事も始まらず、自分はそれ以上先に進むことが出来ないような気がしていたのだ。

二年ぶりにカシュガルを訪れ、知人への連絡もそこそこにまちに出て、通りの物売りなどに尋ねながら行くと、「笊作り横丁」はすぐに見つかった。そこはカシュガルの旧城壁にも程近い、昔ながらの旧市街の一角にあり、文書を発見した裁縫屋からもそう遠くないところであった。車も通行することができない、「タル・コチャ(狭い横丁)」とカシュガル人が好んで形容するところの、住人によってこの上なく清潔に保たれた典型的なカシュガルの伝統的街区がそこにはあった。

「こちらの奥には何もありませんよ、道をお間違えでしょう」

横丁の入り口に佇んでいた婦人が私に声をかける。

「ここは笊作り横丁、ですよね」

と私。

「ええ、この奥がずうっと笊作り横丁になります」

「それならいいんです。ちょっと人探しにきたものですから、ありがとう。」

人探し、とはつい口をついて出た私のその場しのぎの言い訳だったけれども、それを口にしながら私は内心「そうか、自分は人探しに来たのだ」と自覚した。私はいったん数歩進んでから、再び考え直してその横丁の入り口にとって返し、親切なその婦人に問いかけてみた。

「ずいぶん昔のことなんですけれども、この笊作り横丁にアフマトとトゥルスンという兄弟が住んでいたはずなんです。生きていれば二人とも八十歳は越えているはずなんですが、知りませんか。」

アフマトとトゥルスンは家族文書に登場する最後の世代、モッラー・ニヤズの孫に当たる。文書によれば二人とも笊作り横丁に居を構え、さきにふれたようにトゥルスンの方は一九六八年に家族のプロフィルを紙に書付け、その書付が残っている。この兄弟を親しく知る人があるいはまだいるのではないかと思っての問いかけだった。

「さあ、どうかしらねえ。ここの人のことはちょっと私には分かりませんね。ちょっとお待ちなさい」

そう言うと、婦人は横丁の入り口の傍らの家に消え、中でアフマトとトゥルスンのことを家人に聞いてくれているようであった。やがて家長然とした白ひげの老人が出てきて、言った。

「アフマト・アホンとその弟のトゥルスン・アホンなら、もう亡くなってずいぶんになるね。アフマトのほうは十年ぐらいになるかな。家はこの奥だ。あの家族はもう女たちだけになってしまったよ。ところであなたはどこの人かね」

日本からだと答えるとその老人と婦人は目を丸くして、いったいどういうわけで日本人が亡くなって久しい兄弟のことを嗅ぎまわっているのかと、ちょっとした大騒ぎになった。そうこうするうちに外で遊んでいる子供たちが集まり、私はその老人と婦人に先導され、子供たちをぞろぞろ引き連れながらトゥルスンの未亡人だと言う女性の家の戸口までやってきた。老人が戸をたたくと、中から女性が答えた。

「誰だい?(キムゥ?)」

「私だよ!(メン!)」

面識の有無を問わず訪問者と家人との間で交わされるウイグル人の常套的な受け答えの後、相当の年だとは思われたが、がっちりと丈夫そうな体つきをした大柄の女性が戸口に現れた。

女性はニサ・ハンといい、年は八十歳を越えている。トゥルスンと死に別れてもう二十年余りになるのだと言う。なぜ自分を訪ねてきたのかと言う問いに、私は自分が裁縫屋の店先で文書を見つけたこと、その内容をたどってここまできたことを正直に説明した。そして自分はこのまちの昔のことを調べており、昔の町の姿や、商売や暮らしがどうだったかを本に書くつもりなのだと付け加えた。やはりそれも口をついて出た、その場しのぎのでまかせに過ぎなかったのだけれども、それを口にしながら、再び私は、いずれきっとその本を書くことになる、と予感めいたものを感じていた。

「あらら、あの「紙たち」はこの人が買ったのかい。あれまあ日本人がねえ。あの「紙たち」はいつだったか、商人たちが来て二束三文で買い取っていったんだよ。あなた、あれをいったいいくらで買ったんだい?日本ではあれはいくらで売れるんだい?」

文書をぶっきらぼうに「紙」と呼ぶニサ・ハンは、私が骨董商か何かだと思っているのかもしれなかった。私はそれにはことばを濁しながら、用向きを繰り返した。

「知らないけれども、あの「紙」はウルムチの大学に納められるはずですよ。あの、ご家族についていくつかお聞きしたいことがあるんですが、よろしければ、ちょっとお時間をいただけませんか。」

私がそう言うと、ニサ・ハンは一瞬戸惑った表情を見せたが、やがて何か決意したように「ふん」とため息ともつかぬ音を出すと「いいですとも」と答え、私を戸口から中へ手招きした。私を先導してきた老人と婦人、子供たちもそこで好奇心ありありの表情を見せながら引き上げていった。

ニサ・ハンが一人で住むというその家屋は、あまり手入れがされておらず柱の塗装ははげていたけれども、往時は相当のお金をかけて普請したと思しい、堂々たるものだった。外の往来が石畳と白い壁だけの無機的な場所なのに対し、中庭は樹木の緑が目に優しく、小鳥のさえずりさえ聞こえる安寧な空間であった。土地の人が「スパ」と呼ぶ涼み台に座るよう促され、そこで私はニサ・ハンと向かい合い、私が文書から知りえたことをひとつひとつ彼女に話し始めることにした。

突然やってきた異邦人である私が、自分の家族の詳しい事情について語ることにニサ・ハンは明らかに驚いていた。私は自分の手控えとして、モッラー・ニヤズから彼女の夫であるトゥルスンの次の世代までの系図を作成し持参してきていたけれども、一人ひとりの名前を私が問いただすたびに、彼女は眼を見開いて、驚きとともに、私が挙げる名前を手掛かりに、自分の記憶を手繰っているようだった。

「…それから、ヤルカンドに親戚がいらっしゃいますよね」

「何だって、そんなことまで知っているのかい?あの紙にはずいぶんいろんなことが書いてあったんだね。ええ、そうですとも。ヤルカンドに親戚はいますよ。もっとも、もう何年も行き来をしていませんけれどね。」

私の手控えの系図の最後の人名のあたりまで来たところで、見るとニサ・ハンの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。そして彼女は、系図には書いていない、つまり私が読んだ文書には書かれていなかったその後の家族について話し始めた。

文書が明瞭に示すように、モッラー・ニヤズ一家は布を商う裕福な商人であった。しかし一九四九年の革命以降はさまざまな迫害を受け、往時の豊かさは失われてしまったのだという。革命政府の指導により、一家の財産はまちの百貨店への「投資」という名目で政府に差し出すことを余儀なくされ、それによって一家は一転して困窮することとなった。

「これを見ておくれ、あなたならどうにかできるんじゃないのかい?このお金を私は返してもらいたいんだよ」

そう言ってニサ・ハンは私にぼろぼろの紙片を示した。それは一九五六年に中国百貨公司カシュガル分公司(支店)がトゥルスンから四千元の投資を受けたという臨時証券であり、年利5%が配当されることが明記されている。他の文書類はすべて売り払ってしまったが、この証文だけはいつの日かひょっとしたら日の目を見ることがあるのではないかと思い手元に置いているのだとニサ・ハンは言い、この金を回収するにはどうしたらいいか教えてくれないかと私に尋ねるのであった。

「私の夫も、息子たちもみんな死んでしまった。私はひとりだ、ひとりぼっちなんだ。」

そういうとニサ・ハンはしくしくと泣き始めた。封印していた過去の記憶、今は去ってしまった家族の記憶が呼び起こされたのかもしれなかった。私は老女を悲しませてしまった自分の配慮のなさと、さりとて何ら彼女のためにしてあげられることがないという事実の前に。そこではただただばつの悪さを感じるばかりであった。


Kocha


文書に登場する最初の家長モッラー・ニヤズが亡くなり、その子供たちの一半がヤルカンドへ移住するかはしないかという時期(一九三〇年代)にこのニサ・ハンはカシュガルの他の横丁からその孫の嫁としてここに嫁いできたことになる。そのころはまだモッラー・ニヤズの妻も健在だったし、その子供たち(すなわちニサ・ハンの舅の世代)も孫たちも笊作り横丁の住民であった。文書から窺われる限りでは少なくともニサ・ハンを含め十人の成人がそこには居住していたはずであり、もしもモッラー・ニヤズの子供たちのヤルカンド移住前であればさらに四名が加わることになる。そこには子供たちは数に入っていないし、奉公人がいた可能性もないとはいえない。要するに、彼女が笊作り横丁で暮らし始めたころ、この一家は賑やかな大家族であったと想像される。家族は商売や所有する土地からの収入でそれなりに豊かな暮らしむきであったろう。

しかし、今やニサ・ハンは夫を亡くし、三人いた息子もすべて若くして亡くなり、いま家族の家でたった一人で暮らしている。同じく笊作り横丁の住人であった夫の兄アフマトも、その息子も亡くなり、その家では結婚しなかった娘と、出戻りの孫娘が二人で暮らしているのだという。

「私は一人だ」と言って泣くニサ・ハンの気持ちは、不遜かも知れぬが私もごく僅かではあっても共有するものだ。なぜなら文書や手紙に書かれた一家のくらしはそれほど想像力を動員しなくても十分にきらきらと輝きを帯びたものであったことがあまりにも明らかだから。そういう家族がかつてあった。その家族たちの笑いや幸福、そういうものを継ぐものが孤独な老女だけだとしたら、それはあまりにも悲しい。輝かしい過去は飛び去った。それは鈍感な私にさえ十分に心の棘となって突き刺さってくる。そう、それを老女の心に呼び起こしてしまったという自責の念とともに。

*********

あれから数年たち、私は今でも笊作り横丁と、ほかの横丁や村々の過去の姿を追ってニサ・ハンの言う「紙たち」を読んでいる。あれから幾度か私は笊作り横丁を訪ね、またニサ・ハンとも再会を果たし違う昔語りも聞いた。しかし、「きらきらした」笊作り横丁の旧事に関する「本」はまだ書けていない。


(本文の人名はほぼすべて仮名にさせていただきました)

[2009年2月 脱稿」


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【授業内容】「歴史的東トルキスタン概説」(青山学院大学)

次年度、青山で標記講義に取り組むことと相成った。国内でもめったにこういう枠組みの授業が開講されることはないので、「予定された椿事の記録」として、あらかじめその教案(シラバス)を示しておく。

「歴史的東トルキスタン」としているのは通俗的な意味での東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区のオルタナティヴな呼称)と区別するためであり、領域としては現在の新疆の南部地方(南疆)を指している。

この授業は青山の史学科の専門課程の授業であり、歴史学を学ぶ学学生が、いずれ卒論を書くための何らかの肥やしとなることが期待されている枠組みでの授業である。したがって授業もある程度の専門性は意識するものの、基本的には、後述するように「個別具体的なトピックの向こう側」を考える機会を提供することを第一の目的に置いている。 

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

青山学院大学 2015年度「東洋史特講」(木曜日3時限配置)

「歴史的東トルキスタン」概説("Historical Eastern Turkistan" An Overview)

本講は、10世紀の中央アジアにおける「イスラーム化」及び「トルコ化」によってその基礎が形成され、モンゴル帝国ならびにその後継諸国家、さらに清朝の征服(18c)等の歴史的変動の結果、ひとつの地域的枠組みを形成するに至った「歴史的東トルキスタン」地域(現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区南部地域に相当。六城ないしは7城、カシュガリア、小ブハーリア、回部、回疆、中国領中央アジア、中国領トルキスタンとも呼称される)に関する歴史的な諸問題を扱う入門講座です。「東トルキスタン」という、一般的にはなじみのない地域の歴史に関する個別具体的な問題を、現地語文献に依拠した文献史学の立場から、現時点での最新の研究状況を踏まえて学術的に眺めていきます。

本講はたまたま特定の一地域に関する歴史を扱っています。
しかし本講の目的はその特定の、ややもすればマニアックととらえられがちなトピック自体にはなく、その彼方にある、歴史を学び探究するうえでの「普遍的な命題や手法」を学び考えていただくことにあります。履修なさる皆さんは、それぞれのご関心にひきつけて、毎週登場する個別トピックを自由な立場から考えてみてください。そして、そうした考察の積み重ねを最終的には年度末に課すレポート(単位申請小論文)にぶつけていただければ幸いです(夏休みのレポートは、そのための中間報告という位置づけになります)。存分に語り合い、考える一年にしましょう。

※履修条件
当該地域史に限らず、ひろく人文学に関心ある方ならどなたでも歓迎いたします。
講義は基本的にEasy Japaneseで行われます。

講義の内容(全30回を予定)
1. ガイダンス: 「歴史的東トルキスタン」へのアプローチ
2. 序論 「地域」の枠組み: 東トルキスタンとは何か
3. 環境という視点: 東トルキスタンの地勢と気候、環境史概観
4. 歴史の「流れ」をどう捉えるか: 「シルクロード」論争をめぐって
5. 言語というファクター: 東トルキスタンの言語と文化
6 「東トルコ語」入門: チャガタイ語と新ウイグル語
7. 当事者は何を書き残したか: 東トルキスタン文献入門(1)
8. トラヴェローグと統治資料の価値: 東トルキスタン文献入門(2)
9. 地域はいかに「研究」されたか: 東トルキスタン文献入門(3)
10. 「歴史的転換点」の問題: カラ・ハーン朝史はマージナルか
11 .世界史の「モンゴル・ファクター」と東トルキスタン
12. 宗教の改革と「世界宗教」: イスラーム神秘主義の歴史的意義
13. 預言者とハーンの「融合」: 東トルキスタン史におけるホージャ
14. イスラームとの共存は可能か: 異教徒支配下の東トルキスタン(18c-)
15. 都市空間の歴史学: 「壮麗なるカーシュガル」は滅びるか
16. 後期第1回: 提出レポート10分プレゼンテーション
17. 国際関係と地域の歴史: 東トルキスタンの「グローバル」と「ローカル」
18. 歴史と表象: 東トルキスタン史はどう「消費」されたか
19. パワーポリティックスの陥穽: ヤークーブ・ベグ政権とグレート・ゲーム
20. 多様な信義と知性: 19世紀叛乱と『勝利の書』三篇
21. 多元的法秩序: 「新疆省」の実験
22. 小文字の歴史学: 東トルキスタンの地方(じかた)文書を読む
23. 民間信仰が動かす歴史: 東トルキスタンの聖者伝説と聖墓
24. 手工業職人の歴史学: 系譜、職業倫理、信仰
25. 歴史は作られる: 「東トルキスタン」「ウイグル」創出の問題をめぐって
26. ナショナリズムは「輝かしい歴史」か?: 二つの「東トルキスタン共和国」試論
27. 歴史的東トルキスタンの終焉: 農地改革(1950s)の歴史的意義とは
28. マイクロ・ヒストリー:家族の歴史から東トルキスタンをみる
29. 日本人と東トルキスタン: 漢籍アンソロジーからSNSまで
30. 「新疆史」と「東トルキスタン史」と歴史的東トルキスタン: まとめ

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内陸アジア史学会大会(2014)@東京外国語大学

さる10月25日(土)内陸アジア史学会大会が開催された。当学会の大会は隔年で西日本-東日本を往還し開催されることになっており、今回は昨年の龍谷大学の後を受け、東京外国語大学での開催と相成った。

当日は好天に恵まれ、秋晴れの素晴らしい天気の下での開催となった。無論学会開催はインドアなので天気は基本的に関係ない。しかし会場から見える旧関東村の秋景色は実に見事で、そういう美しい窓の外の風景と、やわらかな秋の陽光のおかげで、壇上から聞こえてくる報告者・講演者の先生方のお話も、実に心地よく耳に入ってきた。

今回のプログラム(研究発表と講演)は以下の通りである(副題は省略)。

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(1)研究発表
・前野利衣「17世紀後半ハルハ「ザサクト=ハーン部」の権力構造」
・吳國聖"On the bilingual correspondences in Qarï čor tegin’s epitaph (Sino-Turkica)"
・菅原純「省制期新疆ムスリム社会における債務弁済」
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(2)公開講演
・中見立夫「近代「モンゴル」、「東三省」における戸口調査資料について」
・吉田順一「モンゴル人の農耕」
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私の拙発表は別にして、どのお話も地に足のついたご研究の成果であり、興味深く拝聴した。

テーマがいささかモンゴルにかたよってはいないかという気がしないでもないが、これはひょっとしたら現在の当学会の構成メンバーの傾向(モンゴル関係の研究者が多い)を反映したものだろうか。もっとも、中見先生は(世間的な評価はともかくも)ご自分のお話の中で「本来私はモンゴル史が専門ではない」と仰せであったので、私のこうした印象は勝手な思い込みに過ぎないかもしれないけれども。

大会の全体的な印象としては、顔見知りの方が多く参加なさり、たしかに自分の帰属する社会のひとつがこれなのだな、と感じられるような「お馴染み感」一杯の温かみのある大会であった。と同時に、全く知らない「新しい顔」、若々しい学生さんの参加が少なかったのではないか、という印象の否めない集いでもあったように思う。

これは人文系のどの業界もだいたい同じらしいけれども、最近は大学院に入り、ひとつ研究でもしてみよう、と言う学生がかなりの減少傾向にあるらしい。当内陸アジア史学会においては、大会の総会部分で会員数の推移につき報告が行われるのが慣例である。そこで現有会員を世代カテゴリーで分類し報告してみてはどうだろう。なかなか怖い数字が出てきそうな気がするのである。

大会冒頭において会長の小松久男先生は、東京外国語大学の「中央アジア専攻」の開設という新たな展開につき言及なさり、こうした学科の学生たちが今後いくらかでも当学会に参与してくれれば、と希望を述べられた。本当にそうなってくれればいいと思う。ただ、実際は中央アジア専攻は地域研究という枠組みの学科であり、地域研究は、どちらかといえば社会科学的傾向が強い。そういう専攻の学生さんたちのいかほどが人文系の学問領域に目を向け、さらに「史」と名のつく学会の活動に参与してくれるか、はまだ分からない。これらは本当に中央アジア専攻の教員の奮闘に期待するしかないだろう(これは外語大ばかりの話ではない)。

さて、大会の研究発表についてもうひとつ。
今回はたまたまお声がかかり、私ごときが報告することになった(まあ、さだめし「お前は年はくっているが研究内容は若手レヴェルだ」と言うことなのだが(;´д`)トホホ…)。しかし「研究発表」枠はもっと若い人がすべきである。他のお二方はまあ若手だが、本当ならばさらに若い、修士課程の方の報告が一つぐらいあってもいい。

次年度より当内陸アジア史学会大会の研究発表は、これまでの理事会の指名制から公募制へと移行することが、総会にてアナウンスされた。これは当会の活性化という意味から歓迎されるべき改革である。どうか修士課程、博士課程の若い方々は、蛮勇をふるってエントリーしていただきたい。練れた、完成された研究など、そこでは(←コレ大事)はっきり言ってつまらない。若々しい情熱をもって、尖がった新知見を提示してほしい。

なお、当内陸アジア史学会の次回大会は京都外国語大学で開催の予定である。
(次々回は駒沢大学)

最後に、当会における私の報告の摘要を挙げておく。
こちらはあと400字ほど圧縮したものが次号『内陸アジア史研究』に掲載されるはずである。

* * * * *

省制期新疆ムスリム社会における債務弁済
―不動産「合法売却」契約の位置づけをめぐって―

摘 要

本報告は、省制期新疆(1884-1955)の、特にカシュガルを中心とする地域の社会状況を、法規範や社会制度の面から理解する試みの一つとして「債務契約」に注目する。具体的には、当時取り結ばれた債務契約文書(madyun)ならびに実質的な担保債務契約文書である合法売却文書(bay'-i jayz)の分析を試み、文書史料から窺われうる当時の「モノや金銭の貸し借り」の実態の一端を明らかにするものである。

カシュガルで作成され使用された債務契約文書は、同時代の他の契約文書(さらにいうならば中央アジア他地域の契約文書)と同様に、一人称の陳述(iqrar)の形式をとり、契約当事者の記載につづいて、債務の内容、債務期間(弁済期限)、債務不履行の際の対策などが定型文言と合わせ記載される。まず債務内容は「カシュガル文書」所収文書は圧倒的に現金による債務が多きを占めることが注目される。この特徴は1950年代の共産党による土地調査報告が示す、モノの貸し借りが中心であった農村部の状況とは対照的である。さらに弁済時期はモノに関しては先のデータ通り、農業の収穫期の返済が多いことが確認できる。他方、現金に関しては1年と年限を切ったものが散見されるほか、定型文言により「債権者の要求時」に返済する形式が少なからず(27%)みられる。さらに債務契約文書には、万が一債務が滞った場合の対策が明記されたものも多く、全体の4割を占める。その4割の中で約半分は保証人を立て、さらに半分は担保として債務者の所有不動産の処分を債権者に委任する契約が取り結ばれていた。さらに後者では不動産の処分形態も必ず明記され、一般売却(bay'-bat およびsatmaq)によるものと合法売却(bay'-i jayz)による2つの処分法(負債回収法)があった。こうした文書書式上の諸点は、当時の債務弁済の実態の一端を示しているものと考えうる。

つぎに合法売却(bay'-i jayz)は、上述のように債務不履行時の負債回収の手段の一つであったことが確認できるほか、一般的な抵当債務契約の手段として行われていたらしいことが、当時の文書規範集の記述からも推測できる。その基本的な書式は、磯貝健一氏が明瞭に示された中央アジア(ヒヴァ)のそれと基本構成を同じくしており、形式的な売却を行うと同時に売却者が一転同じ不動産の借り手となって、その賃料を実質的な利息として支払う形をとる。カシュガルの場合、その実質的な利息は1935年の一事例では年利16%ほどであり、これは年利100%~はなはだしきは300%であったと伝えるさきの農村調査データとはかなりの開きがある。ただし、いずれにしてもカシュガル文書中の合法売却文書は極めて希少であり即断はできない。このカシュガル文書における合法売却文書の稀少性(契約文書全体に占める割合は1%未満)は、全体の約24%を占めると言うヒヴァ文書における合法売却契約のケースとは極めて異なっているのである。これはカシュガルにおける債務契約、ひいては南新疆(歴史的東トルキスタン)の法秩序におけるイスラーム法の影響力に係る、ひとつの際立った性格を示すものではないか。

なお、本報告では、20世紀初頭にカシュガル地区で流通していた文書規範集所載の債務文書ならびに合法売却文書の書式と、報告者の収集になり、先頃新疆大学への移管を完了した「カシュガル文書」中の債務文書46点、合法売却文書5点を主たる史料として使用する。

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「書かれなかったこと」をめぐって

ここ数年の私は、文書史料に依拠してなんとか「新疆省」期のカシュガルあたりの社会史を再構築できぬものかと四苦八苦している。

才無き者の常ながら、その歩みは蝸牛のごとく、行きつ戻りつもあり、なかなかきちんとした成果には結びつかないのが「頭の痛いところ」である。いや、これはどう考えても「頭の悪いところ」というほかはないだろう(ここで「自分のばかっ」と一人つぶやく)。もう少し自分が勤勉でくるくる頭が回るのならよかったのに。

今直面している問題は債務弁済の問題である。
要するに、借金をめぐる問題が、手続きとしては当時の人々のあいだで実際にどのように行われていたと考えられるか、という問題である。この問題は一般的には看過されがちで、当の現代ウイグル人もあまり注目していないようだし(これは実は検証が必要)、歴史研究者も一種の思い込みで片付けてしまっているように見受けられる(というのも本当かどうか精査すべきだ、本当は)ように感じる。

新疆社会史の諸問題については、尊敬する姉御であるイルディ子・ベッラ=ハン教授が先年『新疆の社会問題』なる大著を出され、そこでは網羅的に省制期の諸問題が記述されている。そして借金の問題についても随所で言及があるのであるが、それは具体例を提示して裏が取れるという筋の情報を使っている訳ではない。つまり依然として仮説の域を出ない、というのが現状である。数学に例えれば、かなり確度の高い予想が提示されてはいるものの、まだ本格的な証明はなされていない状態、と言ったところなのである。姉御のご指摘では、どうやら新疆において利子の取得は常態化していたようで、"cash loans usuallv had to be paid back with interest(現金の債務はおおむね利子を付けて返済されねばならなかった)"(p.98)とある。これは明らかにイスラーム法上「脱法行為」であり現に慎まねばならぬことなのであるが、それを省制期のムスリムたち(現在のウイグル人のごく近いご先祖たち)はどう合理化していたのか。いや、そもそも実態とはその通りだったのか。

こういう問題に取り組むのは実はなかなか大変である。文書にまんま「利子を取るのは聖法に照らし、ちょっとアレなんだけど、でもただでお金を貸しても儲からないからXXX円ほど利子をもらっちゃうからね」などと書かれているはずもなく、形式にのっとり書かれていたであろう文書だけで事実関係を推測するのは困難である(程度の差はあれ、文書の文言と実態の乖離は我々だってかなり身に覚えがあるはずだ)。とはいえ、とはいえ、そもそも借金をめぐる文書がどういう形をしているのかを精査して知ることなしに「書かれなかったこと」を考察することは、さらに無理(ム~リ~)な話ではないか。そういうわけで、われわれはまず書かれたものの全体像を把握する必要があるのだ。ここから始めなければならない。

では、文書に取りかかるとして、具体的には、私は何をすべきなのか?
ここで最も基本的な問題として、借金の証拠資料である複数の債務関連文書が、どういう形で残りうるものなのか、ということをまずはシミュレートしてみよう。収集した膨大な数の雑多な文書群の中で、借金関係の文書を選り分けるのはそう難しくはない。そのうえで、それらの文書がどういう形で残存しえたのか、ということをここで少しく確認してみれば「どこに追究の目を配ればよいか」がもう少し方向性をもって明らかになるはずだからである。

債務には当然債務者(A)と債権者(B)が存在する。そして債務証書(madyun khat)を作成するのはほぼ間違いなく債務者の側であり、債権者はその証書を受領して金銭なり物品を貸すのである。
つまり、ここで(A)には(B)の起草した債務文書(madyun)が残り、(B)には金銭、物品がわたる。
モノの移動がここにはあるから、受領書(rasid)起草発給の可能性もないでもないが、常識的には債務文書がそれを兼ねているとみるべきか。ここは調べてみる必要があるかもしれぬ。つまり債務文書(madyun)とセットの受領文書(rasid)は存在するか否か。

つぎに、債務契約の期間が満了したとして、その場合、われわれの感覚では債務文書は債務者(B)に返却され、あわせて債務が適正に返済された受領書も(B)に対して発給されるはずである。これで契約関係は解消するわけだから、これが自然なやり取りだと考えられる。つまり円滑に返済が満了した場合、(1)債務文書は債務者の手元に(2)一定のインターバルを置いた日付の入った債権者発給の受領書とともに保管されるはずである。

では、万が一借金が返済できなかった場合はどうなるか。

ここではまず文書に不履行の場合の取り決めがなされていなかったケースを考えてみる。管見の及ぶ範囲では、訴訟文書にはそういう約束不履行、とくに借金返済が期限内になされなかったことに対する訴状が少なからず存在する事実を指摘しておきたい。その場合は債権者(A)が訴状を書き、提訴が行われ、それに対しもし不服があるならば債務者(B)が反訴を行うはずである。そして(A)(B)双方の言い分に叶ったファトワー文書が用意され、最終的には判決がおりるか、和解が成立し解決策が示されるはずである。この場合も、いずれにせよ案件が解決したのであれば、すべての文書、すなわち(1)債務文書、(3)訴状、(4)反訴状、(5)ファトワー2通、(6)判決書ないしは(7)和解文書などが最終的には債務者の手に渡った可能性がある。無論これはあくまで「可能性」として考えられる最大(最多)の場合であって、すべてが作成発給され保管されたか否かは別の話である。しかし、そういう可能性を考慮して探索の網は張っておくべきだろう。

つぎに、債務文書には債務不履行の場合の解決策が明確に提示されるケースも少なくない。よく見られるケースは「担保」物件(おおむね不動産物件であるケースが多い)を明示しておくケースである。この場合、不履行が確認された時点で債務文書の記載内容が効力を発揮し、(たぶん)不動産の所有権の移動が行われたはずである。その移動の形態は多くの場合「権利放棄(ibra)」すなわち贈与の形をとったものと考えられる。これで(1)債務文書はおそらくは債務者に返還され、(8)債務者が債権者に対して発給した権利放棄文書が債権者の手に渡るはずである。

さて、もうひとつの可能性は、債務者の所有不動産の「売却」が適用されるケースである。債務文書には少数ながら、債務不履行の場合は債務者が具体的な不動産物件の売却を行って、その対価(現金)を返済に充てる、という文言のあるものがある。この場合債権者はあくまで現金での返済を求めており、具体的な現金調達の「手段」を明示しているわけである。今のところここで示された売却の形態は(9)「合法売却契約(bai-i jaiz)」と(10)「完全売却契約(bai-i bat)」の二つが確認でき、従って債務文書と対をなす形での両種文書も探索の対象となるわけだ。さらにその次の段階としては、売却契約が成ったとして、そこで取得されたであろう現金をひとまず債務者が受け取った(*)受領文書、さらにさらにその現金を債務者が債権者に支払い、それに対し債権者が債務者に対して(11)受領文書を作成発給したはずである。。ただし(*)は不動産を売った相手に発給するわけだから債務者の手元には残らないわけで、これはひとまず考慮の外に置いてよい。ここで重要なのは(11)で、いささかペナルティ的性格を帯びた、債務不履行のひとつの着地点であると言える。

以上が通常の債務文書を軸としてみた債務弁済の関係文書である。しかしこれで終わりではない。

新疆の伝統社会においてはこのほかにもう一つ、重要な債務弁済の方法があり、これも検討の俎上に上げなければならない。それが上述の不動産の合法売却契約(bai-i jaiz)である。

不動産の合法売却(bai-i jaiz)契約とは、前にウルムチでの「講義」でふれたように、債務弁済のために仮想的に所有財産を売却し、同時にその不動産の貸し付けを受けることで借料を実質的な利子として支払う契約を指す。この場合、(9)合法売却文書が作成されるとともに、担保物件を即座に借り上げたことに対する(12)債務者発給の貸し出し不動産の受領文書(そこには利子相当の不動産の借料が明記されているはずだ)、(13)債務者発給の不動産(架空)売却代金の受領証書(つまり実質的な債務の金額が明記される)などが作成発給されたはずである。

そして、無事、債務の返済が行われた場合は、当然それは「買戻し」になるわけであるから、(14)債権者による当該不動産の売却文書がつくられ、債務者は自分が債務を負った際に作成した合法売却文書とともにそれを受け取ったはずなのである。

債務の返済が行われなかった場合は上述の債務文書の場合と同様に係争となり、最大限上述の(3)訴状、(4)反訴状、(5)ファトワー2通、(6)判決書ないしは(7)和解文書などが作成使用された可能性がでてくる。

今のところ考えられるのは以上である。ここでまとめてみよう。要するに、債務関係の実態にアクセスするためには、

(1)債務文書(madyun)
(2)一定のインターバルを置いた日付の入った債権者発給の受領書
(3)訴状、
(4)反訴状、
(5)ファトワー2通、
(6)判決書
(7)和解文書
(8)権利放棄文書
(9)「合法売却契約(bai-i jaiz)」
(10)「完全売却契約(bai-i bat)」
(11)受領文書
(12)債務者発給の貸し出し不動産の受領文書
(13)債務者発給の不動産(架空)売却代金の受領証書
(14)債権者による当該不動産の売却文書

等の文書が参照されなければならぬという訳だ。文書研究の道は、まだまだ険しい。

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91年目の新疆大学で-所有資料の移管と連続講義(5)

Anatopraq08
(Anatopraq toriより。どうも昨夏に坊主頭にして以来、髪が伸びるとズラっぽく見えるのは困りものだ。「こう見えて、ズラではありません」と念じながらインタヴュウに答える虚ろな私)


第3日目の講義内容は前の記事2つの通りである。冗長とは思ったけれども、あまり専門的な話に踏み込まずに「儀式への添え物の記念講義」として、抽象的な話に終始するよう意識したつもりである(実際はかなり踏み込んでいるようにも思える)。いかがであったろうか。

その日の席上では、この講義に対し、フロアからは(1)「文書研究において、あなたが一番難しいと思った点は何か」、(2)南疆文書は他地域の文書と比べてどういう差異が認められるか、ほかの質問が寄せられた(全ての質疑応答を記憶できなかったのは大変遺憾である。私は致命的に物覚えが悪い)。

まず最初の質問(文書研究上、私にとって最も困難に感じられた問題は何か)に対しては、言語上の問題はまあ当然として、歴史研究上、地名、特にマハッラ名のアイデンティファイが最も頭の痛い問題であるとお答えした。これは「中央アジア古文書セミナー」で講師の先生方もつとにご指摘なさっておられるところである。マハッラ名は時代ごとに変貌していくものであり、現在現地で聴取しただけで個別マハッラ名を同定するのはほぼ不可能である。偶々過去の一時点で記録されたマハッラ名のリストでも見つけられれば重宝するのであるが、そういうものもなかなか見つからない(例外は20世紀初頭のヤルカンドのマハッラ名で、こちらはM.Hartmannのハレ所在の個人文書コレクション中に現存する)。そして、比較的近代のマハッラ名であっても、居住当事者が憶えていないケースもよくある(私個人の体験では、結構な年かさの居住者が憶えていないのに、毎日そこを通過している、つまり外部者の老人が憶えている、と言ったことがあった!)。マハッラ名が分からない、つまり契約当事者が何処の人であったかが分からないと言うことは、居住地を軸として事実関係解明へ向け探索の網を張ることができなくなるわけで、歴史事実に具体性を担保する上では甚だ困ったことになるのである。無論文書を活用した研究としては、書式研究や法理論、法制の実態などの解明など、具体的な地名なしにもどうにかなる研究領域はある。しかしそれは私の「好み」とは些か違うし、到底能力も及ばない領域である。

つぎに、新疆文書の独自性について。私の第一の答えは「中央アジア文書との比較においては、その書式において新疆文書の形式は、基本的にop-oxshash(おんなじ)である」と申し上げた(これは席上大爆笑)。不動産文書にしても、他の文書にしても、多少の接辞の違い(これは口語の影響を顕著に受ける)や項目の多寡はあっても、基本的には術語も情報の並びも中央アジア(ヒヴァ、ブハラ、サマルカンド、フェルガナ)のそれと共通している。これはたとえ文書の使用言語がペルシャ語であっても同じことである。

しかし、そうした文書の実際の運用形態が新疆では「顕著に」中央アジアでのそれとは異なっていた可能性がある。たとえば中央アジア地域では大変大量に作成され使用された「合法売買文書(債務弁済のために仮想的に所有財産を売却し、同時にその不動産の貸し付けを受けることで借料を実質的な利子として支払う契約)」が、新疆では恐ろしく稀少であることなどが指摘できる。さらには中国文書との合壁も視覚的には顕著な違いとして指摘できるだろう。これらの特徴は、いずれも新疆におけるイスラーム法の有効範囲、もっといえば省制施行以降のイスラーム法、中国法(辛亥革命以降は西欧風の近代法)、そして慣習法の3つどもえからなる「多元的法秩序」(Legal Pluralism)が実際はどうだったんだ、という、ここ数年来の私の最大の研究テーマと深くかかわる問題でもある。※

※なお、上述の債務弁済に係る問題は、まさに目下研究中のテーマであり、その成果の一端は、きたる2014年10月25日(土)に東京外語大にて開催される「内陸アジア史学会大会」において口頭報告の予定である。


以上のように、お答えしたが、質問者の方にはたしてご満足いただけたかどうか。ともあれ以上の質疑応答を以て、無事移管契約式典は終了した。

続く時間はメディアのインタヴューである。天山網やウルムチ晩報ウイグル語版等の取材を受けたが、メディア側の質問は「ウイグル語はどこで学ばれたのか」とか「なぜ新疆大学の90年に際し、コレクションを寄贈なさろうと思ったのか」など、文書資料や文書研究の意義とは無関係の質問ばかりであった。

Img_1096
(メディアの取材を受けるA氏)

【第4日目(土曜日)】

第4日目は2つの既発表論文をそれぞれ講義の形で発表した。前日のやや世俗的なイヴェントと違い、この日は新疆のチャガタイ語歴史著作を通覧した研究で学位を取得したOや、欧州の大学で聖者研究で学位を取得したB、現代ウイグル語の接辞の歴史研究の専門家であるAなど、新疆大学を代表する関連領域の若手研究者が顔をそろえた、なかなか「話し甲斐」のあるレクチャーとなった。

(3)模板和实体:关于察合台地契格式(Ülgiler we emeliy höjjetler:Shinjangning köp xil qanunlar asasidiki yerxet ülgilirining qélipliri toghrisida)

Models


この講義は、つぎの論文がベースとなっている。
"Models and Realities: Aspects of Format in Real Estate Deeds under Conditions of Legal Pluralism in Xinjiang Province" in Birgit Sclyter, Ildikó Bellér-Hann and Jun Sugawara(eds.), Kashgar Revisited: Uyghur Studies in Memory of Ambassador Gunnar Jarring. Stockholm-Istanbul: Swedish Research Institute in Istanbul, Forthcoming (2015).

前半では3たびカシュガルのスウェーデン伝道団印刷所から出版刊行された文書集Khutut al-mutanaviに注目し、その書誌をプロトタイプの写本と各エディションの比較のうえで紹介、検討した。そして同書が文書用語の新旧対照語彙集のアルファベット順になる提示など比較的新しい手法を用いつつも、機能的にはイスラーム世界における文書書式集(shurut)と同じ役割を担っていたと結論した。

ついで後半ではその書式集における不動産関連文書書式(モデル)と「カシュガル文書」における同種文書(リアリティ)の比較を試み、モデルが中国支配下の便宜を明らかに意識した形式(中国暦の冒頭部分での併記、術語の簡便・明瞭化)を取っているのに対し、実際使用された文書は、必ずしもそうした規範に沿っているわけではないことなどを示した。


つづく講義
(4)关于喀什苏菲家族财产和瓦合甫诉讼(Qeshqerdiki sufi a’ilisining mal-mülki we weqfe erziyet ishliri(1841-1936)

Sufifamily

この講義もまた、次の既刊論文がベースとなっている。
"Islamic Legal Order in the Northwestern Frontier: Property and Waqf Litigation of a Sufi Family in Kāshghar(1841–1936)" in Zsombor Rajkai and Ildikó Bellér-Hann(eds.), Frontiers and Boundaries: Encounters on China's margins. Wiesbaden: Harrasowitz

この講義は、上述の通り、19世紀中葉から20世紀中葉までの、およそ1世紀にわたる期間、カーシュガルにあったあるスーフィ家族(具体的には文書資料に含まれる道統文書silsilaの記載から、ナクシュバンディー教団の一支、ムジャッデディーヤの北インドの系譜に連なる家族であることは明らかである)の歴史の素描を試みたものである。

「カシュガル文書」には60点余りのこの家族の文書が含まれており、その記事から、具体的家族構成や居住地の諸情報に加え、この家族がムジャデディーヤのハリーファを家長とする家族であり、少なからぬ家作とワクフの管財人としての収益により、比較的裕福な家族であったこと、この1世紀間にたびたび親族間で2度ワクフ管財権をめぐる係争があり、ありていに言うならば「1勝1敗」で最終的には管財権を喪失した。

特筆すべきは「カシュガル文書」のほか、現在ウルムチの個人所有になると推測される(しかし、コピーはウルムチを中心とする研究者間に幅広く流通している)1930年代に編纂されたと思しきワクフ関連文書の集成に、当家族文書のもともと1部をなしていたと思われる文書が3点収録されていることで、それぞれそもそものワクフ設定の文書と、最終的なワクフ追認の文書が含まれている。このいわば「カシュガル文書」の外部資料の存在により、当家族のワクフ管財権をめぐる係争プロセスがより明瞭となったのである。

当講義では、以上の諸点につき、実際の文書ファクシミリを交えつつ解説を試みた次第である。おそらくは怪しい英語の論文原文よりは明瞭に説明できたのではないかと自負している。文書資料は、このような形で未知の歴史を浮かび上がらせることができる、その可能性を提示してみたかったのであるが、果たしてその私の思惑は通じたであろうか。


ともあれ、以上長々と僅か6日間、正味4日間のウルムチでの用務をさして面白くもない語り口で書き綴ってしまった。今般の文書の移管と講義、そして今後の共同研究活動の推進が、当地地域史の解明に幾許かでも貢献できれば幸いである。


Img_1098
(おまけ画像。新疆大学建学90年に際し、人民解放軍が送った重厚なオブジェ。科技楼だけでもこんな重そうな大きなオブジェが2つ「でん」と鎮座していた。いったい大学全体でいくつ、このような贈り物が置かれているのだろう。中国ってとにかく大きくて重いものが好きですね。個人的にはこういう祝われ方をしたら家の床が抜けそうです。)

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91年目の新疆大学で-所有資料の移管と連続講義(4)

「南疆伝統社会文書資料:その概要と学術価値」(日本語訳)

※ややルースに、若干の加筆と訂正をしつつ訳しています。


20140919c
(央視網より。講義風景)

まず本日この場で、尊敬すべき皆さんの前で私の専門に係るこのような報告をいたす機会をお与えくださったことに心から感謝申し上げます。今回、私の手にあった文書資料が、新疆で最も古く、そしてもっとも大きな高等教育機関である、この新疆大学に落ち着きどころを得たことは、私のこの上ない喜びとするところです。今般このことの実現に、また本日のことごと一切を手配してくれた新疆大学の友人たち、そして全ての皆さんに、いまいちど大きな感謝を申し述べたく思います。皆さん、本当にありがとうございました。

本日、ここでお話しする私の報告の内容は次の通りです。

最初に文書資料、とりわけカーディ印章のある文書というものは何なのか、という問題があります。この学校に寄贈することとなった文書資料の書誌研究上の位置づけについてお話します。さらに今般寄贈することとなった文書コレクションの概要につきご紹介します。

つぎに、この文書資料なるものは、いかなる面で価値があるのか?いったい、文書資料などというのは、どんな点で重要な資料と言うことができるのか?というような文書資料の学術的価値につきましてお話します。

第一の問い:文書資料とは何か?

さて、まず文書資料の書写文献のなかでの位置につき述べてみましょう。

文書資料、わけてもその中でも主要な位置を占めるカーディ印章入りの文書を、その外観からご説明いたしますと、基本的に伝統的な桑紙、すなわち伝統工芸品のひとつであるホタン紙が用いられた、ばらばらの(1枚紙の)形状の書写資料と言うことができるでしょう。

解放前、伝統社会におきましては、人々がさまざまな形でたがいに交渉するなか取り結んだ約束事は、文字を介して取り結ばれたものの大部分では、カーディが一定の役割を担っておりました。家屋や土地の売買、債務、相続、委任、請け負い、そして係争など、さまざまな社会活動において(補、文字化された契約をとりむすぶ際には-)人々の間には、必ずカーディが介在し、契約書にカーディの印章を捺印していたのでした。カーディの印章入りの諸文書は、伝統的な社会生活のなか生み出された重要な書写資料なのです。

この文書資料で使用された言語につきましては、基本的に現代ウイグル語が策定される以前に南新疆のみならず、全中央ユーラシアで広範囲に用いられていた文章語であるチャガタイ語が用いられておりました。しかし18世紀に書かれた古文書、あるいは新しい文書でも、たとえばファトワー文書などには、数は限られますがペルシャ語で書かれたものがございます。

また、これら文書の作成年代につきましては、最も古いものは18世紀に書かれた物もあり、新しいものは1960年代までカヴァーしております。しかし大半は1880年代から1950年代初めまでの、いわゆる「新疆省」の時代に属するものが最大のプロポーションを持っております。こうした年代の分布は、たとえば新疆社会科学院の文書カタログ記載文書などとも同様の傾向であると言えるでしょう。
Table01_2

今回(新疆大学に)寄贈することとなった文書の総数は788点であり、その大半がカーディ印章入りの文書です。この788点のほか、さらに300点ほどの文書があります。それらは(補、私個人のものではなく)研究プロジェクトの活動のなか購入し、現在はウルムチの個人の管理下にあるものでして、それらも遠からず新疆大学に移管されることでしょう。そうなりますと、文書の総数は1100点ほどになります。

この文書の多くは10数年前にカシュガルのバザールで購入したもので、今日まで私はこの諸文書を「カシュガル文書(Kashghar Documents)」と呼んでまいりました。しかしながら、実際には、この文書の半分以上はカシュガル地区、とくにカシュガル市と疏附県で作成使用されたもので、残り半分はホタン地区、とくにカラ・カシュ(墨玉県)で取り結ばれたものなのです。したがいまして、たぶんこの文書コレクションに新しい名前をつけるのであれば、「カシュガル文書」は不適切かもしれません※。

(※注、文書移管の契約締結式では、契約相手のAblikim先生より「菅原コレクション(Sugawara Collection)」なるたいそうなお名前が提示された。しかし実際どう呼ばれるかはまだ分からない。菅原コレクションは、ちょっと偉すぎて「こそばゆい」感じがする。)

文書の種別につきましては、なお研究すべき余地が残されております。暫定的には次にあげるようになります。
Proportion_2

まず第一に大きいカテゴリーは「不動産関連文書」です。
これは不動産売却、不動産贈与、不動産貸し付け、不動産交換、などからなります。さらにワクフ関連文書も多くは不動産に関係しておりますから、ワクフを加えますと不動産関連の文書数はさらに多くなります。このような不動産取引の文書のプロポーションの大きさは、ほぼ世界的に共通した傾向では無いかと思われ、たとえばアラブ・ペルシャ語世界、中国内地などは同様の傾向があるようです。

第二の大きな分類は「係争関連文書」です。
この種の文書は提訴、ファトワー、判決、示談(和解)などからなっております。これらの文書は近代の南疆ウイグル伝統社会において、いかなる事件が発生していたかを知る上で便利な資料と言えるでしょう。提訴文書は実際に人々がどんな困りごとに直面していたかを、さらにファトワー他の文書は、人々がいかにそれを乗り越えていったかを教えてくれるでしょう。

さらに「相続文書」。概ねこの種の文書は、そのサイズが他の種類の文書より大きくなる傾向があります。この種の文書においては、遺産を遺贈する人物が、その贈与物につき極めて詳細な記事を残しています。この種の文書資料は、伝統社会における人々の財産状況を理解するため、たとえば財産目録のような形で使うことが可能でしょう。

第二の問い:文書資料の学術的価値とは何か?

さて、この文書資料の価値について、学術的見地からお話します。

私といたしましては、この文書資料はさまざまな分野において重要な資料になりうると考えております。

たとえば民俗学では、人々の信仰に係る過去の経済あるいは社会状況を理解する上で、他の資料からは得ることのできない新たな情報を得ることができると思います。さらに上述したように、相続文書で見ることができる細かな財産の名前に注意を払い、一つ一つを検討していけば、過去の時代におけるウイグル人の物質文化の詳細につき、この上なく明瞭に知ることができるでしょう。社会経済文書の基本性格を勘案すれば、当地の社会学や経済学に裨益することはいまさら申すまでもありません。文書の形式、使用された言語面に着目すれば、たとえば歴史言語学などにもよい資料になるかもしれません。

しかしながら、私自身歴史学徒でありますから申し上げますが、この文書資料が最も有効に活用されうるのは、やはり歴史学の領域においてでであろうと私は思います。文書資料は、現在もなお歴史研究においてよく読まれている歴史著作(historiographies)とは、また違った方向から光を照射する史料でありまして、その光から形作られる「影」は、必ずや私たちの歴史認識に新しい内容を加えることでありましょう。

文書資料は、著者が誰か、ほかの不特定多数の読者たちに知らしめるためにペンを執って書いた歴史著作とは事情が異なっておりまして、とても実際的な、時には緊急的な目的のために書き置いた書写資料です。現場で生起した諸事実を、著作物のように著者のものの見方や考え方をそれほど挿入させずに、普通の人々が日々の生活の中で書きとめたものなのです。文書資料のこうした性格に照らすと、文書資料とは、事実に余計な言葉を加えていない寡黙な歴史資料である、といったら、あるいはぴったりくるかもしれません。他の言葉で言うならば、歴史著作で存在するであろう著者の「メガネ」は、このような文書にはそもそもないのです。それこそがこの色もなく、レンズもない資料の独特の性格だと言えるのではないでしょうか。

このような資料からは、私たちは直接過去の時代に生起したさまざまな小事件を知ることができるのです。私は、これは実に重要な、文書資料の特質であると思います。これら文書を数多く私たちが研究に用いることで、歴史著作では知ることのできない、詳細な諸事実が明らかにされることでしょう。歴史著作においてはこれまで「名無し」であった、史料中には「ムスリムたち」や「群衆」で片づけられていた人々が、文書資料の活用により、(たとえ僅かではあっても)ひとりひとりの名前とともに立ち現われるかもしれません。今まで明らかでなかった歴史も、生き生きとした形で我々の目の前に出現することでしょう。

たとえば私は2年ほど前にドイツから刊行された論集で、19世紀から20世紀にかけ、カシュガル近郊に生きたあるスーフィー一家の家族史を素描いたしました。それは、その家族によって作成、使用された60点余の文書資料の利用によって初めて可能となったものなのです。

文書資料は、いまこちらで主流の歴史研究著作のように、この世界、この国家が、どこから来て、またどこへ行くのか?人類社会の未来はどうなるのか?というような問いには、何ら答えず沈黙することでしょう。しかしながら、こうした資料は、我々が思いを寄せる過去の時代の人々の表情を、社会のリアルな姿を直接見せてくれるのです。

それは、あたかも当地の文学における歴史小説と、日々の生活を叙述した短編小説の関係にも似ております。文書資料は、偉大なる歴史のメカニズムを我々に示すことはないのかもしれませんが、生活の中の人間の些細な、しかしとても重要な真実を我々に教えてくれることでしょう。

この美しくも華麗な新疆の未来、およびこの新疆大学の未来が輝かしいものになりますように。新疆歴史文書史料研究の将来も輝かしいものになりますように!

文書研究に多くの方が参加し、新疆学に、あるいはそれよりももっと大きな学術領域に、この新疆大学から始まって、新たな学術研究の潮流に貢献しうるならば、とても素晴らしいことだと思います。私も、力の続く限り、この学び舎の光栄ある未来に多少なりとも助力できれば幸いです。

ご清聴、どうもありがとうございました。


Img_1092
(スクリーン側から撮ってもらった写真)

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91年目の新疆大学で-所有資料の移管と連続講義(3)

Slide01

(アラビア文字がうまく配置できないので、以下現代ウイグル語ラテン文字転写にて。日本語訳は次の記事に掲載します。)

Aldi bilen bügün bu yerde qedirlik méhmanlar aldida kespim toghrilik mundaq doklat oqush pursetni ata qilghanliqinglargha chin könglimdin rehmet éytmen. Bu qétim qolumdiki hüjjet matériyallar, shinjangdiki eng kona we eng chong ali mektep mushu shinjang uniwérsitétida makan tapqanliqidin men bekmu xoshal boldum. Buni emelge ashturghan, hem bugunki hemme ishlirini orunlashturghan shinjang uniwérsitétdiki dostlirimgha, barliq kishilerge qaytidin katta minnetdarliqimni yetkuzimen. Rehmet silerge !

Bugun bu yerde sözlimekchi bolghan doklatimning mezmuni töwendikiche:

Aldi bilen hüjjet matériyal bolupmu qazi mohürlük hujjiti digen néme dégen mesile bar. Bügün bu mektepke teqdim qilmaqchi bolghan hüjjet matériyallarning yazma yadikarliqlar tetqiqatidiki orni toghrisida bayan qilimen hemde bu qétim bermekchi bolghan hüjjet matériyallarning omumiy ehwali, asas mezmunini tonushturimen.

Ikkinchi, bu hüjjet matériyal dégen qandaq jehattin qimmetlik bolidu? Zadi hüjjet matériyal dégen qaysi nuqtidin muhim matériyal déyalaydu? Dégendek hüjjet matériyallarning ilmiy qimmiti toghrisidimu sözleymen.


Birinchi su’al hüjjet matériyal dégen neme?

Documents

Emdi, aldi bilen hüjjet matériyalning yazma yadikarliqlar ichidiki orni toghrisida toxtilip ötey:

Hüjjet matériyal, bolupmu shuning ichidiki omumiy matériyal bolghan qazi mohürlük hüjjitini shuning körnushitin chüshendürsem, asasen en’eniwiy üzhme qeghizi, yeni uyghur en’eniwiy hüner sen’itidin biri bolghan xoten qeghizi ishlitilgen parche-parche shekillik yazma matériyal, dések toghra kélidu.

Azatliqitin burun, en’eniwiy jemiyette xelqler her xil shekilde alaqe qiliwatqan jeryanida tüzülgen wede-toxtamlar, yéziq arqiliq tüzülgenlirining nahayiti köp qismida qazi bir qeder mühim rol oynaytti. Öy-zémin élish-sétish, qerz, wesiyet, wakalet, kira hem sot ishliri, türlük ijtima’iy pa’aliyetlerde kishiler ottursida choqum qazi hazir bolup, toxtam xetke qaziliq mohurini basatti. Qazi möhürlük hüjjetliri, en’eniwiy ijtima’iy turmushida chiqarghan muhim yazma matériyal bolidu.

Bu höjjetlerde ishlitilgen tilgha kelsek, asasen hazirqi zaman uyghur tili meydan’gha kélishtin burun, jenubiy shinjangdin bashqa, Ottura Eurasiyining chong da’iride omumiyüzlük ishlitilgen edebiy til chaghatay tili bilen yézilghan. Emma 18-esirde yézilghan kona hüjjetler yaki yéngi hüjjetliridimu mesilen petiwa hüjjetliri ichide parsche yézilghanlirimu azraq bar.

Teqdim qilmaqchi bolghan hüjjetlerning yézilghan, pütülgen waqtigha kelsek, eng kona hüjjet 18-esirde pütülgenlirimu bar, yene eng yéngi hüjjetler bolsa qazi mohürisiz bolsimu 1960- yillarda yézilghanlirimu bar. Lékin qolumdiki hüjjetlerning köp qismi 19-esirning 80-yilliridin, 20-esirning 50-yillirighiche bolghan 70yil mezgilde pütülgen hüjjetler. Bu dewr del shinjang ölkisi dewrge toghra kélidu. Shinjang ijtima’i penler akadimiyisi din tetqiqat inistitutidin teyyarlighan katologning mezmunigha qarisaqmu, qazi mohürlük hüjjitining omumiy xaraktéri eks étidu.

Table01


Bu qétim bermekchi bolghan hüjjetlerning sani jemi 788 parche xet-chekler bolup, shuning köp qismi qazi möhürlük hüjjiti. Bu 788 parche hüjjettin bashqa, shuninggha qoshup yene 300dek hüjjetmu bar. Bu bizning tetqiqat pilanimiz pa’aliyiti dawamida sétiwélip, hazir ürümchidiki bir shexsi öyde saqliniwatqan idi. Bularnimu shinjang uniwérsitétige tapshurup bermekchi , buni qoshsaq jemi 1100 parche bolidu.

Bu hüjjetlerning köpinchisini on nechche yil burun qeshqerde bazardin sétiwalghan bolup, hazirghiche özem bu hüjjetlerni Kashgar Documents Collection dep atap kelgen idim. Emma rastini éytqanda, bu hüjjetlerning yérimdin köpreki qeshqer wilayiti, bolupmu qeshqer shehri bilen qeshqer konasheher nahiyiside pütülgenliki melum. Qalghan yérimi xoten wilayiti, bolupmu qaraqash nahiyiside pütülgen iken. Shuning bilen belkim bu hüjjet toplanmisigha yéngidin at qoymaqchi bolsaq, qeshqer höjjetliri (Kashgar Documents) dep atisaq anche toghra kelmesliki mumkin.

Hüjjetlerning xili-türi toghrisida téxi tetqiqat qilidighan mesililiri bar bolsimu, hazir waqitliq bileleydighanlirimizni éytsam töwendikidek bolidu:

Proportion

Birinchi, yer-zémin hüjjetliri.
Bu hüjjetlerning ichide eng köp tür bolup, yer sétish, yer bérish, yer ijarige bérish, yer almashturush qatarliqlardin ibaret. Yene wexpe namilirimu köpinchisi yer-zémin’ge a’it toxtam bolghachqa, buni qoshsaq yer-xetlirining sani yene köp bolidu. Buningdek yer-zémin’ge da’ir toxtamning sani eng köp bolush yüzlinishi dunya mediniyitide ortaq xarakter bolup, mesilen erep-pars tili dunyaside, hem xenzuche hüjjetlerdimu ehwal oxshash.

Ikkinchi chong tür, sot ishlirige a’it hüjjetliri bolidu.
Bu xil hüjjetler, erz, petiwe, höküm, kélishimlerdin ibaret. Bu yéqinqi zaman jenubiy shinjang uyghur jem’iyitide qandaq ishlarning yüz bergenlikini bilish üchün qolayliq matériyal dégili bolidu. Erz xetlerdin neq meydanda xelqler qandaq mesilige düch kelgenlikini, yene petiwe, hüküm, kélishimlerdin shu mesilini xelqler qandaq hel qilghanliqini bilgili bolidu.

Yene wesiyet hüjjetliri bolsa, omumen bu xil hüjjetning formati bashqa hüjjetlerdin chongraq bolup, wasiyet bergüchi miras qaldurmaqchi bolghan mal-mülükler toghriliq nahayiti mol melumat béridu. Bu xil matériyal, en’eniwiy jemiyettiki xelqlerning mal-mülük ehwalini chüshinish üchün, mesilen mal-mülük katalogi qatarda ishletkili bolidu.


Ikkinchi su’al: hüjjet matériyallarning ilmiy qimmetliki dégen néme?

Emdi bu hüjjet matériyalning qandaq qimmiti bar dések, bu su’algha ilmiy jehettin jawab bermekchimen.

Méningche, hüjjetler türlük kespler üchün bir qeder mühim matériyal bolalaydu dep qaraymen. Mesilen folklorshunasliqtimu, din-étikigha munasiwetlik burunqi zamandiki iqtsad, yaki ijtima’iy ehwallarni chüshinishtimu bashqa matériyallar bérelmeydighan yéngi uchurlarni béreleydu dep qarayman. Yene yuqurida éytqandek miras xetliride tilgha élin’ghan öy mülüklirining ismilirigha diqqet qilip bir-bir tetqiq qlip baqsaq, burunqi zamandiki uyghurlarning maddiy mediniyitning inchike ehwalini téximu éniq biliwalghili bolidu. Ijtima’iy-iqtisadiy hüjjetlerning asasiy xaraktirige qarisaq, jemiyetshunasliq, iqtisadshunasliq üchün muhim ikenlikige gep ketmeydu. Hüjjetning shekil-formisi, ishlitilgen söz-atalghulargha nezer salsaq, tarixiy tilishunasliqqimu yaxshi matériyal bolalaydu dep éytalaymiz.

Emma méningche bu höjjetler qaysi kesp üchün eng mühim dések, özem tarixshunas bolghachqa deymenki, tarixshunasliq üchün bu höjjetlrening roli bekmu chong we muhim dep ishinimen. Hüjjet matériyallar hazirmu omumiy matériyal qatarida köp oqulup ishlitilgen tarixi eserler bilen oxshimaydighan tereptin nurni bereleydighan matériyal bolup, shu nuridin shekillinip kelgen sayisi choqum bizning tarixiy chüshenchimizge yéngi mezmun qoshushi .

Hüjjet matériyallar aptori bashqa keng da’iriside oqughuchilargha, kitabxanlargha bildürüsh üchün qelem tutup yazghan tarixiy eserler bilen perqliq halda, bekmu emily, bezide jiddiy meqset üchün yézip qoyulghan yazma matériyal bolidu. Neq meydanda yüz bergen pakitlarni, eserlerdek aptorning pikir-niyetni anche kirgüzmey xelqler kündilik turumush jeriyanida pütülgen yazma matériyal bolidu. Höjjetlerning bu xarakteridin qarighanda, hüjjet matériyal dégen heqiqiy ishlargha artuq gep qilmaydighan mörimes tarixiy matériyal désem toghra kélish mümkin. Bashqa söz bilen chüshendürüp baqsam, tarix eserlerde eslidin bolghan aptorining köz eyniki bundaq hüjjetlerde yoq. Rengsiz, eyneksiz matériyal désimu bolidu.

Bundaq matériyaldin biz biwaste burunqi zamanda yüz bergen türlük kichik-ushshaq ishlarni bileleymiz. Men bu bek mühim ish, hüjjet matériyalning özgiche alahidiliki dep oylaymen. Bu hüjjetlerning köptin-köp oqup özimiz tetqiqatimizge ishletsek, tarix eserlerde bilelmeydighan tepsiliy pakitlirni bileleymiz. Bu pakitlarning hemmisi isimlik pakit bolup, tarixi eserlerde musulmanlar, yerlikler dep turghanlarmu hüjjet matériyallarni ishletsek isimlik bolush mumkin. Hazirghiche éniqsiz tarixmu janliq bir halette köz aldimizda namayen bolidu.

Mesilen men ikki yil burun gérmaniyide neshr qilin’ghan maqaliler toplimigha kirguzülgen kichik maqalemde 19-esirdin 20-esirghiche qeshqerde yashighan bir supi a’ilisining a’ile tarixini tetqiq qilghan idim. Bu a’ilede pütülgen 60 nechche parche hüjjetler bolmisa mundaq tetqiqatni emelge ashurushum mumkin emes idi.

Hüjjet matériyal, hazir omumlashqan tarixshunasliq eserliridek, bu dunya, yaki bu dölet, nedin kélip nege mangidu? Insaniyet jem’iyiti kelguside qandaq bolidu? Dégen su’allargha özi héchnéme gep qilmay süküt qilidu. Biraq, özimiz hés qilalaydighan ötken dewrdiki xelqlerning yüzini, jemiyetning heqiqiy körünüshni biwaste körsitidu.

Xuddi edebiyat ichidiki tarixiy roman bilen kündilik turmushni yazghan hékayilerning munasiwitidek, hüjjet matériyal ulugh chong tarixning qurulushini bizge körsitelmisimu, turmushtiki insan-ademning kichik emma bekmu mühim pakitlirini bizge bildurushi mumkin.

Bu güzel, ezizane shinjangning kelgusi, hem bu shinjang uniwérsitétining kelgusi nurluq bolghay, shinjang tarixiy hüjjetliri tetqiqatining kelgusimu nurluq bolghay, tereqqiy qilghay !

Hüjjet tetqiqatigha téximu köp kishler qatniship, shinjangshunasluqqa, ya shungdin chong ilmiy da’irisida, bu shinjang uniwérsitétidin bashlap yéngi ilmiy tetqiqat dulqunigha töhpe qoshalaydighan bolsa bekmu yaxshi ish dep oylaymen. Menmu küchümning yétishiche bu mektepning nurluq kelgusike az bolsimu yardem berelisem yaxshi.

Köpchilikke rehmet !

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