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転居とブログ名改称のお知らせ

Tsurumaki
自宅からほど近い鶴牧東公園のながめ


「信州伊那谷起居註」ご覧のみなさま。
私、このたび家庭の事情により、二年半に及んだ信州伊那谷の生活を切り上げ、ふたたび一家で多摩丘陵に住まうことと相成りました。

伊那谷在住中は「コミューター・スカラー」として、東京へのバス通勤を自分なりに楽しんではおりましたが、東京での滞在時間が限られ各方面にご不便をおかけいたしました。ここに、この二年半のみなさまのご高配に衷心より感謝申し上げます。

新しい住まいは、以前住んでいた稲城市の向陽台とは「尾根幹線」で直結している多摩市の鶴牧です(最寄り駅は唐木田および多摩センター)。稲城よりも奥まっているはずなのに、蔵書の充実した丸善があったり、シネコンがあったりと、個人的にはかつてない「都会生活」が送れそうで身勝手にワクワクしております。こちらは多摩中央公園鶴牧東公園、鶴牧西公園といった緑豊かな公園も近く、まあワイルド(猿や鹿や狸がいっぱい)であった伊那谷生活からの「リハビリ」には格好の環境と言えるかもしれません。きれいな景色や山や温泉が遠くなったのは実に淋しい限りですが。

転居に伴い、当ブログのタイトルも「多摩鶴牧起居註(たまつるまき・ききょちゅう)」へと改称いたします。

前の改称の際も申し上げましたが、今度こそは「起居註」というタイトルにいささかでも実態が近づくよう(とはいえまんま「起居註」では眩暈がしますが…)、きめ細かに間口広く記事を書いていければと思っております。

今年度は子育てと家事のほかに、3年に及んだ私の「マザール科研」の成果を4月中にまとめる、懸案のマザール論集にケリをつける(結局、信州では十分に時間が取れませんでした)、包括的なワクフ研究を仕上げる、ほかに某論文やら、某論集、某プロジェクト、辞書編纂のつづき、教科書執筆etc. など課題は山積みです。どうか今後もよろしく(本当に)ご鞭撻のほど、お願い申し上げる次第です。

2013年4月8日

「信州伊那谷起居註」改メ「多摩鶴牧起居註」
発信人 菅原純 識

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ボーダッシュ『さよならアメリカ、さよならニッポン』

マイケル・ボーダッシュ (著), 奥田 祐士 (翻訳)
『さよならアメリカ、さよならニッポン:戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか』
東京:白夜書房、2012/6/25、393頁。
(Michael BOURDAGHS, Sayonara Amerika, Sayonara Nippon: A Geopolitical Prehistory of J-Pop (Asia Perspectives: History, Society, and Culture).
New York: Columbia University Press, February 21, 2012, 304p.)


家人が『信濃毎日新聞』書評欄(9/30)でこの本を見つけ、アマゾンで注文したものが昨日届いた。呑気なアメリカ人による通俗的な日本の芸能界事情紹介本かと思い、軽い気持ちでキッチンで「立ち読み」したら止められなくなり、一気呵成に最後まで(多分にナナメ読みだけど)読んでしまった。意外にも骨格のしっかりした学術著作であり、さまざまな意味で勉強させられる、まことに有益な一書であった。

以下は例によって自分が感じたことをまとまりなく書き綴った、きわめて個人的な感想文である。はなから包括的な書き方は意識していないので、かっちりまとまった記述(たとえば、この本で大学のレポートを書くための参考になるような「有用」な記述)ではもとよりない。その点はいまからお断りしておく。

※ ※ ※

著者マイケル・ボーダッシュは現在シカゴ大学准教授として近代日本文学を教える、日本地域研究あるいは日本学の専門家であり、本書のほかにThe Dawn that Never Comes: Shimazaki Toson and Japanese Nationalism(NY, 2003)という著書も知られる。日本との縁は1984年に宮城教育大学に留学して以来のものであり、一貫して日本文化研究に取り組んできた気鋭の研究者であるとお見受けした。

本書の副題の原題は"A Geopolitical Prehistory of J-Pop"つまり日本歌謡曲(J-POP)の「地政学的前史」とあり、いわば日本歌謡を切り口として一定の時間軸の中における日本文化あるいは日本人の解剖を試みたものであり、至極まっとうな学術著作である(邦題ではこの副題は「戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか」とよりリーダー・フレンドリーな表現に置き換えられている)。

本書の構成は以下の通りである。
第1章 解放の音楽:黒沢明、笠置シヅ子と占領下の日本における自由への道
第2章 美空ひばりの位置づけ(マッピング):アジア人たちはどこに行った?
第3章 ミステリー・プレーン :坂本九とロカビリーの翻訳
第4章 体制内での仕事 :グループ・サウンズとノイズに秘められた商業的、革命的な可能性
第5章 ニュー・ミュージックと否定の否定 :はっぴいえんど、荒井由実とイエロー・マジック・オーケストラ
第6章 イエスと言える日本 :バブル後経済におけるバブルガム・ミュージック
解説対談:萩原健太VS湯浅学

本書を読んでいて思い出されるのは(語るに落ちる、かもしれぬが)ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』である。著者の筆致は戦後日本の社会史を活写したあの名著を彷彿とさせ、歌謡、あるいは歌謡界(「ミュージックする人々」)をめぐる「ものがたり」を通じて、ダワーとはまた違った形で我々の社会の姿を投影して見せたといえるかもしれない。ダワー自身、たとえば『リンゴの唄』などを効果的に利用しているのだが、ボーダッシュの本書はさすがに専論であるからして、その記述は多岐にわたり、しかも深い。

ダワーの著作の登場は、日本の戦後を扱った歴史研究においては大きな「衝撃」であった(と思うのだけれども、実際、日本史研究者はどう思っているのかしらん)。本来ならば日本人自身が書けるはず、いや書くべきであったテーマを、本来ならば日本人研究者のアドヴァンテージであるはずの日本語史料を縦横に駆使したアメリカ人研究者に、かくも見事に書かれてしまったのであるから。少なくとも私は、いかに日本の物書きや歴史学者の視野が狭隘で、かつ大きな物語を紡ぎ上げる意志(そして能力)が足りていないかを思い知らされたような、一種の敗北感をダワーの著作から感じたのである。「そんなことないよ」という意見もあろうが、少なくとも私はそう読んだ。

話がいささか脇にそれたが、ボーダッシュのこの本は、日本の歌謡というトピックについても、『敗北を抱きしめて』級のすばらしいモノグラフが出現するかもしれない、その可能性を示すものである。世の中に音楽評論家と言われる人は少なくないし、個別的な歌や歌手、業界史に関わる記事も既に相当の蓄積があるはずである。しかし単なる一業界の過去の回顧の枠を超えて、いったい日本とは何か、日本人とは何か、というよりラディカルな問いかけが立ち現れてくるようなものはあっただろうか。私は寡聞にして知らないのである。こういうアプローチを可能にするのは、ただ事情通であるだけでは到底十分ではない。やはり、社会や文化を適切な材料から読み解く人文学研究のセンスと技術、ーもっと踏み込んで、やや身贔屓して言うならば、実証的な歴史学のディシプリンー が必要なのである(ただし、著者自身は自分は歴史家でも音楽学者でもなく、文学と地域研究-「日本学」が専門だと述べている)。

ところで私は前段では「すばらしいモノグラフ」と断定せずに、やや歯切れ悪く「可能性」と言う言葉に止めたが、それには理由がある。本書の調査、執筆手法は卓越しており、本書に収められた各章の記事はいずれも優れたものである。それは疑いがない。しかし各章の扱ったトピックは時系列的に必ずしも途切れなく連続しているわけではないし、各章がそれぞれ有機的に結びつき、全体を構成しているというような一体性は見えにくい(つまり総体的には「モノ」グラフと言うのはほんの少し難しいかもしれない)。これは、そもそも本書が最初からひとつの著作として企図され書かれたものではなく、複数の媒体で発表された論稿を束ね出された、という事情に起因するものである。著者自身イントロダクションにおいてはっきりと述べているように、本書はあくまで「戦後ポップの地政学的私史」であって、包括的に戦後日本の歌謡を捉えようとしたものではない。イントロダクションで著者が、本書の副題になぜ定冠詞のtheではなく、不定冠詞aを使っているかに注目して欲しい、と述べているように、本書はあくまで私的な視点から眺めたひとつの歴史(小文字の歴史、と言い換えてもいいかもしれない)を提示したものなのである。つまり本書は意欲的でそれなりの感銘(と知識)を読者に与えはするが、このトピックはまだまだ書けること、書くべきことがあるはずであり、巻末の解説で萩原健太と湯浅学がいみじくも述べたように、戦後日本歌謡の「正史」はなお「書かれていない」と言わざるを得ない。

とはいえ(繰り返しになるが)本書はそれでも読み応えのある、パッチワーク的な面白さ(断じて皮肉を言っているのではない)に満ちた魅力ある書物であることに疑いはない。我々は個別の章を読み進めることで、確かにかつて我々社会の中にあった歌やその歌い手、それを取り巻く人々の息遣いを読み取ることができる。それは他でもない、我々日本人の「今」に確かにつながる、ひとつの社会の姿なのである。

それにしても、本書を読んで感じ入ったのは「翻訳」のマジックとでもいうべきものである。おそらく本書は横書きにして、脚注を配置し、さらに言葉遣いをより堅苦しく、いかにも「学術書」らしい体裁にすることもできたはずである。原書はいくぶん、ポップな外観を意識しているものの、日本語版よりはよほど地味である。こういう学術書はそれほど珍しくはない。しかし、日本語版の本書は様相が大いに異なっている。カバー装丁はどこまでもお洒落だし、商業出版物としてまあ常識的な体裁、すなわち縦書きで、注も末尾に置かれ、文体も以下にも親しみのもてそうなやわらかい文体になっている(だいいち第一人称は「ぼく」が採用されている!)。卓越した学術著作は、(無論全てではないだろうが)このように「手」を加えれば、実に魅力的な読み物になる可能性を持っている、ということを本書は示している。案外学問の振興などというものは、翻訳者や日本人著者の文体や、本の装丁などに一定の影響を受けるものなのではないか。-またまた「当たり前だろ」と言う声が聞こえてきそうだが、こういう点も今回、本書から大いに学んだことである。


最後に、身勝手な希望をあえて言わせてもらいたい。もしも著者自身が、あるいは本書のとった手法を継承するものが(いや、どう考えても著者ボーダッシュをおいて他にはいないように私には思われるのだが)いつの日か、このトピックに関する一本筋の通ったモノグラフを、つまり「定冠詞つき」の歴史を書くならば、それはある意味その扱われるトピックをはるかに超えた、日本の戦後史を総括するような価値を持つ「正史」となることであろう。そういうものを少なくとも私はぜひ読んで見たい。


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新疆虎について-昼下がりの寄り道-

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新疆虎の図(出典

原稿がさっぱり進まないので、読書に逃避していたら、プルジェワルスキーの旅行記(プルジェワルスキー著、加藤九祚訳『黄河源流からロプ湖へ』(世界探検全集9)、東京:河出書房新社、1978年)のあるくだりに目が止まった。

それはプルジェワルスキーが新疆虎(ロプノール虎)について書いた部分である(327-332頁)。彼が1883~1885年に実施した第二次チベット探検、その後半は新疆をチャルクリク-チェルチェンーケリヤ-ホタンーアクス(-ロシア領)のルートで旅行するわけであるが、ホタンからアクスに至る旅程でしばしば「大シカやトラ、まれにはイノシシ」の足跡を見つけたのだという(326頁)。プルジェワルスキーはそこから一通り旅程の記述をしたあとで、どうしても書かずにはいられなかったのか、あらためてタリム盆地の虎について、ページを割いて紹介しているのである。

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ニコライ・プルジェワルスキー(wikipedia)


プルジェワルスキーによれば、彼がその内陸アジア旅行で虎に遭遇したのは、ジュンガリアのイリ河谷、そして東トルキスタン(南疆-菅原注)の二箇所においてであり、虎は後者により多く生息していたと言う。より詳しくは茂み(ジャンガル)のあるタリム川、ロプ・ノール、ホタン川、カシュガル川流域が主たる生息地であった。

彼自身は虎と直接鉢合わせすることは無かったようだが、ロプ・ノール地方に居住するいわゆる「ロプ人Lopliq」から虎をめぐる興味深い話を聴取したと見え、旅行記には「住民(ロプ人を指す)」から聞いた話が紹介されている。以下、そのごく一部を箇条書きで示す:

・虎はその活動を夜に行い、音も無く移動し、獲物を見つけると15メートルにも達する大跳躍を行う。時には第二、第三の跳躍を行うが、それ以上の跳躍をすることは無い。そして、ときに虎はメスを呼ぶオスの大鹿の鳴き真似をして獲物を騙そうとさえする。

・虎の大好物はイノシシで、家畜の牛と羊がそれに続く。またオオシカ(マラール)、ウサギ、雁、鴨などを捕ることもあり、死んだ虎の胃袋から魚の骨が出たこともあると言う。

・この地の虎は、たとえ飢えていても、基本的に攻撃されない限り人を襲わない。人に出会うと普通は気がついていないふりをして(笑)遠ざかろうとする。

・虎は傷に弱く、弾丸1発で死んでしまう。しかし猟師たちはむしろ餌に毒(馬銭子=ストリキニーネ)を塗ったものを食わせて中毒にさせる手法をとることが多い。

・虎の吼える声は断続的で大きく、聞き苦しい。しかしそれを聞くことは(獲物に逃げられたときなど)まれである。

・通常虎のメスは2-4頭、まれに6頭に達する子を生む。多産のときは母虎が子を食べることもある。

プルジェワルスキーはさらにロプ人の虎狩りについて住民から聞いた話を2,3紹介しているが、これも長いので省略する。いずれにしても、新疆の虎がプルジェワルスキーをそれなりに魅惑したのはどうやら確かなようだ。


◆ ◆ ◆

そもそも新疆虎と言うのはどういう虎なのか。

新疆と付き合い始めて四半世紀になり、息子に虎之助と言う名前をつけておきながら、これまで私は迂闊にも新疆と虎を結びつけるのを怠ってきたのであった(なんたること!)。不明を恥じると共に、さっそくいつも頼りにしているグーグルで安易な検索を試みたところ、漢語サイトに一定の記事を見つけることができた。(件のプルジェワルスキーの記事に言及した記事もちゃんとあった)。

例によって漢語ウィキペディアの記事がよくまとまっている。それによれば新疆虎は学名をPanthera tigris lecoquiと言い、動物分類学上は絶滅種のカスピトラ(Panthera tigris virgata別名ペルシャトラ)と同じ亜種らしい。学名のlecoquiとはひょっとしてドイツの東洋学者ル・コック(Albert von Le Coq)に由来するのであろうか(←宿題その1)。現在はカスピトラ同様に絶滅種らしく、百度では1916年に正式に命名され(学界でオーソライズされたと言うことか?)、その年以後確認されていないとある。さきのウィキペディア記事などでは断片的な目撃情報がその後もあったらしいが、いまのところ絶滅種と考えるのが妥当なようだ。2002年には100万元の懸賞金がかけられ捜索が行われたようだが、再発見されたと言う話は聞かない。

カスピトラと同種、ということは外観は下に示すとおりやや長毛の虎だったのであろうか。見た感じ、何だか暖かそうでかわいい。こんな虎がいまや現存しないとは残念だ。

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カスピトラ(19世紀ベルリン動物園で飼育されていたもの

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これはアムール虎

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こちらはスマトラトラ

つまりプルジェワルスキーの記事は、(すべて信頼に足るのか、正確なのかどうかは分からないが)今は失われた新疆虎の生態と、住民と虎のかかわりを今に伝える貴重な証言と言うことになる。ほかにもヘディンがロプ地方の虎について書いており(たとえばヘディン著、鈴木武樹訳『チベットの冒険』(ヘディン中央アジア探検紀行全集3)、東京:白水社、1965年、65-66頁ほか)、それも同じく貴重な記事であるが、結局「新疆虎」の情報は、新疆の「探検の世紀」なしには現在に伝わらなかったと言うことになろうか。

◆ ◆ ◆


新疆虎について、当の新疆住民がいかなる知見を持っていたかといえば、おそらく虎と近接して暮らしていたロプ人や、同じような環境に暮らしていたドーラン人はそれなりの知識と経験を持っていたであろう。しかし彼ら自身は自分たちの知見を文字で書き残すという文化をその頃は持ち合わせておらず、上述の通り彼らを訪問した外来者がそれを書き残すこととなった。ひょっとしたら現在まで口伝えで残る歌謡(qoshaq)やことわざ(maqal-temsil)のなかに何らかの新情報が織り込まれているかもしれないが、私は不明にしてそれを知らない(←宿題その2)。

都市や農村に住む現在のウイグル人の先祖はどうかといえば、管見の及ぶ限りでは、彼らが新疆虎について詳細な情報を持っていた形跡はどうにも見出すことができない。虎(Yolbars / Bars)は干支にも入っている以上知らなかったはずは無いし、まれには狩猟の結果毛皮などがバザールにもたらされたこともあったろう。しかし、一般的にはその生態まで知悉することはなかったのではないか(まあ、虎の生息地ではない日本の住民よりは身近な存在だったかもしれないけれども)。

現在スウェーデンのルンド大学に所蔵される一写本(Prov.204)は、19世紀末葉、つまりプルジェワルスキーの旅行とほぼ同時代に、南疆のトゥルク人(ウイグル人)モッラーがチャガタイ語で書き綴った南疆ムスリムの風俗習慣に関するエッセイ集である。その一章に「害獣たちに関する記述vakhshi hayvanlarning bayani」と題する一章がある。虎については、

「…さらに一種(の害獣)は、yolbarsと呼ばれる。yolbarsは獅子(shir)ほど大きくは無い。yolbars, またはbarsは、獅子より細(inchika)く、その姿(suret)はネコ(mushuk)のような姿である。しかしこの野獣もまた肉食この上ない(khunkhvar yaman)野獣である。獅子が食らうものは何であれこれ(虎)も食らう。」(Lunds UB, Handskriftsavd, Gunnar Jarring Collection, Prov.204. no.20)

とあり、かなり漠然と虎が何であるか説明されている。ネコのよう、とは獅子のようなたてがみがないと言うことを意味するのだろうか。獅子より小さいというのは獅子が新疆に存在しなかった以上、伝聞であることは確実ながら、どうも具体性に乏しい感は否めないように思う。これは一般的な虎の説明を出るものではなく、「新疆虎」に関する情報としてはいまいち使えない。


◆ ◆ ◆


新疆虎は何故絶滅したのか。これはたぶん人間による乱獲が原因であろう(蟻が原因だという説はどうにも私は信じ難いのだが、どうなのだろう?)。ヘディンは上述の文献で虎を狩る猟師の存在を伝えているし、地元民のみならず、英国人をはじめとする外国人もさかんに狩猟を行っていた形跡がある。いわゆる「探検の世紀」は、一部では「狩猟の世紀」(<動物乱獲の世紀)でもあったようで、事実新疆には19世紀末~20世紀初頭もっぱら狩猟を目的としてこの地を訪問した外国人もいた(一例としてはこれとか)。この問題はいずれ時が来たら勉強してみたいネタのひとつではあるが、今は宿題としておきたい。

◆ ◆ ◆


さて、プルジェワルスキーはその旅行記の新疆の虎に関する記事を、こういう話題で結んでいる。

…ロプ・ノール住民の話によると、春と秋、水面の氷が割れやすいときには、トラはけっして氷上を歩こうとせず、イノシシを餌食にして一個所にじっとしている。何も食べるものがなくても、完全に氷結するまで、あるいは解氷するまでがまんしている。

真冬の寒いタリム盆地で、結氷した川面を歩く虎の姿はきっと映えて見えたに違いない。だが今はそうした風景は永遠に失われてしまった。まれにしか聞かれなかったと言う「聞き苦しい」虎の咆哮ももはや聞くことはできない。時間の流れの中で失われていくものは人の「伝統」や「歴史」だけではないのだ。

■ ■ ■ ■

【追記】
その後「ウイグルペディア」に新疆虎(Shinjang yolwisi) が立項されていることを、いつもお世話になっている小沢さんからご教示いただいた。ここに記して感謝申し上げる。この記事では上述したような基本情報に加え、ケリヤ地方のウイグル人猟師によるトラ狩りに関する比較的新しい記憶について、興味深い証言がいくつか紹介されている。新疆虎はどこかで今も生きているのであろうか。

さらに、余談ながら、情報収集の過程でロプ・ノールの地図が日本の陸地測量部によって作成されていた(1922)ことを知った。これは現在東文研所蔵と言うことであるが、カシュガルやクムル、グルジャなどもカヴァーされているようだ。縮尺100万分の1なのであまり参考にはならないかも知れぬが、どの程度の地名を把握していたのか実に興味深い。この地図につき、もし詳細をご存知の方がいらしたらご教示願いたい。地図実物はいずれ機会があったら閲覧してみたいと思う。

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暑中お見舞い申しげます。

Ina_summer
自宅の庭で育てているトウモロコシ。追肥をしたら見違えるように元気になった。


例によってずいぶんとご無沙汰で。

さて、この『起居註』は、そのタイトルに(全然)似ず、いわゆる「身辺雑記(生活の記録)」の体裁をとっていない。

何を食べたとか、だれと会って話をしたとか、世相に対しどういう所感があるのか、といったことは意識的に排除し、ひたすら専門研究に関わるトピックを淡々と書き綴ることをもって旨としてきた(つもり)。

言い換えれば、この『起居註』は、私という人間の身辺雑記ではなく、私の『お勉強脳』の活動記録ということになる。そういう意味を込めて「新疆史研究者の日々の記録」という副題を当ブログは掲げているわけである。

『起居註』の「主語」は、私という人間の「全人格」ではなく、「お勉強をしたり、人にものを教えたり、研究に熱中したり、その成果をしこしこ書いたりする」私の「一部分(でも私としてはきわめて大切に思っている一部分)」であるとここで再確認しておきたい。

-これはこのブログを読む奇特な方々に向けた宣言というよりは、私自身に言い聞かせるつもりなのだけれども。


しかし、
こうも「ご無沙汰」続きでは、「研究なんてうっちゃって、遊んでんじゃねーの」と自分自身に問いかけたくもなる。生きてるのか、自分?

実際、信州の夏は飛び切り美しく、青空の下でプール遊びをしたり、川遊びをする楽しさを数十年ぶりに思い出したのも確かである。

しかし、それでもお勉強は蝸牛の如きペースではあっても続けている。ただその仕事ののろさに焦り、また授業の移動時間(=理想的執筆時間)もないことから、当『起居註』の更新を怠っていたのも事実である。

無理をする気は毛頭ないけれども、

「夏休みの絵日記を怠けていることをちょっぴり気にかけている小学生」

程度には、襟を正したい。


遅まきながら本日から、当『起居註』は、気を少しばかり引き締め、更新に心掛けてまいります。


暑い夏、皆々様もお元気でお過ごしください。

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コミューター・スカラーの悦楽

昨日は相模原、そして本日は府中の東京外国語大学で「現代ウイグル語」を教える。

伊那谷から首都圏に遠距離通勤をしているわけであるが「東京」に来ているという実感は皆無である。そちらで移動するのは中央道元八王子バスストップ~淵野辺間と中央道府中バスストップ~多磨(東京外国語大学前)間だけ。町らしい賑わいは西八王子と淵野辺の駅前しかなく、あと八王子駅の乗換えがちょっと込み合うぐらい。火曜日の今日なんて西部多摩川線の「競艇場前」と「多磨」しか利用せず、通勤ルートにはコンビニが2軒しかない。つまり利用できるお店も伊那の方が遥かに大きく、買い物は全く楽しめない。

ようするに、通勤がてら首都圏にちょいちょい出てくるメリットはほとんど無い。わずかばかりの授業のために「はるばる」伊那谷から出てくることに意味があるのか、と思われる方もいるだろう(じっさい外語大のキャンパスでことばを交わした旧知の某先生は、「長野県」と言って絶句しておられた)。

しかし、負け惜しみではないが、私は今の生活が好きである。当初はどんなものかと思わないでもなかったが、実際暮らしてみると案外悪くない。むしろ東京にいたときよりも、さまざまな面で有意義に時間を過ごしているように思われるのである。考えてみると、これは曖昧な「感覚」の問題ではなく、ある程度「数値化」できる事実である。

たとえば長距離通勤の結果、伊那谷と首都圏を往復する時間(往復5時間強)がまるまる作業時間になった。いまの中央高速バスは無線LANが完備されており、コンピュータを開けば自宅にいるのと遜色ない通信環境である。メールの送受信、このブログの更新、ツイッターのつぶやき、授業の準備、史料の講読、論文の執筆と何でも出来る。現時点でバスの中でできないのは「辞書編纂作業」ぐらいのものであろう(私の辞書の仕事は自宅のキッチンで大型辞書をいくつも開き、場合によっては蔵書のいくつかを開いたりする作業の繰り返しであり、もはやキッチン以外の場所で取り組めるような体制になっていない。そもそもそれは早朝の仕事と決めているし、わざわざバスの中でやろうとは思わない)。

誰に邪魔されるわけでもなく、3時間弱「座っていなければならない」時間を毎週4回こなせるというのは存外お得なことではないだろうか。たとえば同じ時間を家やオフィスで過ごせたとしても、バス以上に仕事がはかどるとは思えない。いや、出来る人がいないとは言わないけれども、少なくとも私は無理だ。家にいれば庭の野菜が気になったり、掃除をしたり、トイレにこもって積んである「読みたい本」を生理現象のせいにして読みふけったり(なお、今トイレで開いているのはこれ)…本当にろくでもない。子供はかわいいが、子供と一緒のときは仕事なんて何にも出来ないし。

いまのような交通の便が確保できるのならば、遠距離通勤も悪くない。長距離バスで3時間前後かかるところにわざわざ住むのも「あり」だという気がしてきた。なんならフルタイムでこういう通勤をしたっていい。移動中なのだから外部からの通信は「謝絶」し、ウォークマンでお気に入りの曲を聞きながら、読み書きに深く深くのめり込むのである。

去年「伊那から東京に通うんだ。片道3時間だよ」と欧州のある友人へのメールに書いたら、彼女から「3時間ならいいじゃない。私は6時間」という答えが返ってきて仰天したことがあった。毎日ではないようだけれども、彼女は家族の住むドイツのザクセン・アンハルト州から職場のあるコペンハーゲンまで通っているのである。「通勤学者(Commuter scholar)の暮らしを楽しんでいる」という彼女(なお、彼女は優れた人類学者である)のメッセージを私は皮肉と受け取ったのだけれども、いや、これはガチで楽しんでいるのではないかと言う気が今はしている。多分電車の中で、飛行機の中で、そしてバスの中で、彼女は彼女なりに読み書きの時間を楽しんでいるのではなかろうか。世の中は雑用だらけ、ぼうっとしているとつまらぬ仕事が追いかけてくる。研究者は自己防衛のため乗り物に身を委ねて走り去り、そこに頭脳の平和を見出すのである。

少なくとも今年度中はこの「コミューター・スカラーの悦楽」を私は存分に楽しむはずである。出来れば来年も、いやその次の年も、飽きるまで続けて行きたいものだと思っている。

「時間がない」「忙しい」と言っているあなた、座席が確保されている交通手段のある「遠い」どこかに住処を求められてはどうですか?

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「元バカ学生」の「立ち位置」

連休明けの本日は青山学院大学(相模原)で基礎演習と原典講読の授業をこなす。

今年度は東洋史コースの、中国史以外の学生を主たる対象とする基礎演習を担当させていただいている。卒論につながる史学科の「基幹的」な講義であるからして、責任は重大だ。なんだかクラスの「担任」を引き受けたような気分である。来年のゼミを担当なさる先生方の足を引っ張ることのないように、学生諸君にはできるだけのことを学んでもらって、(相模原から)青山に行っていただきたいと念じている。そのためには「よい授業」、「自分が受けたかったような、面白くてためになる(月並み、紋切り型でゴメンよ)授業」をしなければならない。

これまでも私は「自分が受けたかったような授業」をしようと心がけてきたつもりである。「つもりである」というのは、実際それが難しく、授業のあとで「いやこんな授業は俺でも眠くなる」と自責の念に襲われることがしばしばだからである。大学で人を教えるようになってはや10余年。いつも授業をめぐっては後悔してばかり。なかなか成長を実感することができない。

そういえば昔、NHKの『シルクロード』でカシュガルの職人街が紹介され、そのなかで金細工職人(ゼルゲルチ)のおじさんが「こうやって長く仕事を続けていても、なかなかこれだというような出来のよいものが作れないなあ」とこぼし、もう一人のおじさんが「そう、それが職人だよ」と答えるという場面があった。実際に彼らがどうウイグル語で話していて、それが正確な訳であったかどうか気になるけれども、その「訳」された台詞はなかなか含蓄があるように思われたものだった。

「教育職人」であるところの教師もまたそういうものかもしれない。なかなか快心の名講義をなすことはかなわず後悔の連続。よって「ベター」を目指し修練あるのみである。

さて、私は学生の時分からよい先生を探す「アンテナ」が折れていたのか、あるいは本来ならば面白い授業を面白いと思うほどの資質に欠けていたのか、ともかく「いい授業だなあ」と思えるような授業は数えるほどしか受講できなかった。そう、少しはそういう授業はあったのだが、えてしてそういう授業は自分の専門の授業ではなかったりした。

たとえば、在学当時、学生の絶大な人気を誇っていた倫理学の小原信先生の授業は文句無く面白く、嬉々として授業を拝聴し、膨大な数の課題図書を読み、ばりばりレポートを書いた。また経済史の石川操先生を通じて私はマックス・ウェーバーと出会った(あいにく先生からは「C」を頂戴したけれども、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の精緻な理論には大変しびれた。後年それは誤解だったと思い至るのだけれども)。しかし、肝心の歴史学の授業では(たくさん出たのに)知的興奮をおぼえることはほぼなかった※。

私は自分の母校の教育の貧困を非難しているのではない。若い時分の私自身の迂闊さをここで嘆いているのである。

じっさい青山学院の史学科は、(あまり知られていないけれども)昔も今も極めて「贅沢」な講義メニューを提供している学科である。専任教員の数はまあ他の私学と変わりないけれども、非常勤教員の数は半端ではなく(確か数年前は100人以上いたはずだ)、毎年若くて元気のよい講師陣が学界最先端の知見を携え教育に邁進しているのである。このことは史学科の長老である気賀健生先生(英国史)が「史学科の誇りうるべきこと」として毎年我々講師陣に強調されていることであるが、実際その通りだと思う(他の大学の史学科の状況はいかがなものだろう。なお青山学院大学文学部史学科の総学生数は5-600人といったところである。)。

この大学の学生が享受できる学びの環境は実に多彩なメニュウに満ちており、それは私が学部生の頃だって同じであった。しかし私はその贅沢さが全く理解できておらず、地域やディシプリンを越えて学ぼう、などという(殊勝な)貪欲さも持ち合わせてはいなかったし、受けたそれぞれの授業の意図を理解する頭も持ってはいなかった。私は月並み以下の「バカ学生」だったわけである。

と、言うわけで私の授業をつまらなそうに聞いている学生(いや、彼らはかつての私と違い全然「バカ学生」ではないですよ!)の気持ちが私には大変よく分かる。自分の狭隘な(ゴメン)関心の範囲から外れるようなトピックはそもそも興味がわかないし、何とかその場をやり過ごせればいいな、と考えているのだと思う。史学科にいるのも、たまたま世界史の点がよく取れたから、漠然とした気持ちから史学科を受験しただけだし、学問に正面から取り組もうなんてなんだかカッコ悪い感じがする。しかしその一方で、何か面白いものは無いか、どこかにわくわくするような、新しい世界が開けていくようなことはないか、とぼんやりと願ってもいるようにも見受けられるのだ(えっそれ誤解??)。

そう言う漠然とした願い、潜在的な欲求に応えられるような授業をできれば提供してみたい。

それは、彼らと世代は違え同じ学窓で「退屈な時間」をあきれるほどに経験した元「バカ学生」であるからこそ出来ることなのではないか、などと私は愚考するのである(今だってまあバカだし)。正直な話、いま私が対峙している学生諸君は四半世紀前の私よりは素直で頭もよくポテンシャルは高い。正しい鍵さえ見つけられれば彼らの知の扉は一気に開くはずである。そして、そういう彼らに「決して満足しない職人」のような姿勢で向き合うというのが今の私の立ち位置と言うものなのだろう。

来週もきばるぞ。


※例外は3年の時に当時非常勤で出講されていらした小牧昌平先生(イラン史、上智大学教授)である。当時「新進気鋭」の小牧先生の実践的な「技術」オリエンテッドな授業は、当時偶々そういうものを欲していた私には「ストライク」だった。また、青山に引きこもっていた学部生の私を、イスラーム研究者の先輩方に引き合わせてくださったのも小牧先生である。そういう大恩ある先生には実に四半世紀にわたり無作法をしていることに今更ながら思い至った(先生、お許しください)。

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カシュガル旧市:地域コミュニティは失われるか

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カシュガル旧市東南の「東湖」対岸より旧市~人民公園方向をのぞむ。ここホントにカシュガル?

今回の調査旅行ではカシュガルに8日間滞在しました。もともと今年度はカシュガル地区の聖者廟を重点的な調査対象としていましたし、何よりも最近話題になっている都市再開発により、カシュガル旧城がどれほど変貌しているか、この目で確認しておきたかったのです。

新疆境外では、とりわけ在外ウイグル人団体の言説においては、カシュガルの再開発を、中国政府によるウイグル民族文化への圧制のひとつの顕著な事例として、真っ向から批判・否定・反対する風潮が明らかにみとめられます。それに対し、政府側の主張はどこにあるかといえば、一般に報道されているところでは、観光都市として都市基盤を整備する、そして地震対策として建物を一新する、ということにあるようです。この「破壊」をめぐる報道・言説はネット上にかなりたくさん存在しています。Kashgar demolitionあたりをキーワードにして検索してみてください。

そういうカシュガル市の変貌が実際のところ、どれほどのものなのか、ぜひこの目で見てみたい。いったい世間で言われているような「破壊」はどの程度進行し、そしてどのような「変化」をもたらしているのか?主目的の調査をよそに、そういう思いを持って私はカシュガルに着陸したのでした。

カシュガル滞在中は、暇を見つけては旧市街のなか、とりわけ旧トシュク門(コナ・ダルワザ)からイード・ガーフ(ヘイトカ)、カルカ・ダルワザを結ぶアリヤ路を軸に歩き回りました。どちらを向いても更地に次ぐ更地、馴染みの風景が一変しており、自分の知っているカシュガルがついに永遠に失われてしまったことを痛感しました。

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2003年8月のカシュガル旧市(東側の観覧車より撮影)

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2010年8月に同じ場所から撮影。ところどころ、更地が出現しているのが観察できる。

旧トシュク門からすぐのところにある某横丁、とくにその北半分のT街区(マハッラ)は、私にとってはかけがえのない研究対象の一つで、これまでたびたび足を運んでは住民の方にインタビュウなどを行ってきました。ところがその横丁の東半分が完全に更地になってしまったのです。この横丁にあった小さな祠(マザール)も消えてしまい、19世紀いらいここに住んでいた私のインフォマントのN家や近隣住民の人々の姿も見つけることができません。

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Tマハッラ。以前は見えなかった観覧車が見える。

以前はこの横丁は実に静かで、左右に壁があり、あとは青天井の「特殊カシュガル的」とも呼ぶべき独特の空間だったのに、今では高層住宅と観覧車が見渡せる広漠とした空間に変貌しています。ここはいくぶん高台になっていて、すぐ下にはアリヤ路が走っているのですが、建物が完全に撤去された今、その通りも丸見えでした。

かつてある人々の生活の場であった横丁が消滅し、そこにいま観察者の自分ひとりがぽつねんと佇んでいるというのは奇妙なものです。果たして住民はここに帰ってくるのか?マハッラは復活するのか?それは分かりません。見たところ、横丁の一部は新しい建物が建て始められており、ほぼ旧観どおりのものができるように見えます。しかし、そこに以前の住民は帰ってくるのでしょうか。帰ってきたとして、あの横丁住民の素朴な信仰の対象だったマザールは再建されるのでしょうか。

私は歴史研究者ですが、基本的にハード、つまり建物や道路、インフラストラクチャーの類は再開発しても構わないと思っています。カシュガル市はいまや人口35万人、大都市圏としては120万人をこす堂々たる大都市です(wikipedia)。にもかかわらず旧市街では依然として上下水道が完備されておらず、たとえばトイレも多くは公衆トイレに依存しています。また機会は少ないとはいえ、一旦雨が降ると小路(コチャ)は水で溢れ、もっぱら人力で排水せざるを得ないという事情もあります。

たしかにカシュガルを観光の目玉として、昔ながらの環境を見せるためには、手付かずの方がよろしいかもしれません。しかしそこには日々そこで生活する住民がいる以上、現代の「ものさし」にあうインフラストラクチャーを提供するのは行政の責任です。つまり、ロジックとしては、現下の再開発は安全かつ快適な市民生活を実現させるために行うべき施策として筋が通っていると言えます。それにむやみに反対する側の意見は、そこに暮らすカシュガル市民の利便性よりも、たまに訪問する観光客の目線、あるいは新しいものは何でも悪いという守旧的な立場から勝手な物言いをしている、という見方も成り立つでしょう。

ただ、それは「市民の暮らし」という大前提があってはじめて成立するロジックである、ということも忘れてはなりません。この再開発によって、もともとそこに暮らしていた「カシュガル市民」は受益者になることができるのかどうか、不公正はそこに存在しないか、という点はきめこまかくチェックされる必要があります。その点についてはカシュガル市政府ならびに関連部局の方々には注意を促したいものです。

個人的には私は、率直に、カシュガルの再開発とそれに関連して発生するであろう変化を残念に思います。ハードとしての通りや建物が破壊され、新しいもの(政府は基本的な景観は保全するつもりらしいのですが)に置き換えられるのは上述の理由からまあ致し方ないとは思います。しかし、政府がどんな保障をしようとも、そこに暮らしていた住民が100%もとの場所に戻って旧来の社会生活を続けることは不可能でしょう。事実、今回の調査のなかで、旧市内から近郊に庭付きの伝統的家屋を求め転居したケースをいくつか目にしましたし、旧市東北部に以前から建設されていた高層アパート群に、相当数の旧市住民が移り住んだとも聞きました。そういう人たちが再開発がなった横丁に帰還することはないでしょう。その代わりに、そうした伝統的な都市民とは異なった種類の「新住民」が新たにそこに住むことになるのでしょう。カシュガル旧市の地域コミュニティで脈々と受け継がれてきた都市文化の伝統は、ここ、21世紀初頭の一時点で断絶を余儀なくされることになります。これはもはや「起こってしまったこと」であり、取り返しのつくことではありません。

まちを作っているのはそこに暮らす人間であり、地域コミュニティです。カシュガルが歴史のなかで輝きを見せているのも、そこに暮らすカシュガル市民(sheherlik)があったからで、都市の住民がそれなりの誇りをもって伝統を積み重ねてきたからであるといえます。その伝統は、遺憾ながら、ひとまずここで断絶することになります。今後新しい「入れ物」の中で、新しい住民たちはどのような地域コミュニティを創造し、また育んでいくことになるのでしょう。些かの悔恨の情を抱きつつ、そういうカシュガルを私は今後も見つめて行きたく思います。

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旧市内鍛冶屋横丁に掲げられた再開発の新旧対照図(表)。なるほど大変結構です。万事こういう感じに行くとまあ良いのですが…

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同図(裏)。個人的にはこのお役所が所有しているであろう詳細な旧市街の図面が喉から手が出るほど欲しい。


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ウルムチの「楽園の時間」

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ここに「楽園」がある!

我々日本人が日々の忙しい暮らしの中で「ほっ」とする休息の時間をとるとすれば、それはやはり温泉、特に最近はあちこちに出現している都市近郊型の大型天然温泉などが、絶好の空間として想起されるのではないでしょうか。私の場合、徒歩圏のところにある天然温泉「季の彩(ときのいろどり)」や、よみうりランドに隣接する「丘の湯」はもはや生活に欠かせぬ大切な場所になっています。ストレス満点の日常からしばし解き放たれ、柔らかめの源泉に浸かっていると、明日からまた頑張ろう、という気にもなりますよね。

さて、ウルムチ市民の場合、そういう手軽な「くつろぎ空間」の一つとして、南郊の丘陵地帯があります。こちらはウルムチ市の延安路や団結路を車で登って行き、広大なムスリム墓地を横目に通りすぎてからすぐのところに位置しています。観光名所としての「南山」ほど遠くもなく、気軽にカザフ遊牧地帯の気分がまあ味わえる空間、と言ったらいいでしょうか。市内からは交通事情にもよりますが30分以内でたどり着けます。

ここにあるのは多少の樹木と小川、カザフ人の天幕と屋外に設えられた屋根付きの座敷だけです。漢族であれ、ウイグル人であれ、民族を問わずウルムチ市民はここに車を乗りつけ(あるいはタクシーでやってきて)、そこで果物を食べたり、カザフの乳製品を飲んだり、肉を食べたり、酒を飲んだり、お昼寝をしたりしてゆるーりと時間を過ごすのです。

いちおう言い訳めいたことを書きますと、私は自分の書いたものをこちらの比較的大手の文芸誌(現代ウイグル語)に載せてもらうための打ち合わせのため、その雑誌の編集長さんとそのお仲間と昼食後にそこにやって来たのでした。結果としてその「仕事の話」はそこそこに、馬の乳やら銘酒「伊力特曲」やら西瓜やらメロンを腹に詰め込むことになりました。

食べ物、飲み物についてちょっと書きますと、馬の乳はウルムチ市内でもときおり回族の行商の方が販売しており、彼らの「マー・ナイズー(马奶子)」という掛け声は、私目には「ウルムチの夏」を彩る風物のひとつです。とっても酸っぱいのですが、夏バテ対策にはこれ以上の飲み物はありません(昔、夏バテで悲惨な状況にあった私に、故ハジ・ヌルハジ先生がくださった馬の乳の味は忘れられません)。これを飲み、さらにとびきり美味しい西瓜をいただくと新疆にいる幸せをかみしめることができます。メロンは今年は雨が多かったそうで、味が今ひとつだったのがちょっぴり残念でした。

Foods
新疆の夏といえば果物、そして私的には马奶子(左)

「伊力特曲」は45度あり日本人には強いお酒ですが、こちらでは酒といえばこの種のものを指し、ビールやワインは「女子供の飲み物」(いや、まさか子供は飲まないでしょうが)と見なされがちです。昔は無理やり飲まされ死ぬような目にも遭いましたが、最近は当地のおじさんたちも(遺憾ながらというか歓迎すべき事態というか)軟弱になってきたのか、そうそう無理強いされることもなく、自分のペースで気持よく飲むことができるようになってきています。ホント、かつては「酒が飲めないやつはムスリムじゃない!」とか無茶苦茶な物言いで浴びるほど白酒(アク・ハラク)をあおり、見るからに「ダメな酔っ払い」ばかりだったあのウイグルおやじたちはどこへ行ってしまったのでしょうか。いや、それはひょっとすると、自分と自分の知人友人たちがそれなりに年をとってしまったからなのかもしれません。ああいう無茶苦茶なおやじたちが今では些か懐かしく思われます。

Supah
楽園のお座敷。ごろごろ横になって飲んだり食ったりは日本の「畳文化」にも通じるかも。


閑話中題。この日の顔ぶれは、北京で言語学の大学教授をしているAさんとか、漢語での詩作が高い評価を受けている詩人のDさんとか、古典作品の出版で地味ながら質の高い仕事をしているOさんとか、いわば当代を代表するウイグル知識人たちでして、図らずもそういう方々とウルムチの「ゆるタイム」を共有したわけです。あれこれ飲み食いしながら、爽やかな風が通り抜けていく快適空間で、あの口承文芸の伝承者が亡くなった、とか、この歴史年代記の写本がそこに、というようなマニアックな話題がぽんぽん飛び交うのはまあ痛快です。新疆に帰ってきたんだなあ、という幸せを実感できたひとときでした。

ずいぶん長居したようにも感じたのですが、そこに滞在したのは2時間ちょっと。たっぷりとエネルギーを充電し、皆さんとは握手をして別れました。北京のAさんはこれから直接空港に向かい北京に帰り、他の方々も「大都会」ウルムチ市内の職場に帰り、さらにひと仕事するのだとか。この「くつろぎ時間」は、彼らにとってはありふれた日常の休息時間なのでしょう。ウルムチなりの「楽園の時間」を垣間見たような体験でありました。

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現代ウイグル語のたくましい現在

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今日からしばらく、8月の新疆で見聞きしたことをちょいちょい書いていこうと思います。リアルタイムでレポートすることも考えないでもなかったのですが、あちらではあまり時間的・体力的に余裕がありませんで、ひと月遅れのレポートということになります。まあ気楽におつきあいください。

深夜ウルムチに到着し、翌朝安宿から外出して延安路界隈(農業庁~タタールモスクあたり)の変貌ぶりに些か愕然と致しました。以前はなかった高架の道路は走っているし、団結路まで軒を連ねていたウイグル語VCDのお店もことごとく撤去されており工事中。まあ街がきれいに整備されること自体は大変結構なのですが、そこで営まれていた商売や生活がどこへいくのか(いったのか)、その点が大いに気になるところです。個人的には現代ウイグル語VCDのお店の絶対数が減ってしまい、大変ブルーになりました。

さて、意気消沈して通りを横断するために地下道に入ったら↑上のような広告が目に入りました。irpanという会社は以前から現代ウイグル語の電子辞書を生産しており注目していたのですが、まさかここまで発展を遂げていたとは思いませんでした。PDAからネットブック、そしてちゃんとしたラップトップPCまで生産しているとは(!!!)お見事です。もちろん、筐体や部品はまさかカシュガルの職人街製(^^;)というわけではなく、中国内地から流れてきたものを組み立てているのでしょうけれども、最初からウイグル語化されたOSやソフトウェアを組み込んである(らしい)点がきわめて注目されます。

無論、現在のウイグル人の置かれた現実的な状況を勘案するならば、もっとも賢明な選択は漢語OSのPCを買い、補助的に現代ウイグル語のソフトウェアや入力ロケールを組み込むということでしょう。仕事やネットで得られるさまざまな便宜を考えると、漢語の方が圧倒的に「使える」わけですから。そこをあえてハードからはじめ、すべて現代ウイグル語ベースで提供するというところにirpanの矜持を感じます。

irpanだけではありません。2年ぶりの訪問で目を見張ったのは、「現代ウイグル語」プロダクツが以前にもまして独特の発展を遂げていることでした。発展というよりは「露出」といったほうがいいかもしれません。確かによく知られているように、教育の分野で現代ウイグル語の旗色は大いに悪くなっています。しかし、制度上担保される部分では、依然として現代ウイグル語は地域公用語としての地位を失ってはおらず、(テレビ、ラジオ)放送、政府布告、商店の看板、空港を含め公共交通機関のアナウンスなどは厳格に漢語とのバイリンガル、あるいは英語とのトリリンガルでの提供が厳格に行われているのです(あのコカ・コーラだってウルムチに工場ができてからは現代ウイグル語も表記されています)。

とりわけ今回感心したのは電子機器、電気製品の「現代ウイグル語化」が結構進んでいることでした。以前からケータイが現代ウイグル語化されていた(アラビア文字でメールも打てる!)ことは聞いていましたが、商店のレジやレストランのウェイターの持つPDA端末も現代ウイグル語になっているのには些か驚きました。下にお示しするのはカシュガルのお洒落カフェのレシートですが、ラグマンやポロを食べてこういうレシートをもらえるとは思いませんでした。

Bilingual_receipt
これ以外にも、目新しいものとしては表示も何もが現代ウイグル語化され、ウイグル人好み(と思われる)赤や濃紺のボディにアラベスク模様があしらわれた大型電気冷蔵庫なども発売されていました(結構売れているらしく、カシュガルのある普通の家庭で客間に鎮座しているその冷蔵庫を見かけました)。調べてみたら他にもいろいろ発売されているのかもしれません。現代ウイグル語プロダクツは要注目です。

世間で言われているように、現代ウイグル語の置かれた状況は確かに厳しいかもしれません。しかし私見では現代ウイグル語話者が享受している現在の言語環境は、それでもウズベキスタンのウズベク人やカザフスタンのカザフ人、クルグズスタンのクルグズ人たちよりはよく整っていると思います。それはひとえに新疆の出版人やirpanのような民族資本の矜持の発露として捉えることも可能でしょうし、(違うという人も、信じたくない人も多いでしょうが)中国の少数民族政策の周到さといってさえ良いと私は思います。まあ、この点はまだまだ検証が必要でしょうが、今回の旅は現代ウイグル語のたくましさ、元気なところを確認できた旅でもありました。


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ささやかな幸せの話

2週間ほど前のお話。舞台は私が購読している新疆研究のメーリング・リスト。
常連寄稿者のV.M氏の何気ない投書に始まったある議論は、久しぶりに「ことば」というものの面白さと、インターネットのもつ即時性、超地域性を実感させてくれるものでした。議論の種となったのはV.M氏が示したこの写真↓

http://www.bikechina.com/images/tours/adelebikes/photos/photo12.html

これが何というものなのか?という問いかけでした。

新疆ばかりでなく、中国の大都市を歩いたことのある人ならば、結構見慣れているウイグル人のお菓子ソクマック(soqmaq/縮克馬克)あるいは漢語の「核桃仁糖」というのがまあその答え。ところが話はそこで終わらずに、北京にウイグルのものとは別ながら、形状もよく似た伝統的なお菓子「薩其馬(sachima/M.sacima)」が存在することがこれまた常連寄稿者のE.Hさんの指摘で明らかとなり、以後MLの組織者J.M氏や言語に堪能なE.S君、そして身の程知らずながら私もしゃしゃり出て、この言葉についてひとしきり活発な議論がなされたのです。

結果として満州語には18世紀あたりにこの語彙は登場し、俗説ながら新疆から言葉と実物がもたらされたらしいこと、soqmaqにしてもsacimaにしても「切る」とか「潰す」のような動詞語幹が元になっている点で共通しており、なんらかの関係が考えられること、またモンゴル語にも18世紀ごろにすでに似た語彙(cabcimal)が存在していること、などが具体的典拠つきで(みなさん、こういうところはネットでも堅実です)提示されたのでした。ある人はランチタイムを丸々潰したり、蔵書をぺらぺらめくったり結構なエネルギーを使ったようです。そういう私も手持ちの辞書類(たとえば『御製五体清文鑑』)を手当たり次第に引いてみたりしたのでしたが、それぞれの方がその議論を楽しんでいるらしいことが伝わってくるのは快い体験でした。

あまり詳しく書くのもしんどいのでごくごく略述いたしましたが、殺伐とした新疆騒動関連の有象無象の情報が飛び交う中で、この種の議論はまことに健全かつ意義深く感じられ、個人的にはささやかな幸せを実感した次第です。今を生きる私たちは、どうでもいい忙しさにかまけて、往々にしてこの種の素朴な「知ることの面白さ」を忘れがちなのですが、こういう感覚は忘れずにいたいものです。

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