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いまさらの『武士の家計簿』雑感

週末は南会津で過ごした。

そこで、赤ワインをいただきながら、久しぶりに『武士の家計簿』映画版をBSでふたたび鑑賞した。原作も映画そのものもずいぶん前に読んだり見ていたりしたのだけれども、幾度見ても、かつての加賀の武士の生活の営みが淡々と描かれた、私好みの作品である。

2度見るとつまらぬ細部に目が向くもので、主人公猪山直之の嫡男成之が地面に落としてしまった貨幣を数える場面で、その貨幣に満洲文字が刻まれているようにみえた(だとすると乾隆通宝などの清代貨幣のはずだ)。あれはいったい当時流通していた貨幣なのか、などと、ドラマの本質とはあまり関係のない部分でもすっかり楽しんでしまった(注1)。

その後『武士の献立』なる映画も、おそらくは『家計簿』の二匹目のドジョウを狙って制作公開された(こちらは遺憾ながら私はまだ見ていない)。しかし、私見では、『献立』はその成り立ちもバックボーンも『家計簿』とは根本的に違う。何といっても『家計簿』は、歴史学者が文書史料を駆使して紡ぎえた研究成果を出発点としており、映画そのものの評価とは別に(失礼な話だ)、歴史学徒として何はさておき目を引き付けられる代物だからだ(注2)。

磯田道史氏(現在静岡文化芸術大学准教授)のご高著を原作とするこの映画は、学問、しかも手堅くも精緻な歴史学研究の成果が、映画産業という(学術出版事業に比べれば、桁違いに)経済規模も社会へのインパクトも比較的大きい事業に転化しえた、極めて珍しいケースである。歴史研究者ごとき(失礼!だがこれは自嘲も含めている)の書いたものが、堺雅人(リーガルハイ~半沢直樹)や仲間由紀恵(TRICK~ごくせん)などが出演する一大エンターテインメントたりうるとは、誤解を恐れずに言えば、これは我が国の歴史学界の「世紀の椿事」だったといえよう。

この作品、というか研究にふれ私が感じるのは、(いささか語るに落ちる感はあるが)学問と社会の関係である。これは英語でやや変則的に言い換えればpublic relations、つまり学問における「広報」の問題であるといってもいいかもしれない。専門研究者の地道な学術研究の成果を、いかに社会に還元していくか。社会に還元していくことで、より多くの人がその学術成果にアプローチし、結果としてその学問の達しえた知見が社会の「共同知」へと昇華していく-そういう実に(お役所的にも)「きれい」な学問の理想的なありかたの問題である。『武士の家計簿』は実に見事に「それ」をやってのけた研究だと言えるだろう。

『武士の家計簿』はどうしてこういう成功(成功、と呼んでおく)を収めえたのか。
人によっては「金沢藩士猪山家文書」の「入払帳」(武士の家計簿)という史料の力に他ならない、という人がおいでかもしれない。少なくとも著者ご自身の磯田氏はそうお考えかもしれない。極めてまれな加賀藩御算用者による「入払帳」なくば、この研究は成立せず、映画も作られることはなかった。まことに史料が人をひきつけ、そこから導き出されたファクトが人を動かしたのだと。

それはまあそうかもしれない。しかし、やはり私は磯田道史という真摯な学究のとりくみと、わけても彼自身の「センス」に負うところが極めて大きいと考えるのである。

かねて武士の詳細な台所事情に関心を向け網を張っていた(であろう)磯田氏なくば、「金沢藩士猪山家文書」は日の目を見ることなく、また従って『武士の家計簿』も書かれなかったはずなのである。仮に磯田氏以外の研究者が「金沢藩士猪山家文書」を手に入れたとして、その研究者ははたして『武士の家計簿』を書けただろうか。そしてその研究成果は、いま『武士の家計簿』が獲得しえたような評価、反響を勝ち得ただろうか。

私はそれはまず無理であったろうと思うのである。こういうことを考えるのは愉快なことではないし非生産的なので「反実妄想」を開陳するのは控えるが、ろくなものにはならなかったであろう。「猪山家文書」は素晴らしい史料であるけれども、その素晴らしさは磯田氏の手中におちたからこそ素晴らしい史料たり得たのである。まことに「書は所を得て光る」ものなのだ(注3)。

磯田氏がかねてそういう問題に興味を持っていた、ということのほかに、実際に氏が「猪山家文書」を読んで、そこにcontemporaryな諸問題、すなわち「金融破綻、地下下落、リストラ、教育問題、利権と収賄、報道被害…など、現在のわれわれが直面しているような問題」(p.6)を見出しえたこと、それを最終的に「新書」という媒体で、語りかけるような明瞭で精緻な筆致で読書子に示しえたこと、は全く磯田氏のセンスや才能に負っている(注4)。

この「センス」や「才能」はむしろ「人格」と言うべきかもしれない。『武士の家計簿』の魅力は行間からにじみ出る著者の誠実で真摯な態度と、とうに過去へと去った人々と社会への暖かなまなざしである。原作を読んでみれば誰しもが了解されることと思うけれども、「上から目線」を一切感じさせぬ謙虚でなっすぐな著者の語り口は、読者をひきつけ、気持ちよく巻末まで読者を導いてくれるのである。これは読ませる技術もあるけれども、ひっきょう著者の「人格の力」がそうさせるのではないか。

いかなる分野であれ、そういう「人格の力」がもうすこし今の時代は必要かもしれない。傍目には、ユニークな視点で深く深く研究を推進させている学究は決して少なくないように見える。しかしそういう研究の多くはなかなか社会には還流していかぬものなのだ。全てがそうならねばならぬ、とは言わぬが、学問は今少し社会との垣根を低くして、風通しを良くした方が(学術の深化という意味においても)益するところは大きいのではないだろうか。それは制度上の問題もあるにはあるが、なによりも研究者一人ひとりの「人格の力」にかかっているようにも思われるのである。

※ ※ ※

以上、実に漠然と、具体性のないことばかり書きつづってしまった。これは「書評」ではなく、個人的な雑感ゆえお赦しを請いたい。


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注1:『武士の家計簿』当時使用されていた貨幣については、コインコレクターの方が画像付きで書かれた解説が面白い。つくづく、その道の達人とは凄いものである。

注2:上述のウィキペディアの記事によれば、『武士の献立』もまた一定の史実に基づき作られた映画ではある。関連文献として『武士の食卓』なる書籍もある由。

注3:「書は所を得て光る」。正確な言葉づかいは或いは違っていたかもしれない(この言葉、検索しても出てこないゆえ)。この言葉は大昔、ある先生が、K先生に贈った本に添え書きとして書かれていたのではなかったかしらと記憶する。私は偶々そういう場面に居合わせて、つくづく「いい言葉だなあ」と思った次第である。

注4:言うまでもないことであるが、『武士の家計簿』は著者のより専門的な複数の研究成果を背景として紡ぎだされた作品である。そこには日本史、当該時代史をめぐる我が国学界の近年の学術的議論の積み重ねもまた明瞭に反映されている。そうした背景をああいうかたちに結実させた著者の手腕はお見事という他はない。

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