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膨張する『殉教』の記憶

Tomb_abdurrahman

アッチュイに現存する、アブドゥラフマンのものと伝えられる墓

【解説】
以下の記事は、2011年10月30日に開催されたシンポジウム「周縁からのチベット〜歴史と信仰〜」(第13回チベットの歴史と文化学習会)において、パネラーとして私が報告した話をテキストに起こしたものを、同会コーディネーターの貞兼綾子先生の了承のもと再録するものである。この報告内容は同会の記録冊子にも掲載されているが、以下の文章はそれにも一定の注意を払いつつ、ウェブ公開向けに若干の手直しを施している。よって細かな点では冊子のそれとは若干の相違がある点、あらかじめお断りしておく。

なお当日は私のほかに楠木賢道氏(筑波大学)、岩尾一史氏(神戸市外国語大学)がそれぞれパネラーとして報告を行った。

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菅原です。今日はこういうお話をする機会をお与えいただき、どうもありがとうございます。特にオーガナイザーの貞兼さんには感謝を申し上げたく思います。感謝の言葉を申し上げなら言うのもなんですが、私がこれからお話しするのは、チベットのお話ではありません。その隣の東トルキスタンこと、新疆ウイグル自治区南部地方(南疆)のお話でございます。

みなさんにお配りしているハンドアウトの一枚目に挙げております通り、歴史的に当地のイスラーム教徒(今で言うウイグル人)の歴史世界、彼らの世界観、書かれた歴史資料の中では、チベットおよびチベット人に関する記述は非常に限られております。

例外的な記述と致しましては、お配りした資料に挙げておりますが、18世紀に著されたTazkira-i‘Azizanという聖者伝がございます。この本は聖者伝というには歴史的な、歴史書的な要素が非常に強いんですけれども、その中でですね、今カシュガルにお墓がありますアーファーク・ホージャという聖者が、当時のモグーリスターン・ハーン国のハーンに追放されて、流浪の果て、チベット仏教徒たちとジュンガルのガルダンの助けを借りて、「イスラーム神聖国家」を作るというお話が出て参ります。

それ以外には、20世紀初頭にムッラー・ムーサー・サイラーミーという人が書いたTarikh-i Amniyyaという浩瀚な歴史書の中に、チベットという地名は出て参ります。これは「モグーリスターンと七城」の名で呼ばれた当時のウイグル人たちの居住領域を紹介するにあたり、隣接した諸地域を示す部分で登場いたします。それぐらいなんですね。

そんなに多くチベットについての記述というのは当地の史料には出て来ないんです。まあ、要はイスラーム教徒たるウイグル人にとって、偶像崇拝の徒であるチベット人の世界は(これはこの研究会の皆さんにははなはだ不満かもしれませんけれども)「文化果つる地」でありまして、自分たちの世界観の枠外にあった「非常に野蛮な世界」というイメージを持っていたように見受けられます。

今日はチベットの「周縁」ということで、ウイグル人がどういう歴史世界の中に生きて来たかという例を、非常に小さなお話からその一面に光を当ててみたいと思います。タイトルは『膨張する「殉教」の記憶』と致しました。


語り部が聴衆と作り出すものがたり

今日の私のお話はどちらかと言えば、歴史学よりもフォークロアの話に非常に近いものがあります。それは「語り部」が「聴衆」との関係において「その場」でつくりあげる口承文化の「創造」の問題を扱っているからにほかなりません。

今、私は皆さんの前に立って、こうやって話をしております。私は原稿を見てその通りに話すということがはなはだ苦手です。何故かと言うと、私は皆さんとご一緒しているこの会場の「空気」を読みながら、ここで考えて思いついた事を自由にどんどん話していきたいんです。あらかじめ、いちおうの筋書きを考えながらも、実は絶えずものを考えて、新しい事を出来れば「ここ」で作っていきたいというふうに考える事が多いんですね。実は、今日のお話はそういう「私(語り部)とあなた(聴衆)、その場の『空気』が作り上げるものがたり」のお話と申し上げてもよろしいかと思うのです。

ちょっとこの写真をご覧ください。

Katari


これは2001年8月にホタン(ホータン)の西隣りにあるカラ・カーシュという村で撮影した写真です。語り部が聴衆を前にして、自分たちの歴史あるいは伝説を話す「パフォーマンス」をまさに実演している場面です。そこで彼(語り部)は、別に書かれたものを読みあげて、それを相手に伝えようとしているのではありません。歴史語りであるにしても、抽象的な伝説であるにしても、そこで彼が頭に浮かぶことを話し、その場の聴衆との関係の中で、聴衆一人、一人の顔色を窺いながら、彼は臨機応変に身ぶりや話し方を変えていきます。

つまりそこでは、口承としてのものがたり(歴史)というのは、実は語り部ひとりが「情報」を提供する一方通行的なものではなくて、群衆との関係のなかで新たにそこで「作り上げている」わけなんですね。その動機は、聴衆が嬉しくなるような、面白い話をすれば「投げ銭」の実入りが違ってくるという、語り部にとっては割と切実な事情があるという見方もできようかと思います。

ともあれ、語り部は聴衆の「意に適う」ようなことをどんどん話していく。従って、そこでの話というのは、何があったかと言うファクト=「実際にあった歴史」を伝えるというよりは、「聴衆」にとって何があるべきだったのか、どうだったら嬉しいか、どういう歴史であるべきなのか、という「あるべき歴史」という事に話が収斂されていく傾向にあるわけです。今日のお話はそういう話になります。語り部と聴衆が織りなす歴史というお話です。この場合、歴史というのはつまり、歴史学が主として扱う「書かれた歴史」ではありませんで、もっと漠とした「過去に対する彼らの認識としての歴史」というような話になってくるわけです。


歌謡『アブドゥラフマン・ハン』の特殊性

具体的なお話の前に、とりあえず、どういうふうに今日お話しする歴史が語られているかをちょっとご紹介します。「音」としてちょっと聴いていただきたいんですね。二人の語り部がおります。一人はアブリミット・カーリム、盲目の語り部です。

―――― 音声 ――――

今のはアブリミット・カーリムさんの冒頭の部分ですね。今度はシャー・メメトさん、この人はもう亡くなっておりますが、むしろこの「アブドゥラフマン・ハン」という、今から紹介する歌に関しては彼が一番の歌い手だと言われております。

―――― 音声 ――――

次はこの詩の最後のクライマックスシーンですね。これも1分くらいです。

―――― 音声 ――――

資料にもあると思いますれども、この歌謡は最後に「アー、バラム、アー、バラム(ああ、我が子よ、ああ、我が子よ)」―まあ、これは別に我が子じゃなくても、自分の目の前にある若い世代の人々はみんな「バラム」と呼ぶんですけれどもーというリフレインが印象的です。今日はこの歌謡「アブドゥラフマン・ハン」についてお話しいたします。

この歌謡は非常に面白い、ユニークな点がいくつかあります。一つはウイグル人の口承文芸の中では非常に珍しいことに、「史料的裏付けのできる史実」を扱っているという点です。過去の歴史を扱ったウイグル口承文芸は数多く、その中にはこの歌謡と同ジャンルの英雄叙事詩もありますが、それらで歌われたものがたりは、公式の文書記録とか現地史料の記述とか言った、「史料的な裏付け」を全く欠いております。つまりそれが実際にあった話に基づくものかどうか今一つはっきりしません。裏付けのある史実を扱った歌謡は存外少ないわけなんですね。「アブドゥラフマン・ハン」は非常に例外的です。

もう一つは、この歌謡について、叙事詩について、時代を違えた複数のテキストが存在しております。これはその歌謡が歌われ始めた時期に、たまたまそこに居合わせた外国人がそれを書き留めてヨーロッパに持ち帰ったものが現存しているんですね。現在までに、我々が使用できるものとして7つぐらいのテキストが確認されています。

さらに、非常に現象として面白いのは、今日のこの発表の題目にもあります通り、その歌謡が約100年間の間に飛躍的な「膨張」を遂げているということです。一番初期のテキストというのは、これはフランス人が19世紀の末に収集したものですが、大体2ページぐらいでして、非常に短い。これは「ダスタン(叙事詩)」ではなくて「コシャック(歌謡)」と呼ばれる、非常に短いものでございます。これがですね、今日使った一番最新バージョンのものになりますと、もう数十ページに及んでまして、分量はいちいち数えてないんですが、大体20倍以上にはなっていると思います。まあ、100年間の間にそのように大変な膨張を遂げているのですね。なにがこの物語をかくも成長(膨張)させたのか?非常に興味を掻き立てられるわけです。

今日のメニュウですが、まずは「史実」として、どういう歴史事実に基づいてこういう歌が出来たのかという点を確認します。ついで伝説の誕生と発展のプロセスを観察してみます。7つか8つあるテキストを2つに分かちまして、古いものと新しいものに分けて、どういう特徴があるかということを個別に眺めて参ります。それから最後に、全部のテキストを通じて確認されるこの歌謡の「エレメント」のようなものとしては何があるのか、ということを分析してみます。そうした手続きを通じて、この歌謡が「歴史の内在化」という今日の課題に照らして、どういう事が言えるのか?ということをちょっと考察してみたいと思います。


史実としてのアブドゥラフマンの「殉教」

まず最初に、歴史叙述における英雄の死、つまりアブドゥラフマンという主人公の死というのは、歴史的にどういう事だったのか?というお話を致します。これは「歴史的事実(史実)」でありまして、実際にアブドゥラフマンのふるさとに参りますと、これは新疆ウイグル自治区のホタン市の西に位置するカラ・カーシュ県あたり、ホタン市とカラ・カーシュのちょうど境目のところに発電所がありまして、その発電所の傍らにアトチュイ~アッチュイという村があります。そこには、今でも「アブドゥラフマンの墓」というものが現存しております。

歴史叙述の中で、このアブドゥラフマンという人物について書かれたものは二つほどありまして、一つはムッラー・ムーサ・サイラーミーのTarikh-i Amniyya、もう一つはムハンマド・アーラムの通称『ホタン史』です。サイラーミーの記事は(なにしろサイラーミーはホタンから遠く離れた所で活動していた人でしたから)伝聞で書いているだけで、その著作への高い評価の割には、ホタンに関する情報は思いの他少ないです。一方、ムハンマド・アーラムはホタン人ですので、アブドゥラフマンの活動と死については比較的詳細な記事を残しています。

この事件は1864年に発生しました。当時南新疆のオアシス地帯は清朝に対するイスラーム教徒反乱のただなかにありまして、反乱の結果、当地の清朝勢力は一掃されまして、オアシス単位でイスラーム教徒政権が樹立され、それらがお互いに勢力争いをするというような状態にありました。アブドゥラフマンはホタン蜂起の実質的な指導者で、蜂起後なんとか自分たちの政権を建てることに成功するのですが、ほどなく西から押し寄せてきた他のイスラーム教徒勢力と戦うことを余儀なくされます。結果はホタン側の勝利に終わりホタンの政権はひとまずの危機を脱するのですが、指導者のアブドゥラフマンは戦闘のなか死亡してしまうのですね。

...弾丸がアブドゥラフマン王の馬に命中し、馬は倒れた。
すると彼は即座に他の馬に乗り換え、敵を追撃した。しかし
不運にも一発の弾丸がアブドゥラフマン王に命中し、彼は
殉教の蜜を飲んだ(=死んだ)のである。

...彼の弟マァスム・ハーン・ホージャはその場で、すぐに
彼の遺体を何かで覆って隠した。マァスム・ハーンはアブドゥ
ラフマン王のターバンとブーツを身に纏うと、彼の馬に乗り
(その場に居合わせた)騎兵たちに言った「アブドゥラフマン王
の死を誰にも言うでないぞ。わしを指さし『彼はあそこだ!』
というのだ!」と。
(ムハンマド・アーラム『ホタン史』より。)


要は「馬に乗っていて弾に当たって死んでしまいました。」というのが歴史的事実でございます、簡単に言いますとね。それが歴史叙述の中で確認される彼の死であります。実際、彼の死というのは、19世紀イスラム教徒反乱史の中では非常に小さなエピソードです。ほかにそれを改めてリマインドするような歴史書もありませんし、彼の名前が登場する史書もそんなに多くはないんです。ところがですね、彼の死(ちなみに、彼はイスラーム教徒同士の戦いの中で死んだわけなのですが、その死は「殉教」と呼びならわされています)というものは少なくともカラ・カーシュの人々にとっては非常に忘れがたいものであったようなんですね。それは彼の死を扱った歌謡というものが歌い継がれて、現在に至るまで叙事詩の形で、住民の前で語り部が演目としていることからも窺う事が出来るわけなんです。すぐれて今なお「生きている」歴史だということが出来るわけなんですね。


「殉教」の「語られ方」(1)古いテキストでの語られ方

では、史実としてはそうだったわけだけれども、その「語られ方」というものが、どのように変わっていったのかという、「殉教の記憶」の歴史をこれから見ていきましょう。

まず最初のテキストは1890年代、グルナールという人が紹介したものです。実はこの最初のテキストの書誌的な背景は、他でもないチベットと浅からぬ関係があります。このテキストが収録された本はMisson Scientifique dans la Haute Asie(高地アジア科学調査)と題する3巻本でして、ドゥランという人を隊長として新疆ならびにチベットで敢行された調査の報告書なんですね(なお、隊長ドゥランは探検の途次チベットで住民に殺害されています)。この報告書はいま『ディジタル・シルクロード』というサイトにその電子化版が公開されていますから、興味のある方はどうぞご覧いただきたいと思います。19世紀末の新疆ならびにチベットの風景スケッチや写真が豊富です。

お話に戻ります。グルナール収集になる最初の「アブドゥラフマン」の歌のテキストは、その報告書に原文テキストに仏訳を付す形で紹介されています(なお、このテキストの草稿も現存しておりまして、現在フランス学士院図書館に所蔵されています)。

このテキストの特徴はと申しますと、まず、最初からそれは「奇跡譚」であったと言うことが出来ようかと思います。蜂起指導者のアブドゥラフマンが敵方の「占い」で見出されたという話は、アブドゥラフマンという人物が神秘的な存在として扱われていたということを示唆します。これが一つ。それから、彼の戦いはやはり異教徒圧制者、この場合は清朝ですが、清朝の「アンバン」との戦いであるというような認識がはっきり打ち出されているという点です。

さて、グルナールから10年ぐらい経ちまして、今度はドイツのハルトマンという人が新疆にやって参りまして、彼自身は生前このアブドゥラフマンについては何一つ発表しなかったのですが、彼自身が買い集めたか、書かせたかした、非常に雑然としたペーパーのコレクションの中に、このアブドゥラフマンの物語のフラグメント(断簡)が残っております。

これは現在、ハレ大学の図書館、厳密にはドイツ東洋学協会の図書館にあるんですが、そこに3点ほど「アブドゥラフマン」歌謡のテキストが収められています。これも偶然発見したんですが、非常にバラバラなものでしてね。ひとつはハルトマン自身がどうやら出版を考えたらしくて、タイプで打った翻訳が存在するんですが、彼がこれを出版したという形跡はありません。これらは甚だ断片的なテキストではありますが、それでも1900年前後の時点で、アブドゥラフマンの物語がどう歌われていたか、その「語られ方」を窺い知ることが出来ます。

例えば、そこではイスラーム世界で広く知られた聖者「ヒズル仙人」の話が出てくる。アブドゥラフマンがヒズル仙人によって導かれて、蜂起指導者になったというような脚色がなされているということがみてとれるわけです。それから敵としてはトゥンガン(今でいう回族)、これはウイグル語では現代もトゥンガンと言いますが、彼らが敵であるという意識が非常に強く表れています。

また、アブドゥラフマンは戦死するんですが、その戦死というのが、戦いの中で弾に当たって死んだという「史実」とは違っていて、弾に当たった後で彼の侍従のトゥンガンがお金に目がくらんで殺したという、そういう話がこのハルトマン・テキストに既に出て参ります。

ちなみにこのストーリー、特に最後の部分、「磚茶」はみなさんご存知でしょうか。ブロック状に固められたお茶で、これは運搬が容易なことから今でも広く流通しております。敵の親玉がそれを布で包んで、これはコーランだよと言って「このコーランに誓って、お前がアブドゥラフマンを殺したらば、お前を王様にしてやろう、あるいは代官にしてやろう」という約束をするという話が載っております。

この話は実は19世紀のイスラム教徒反乱史の中では非常に広く通用している話でありまして、他の場面で同じストーリーがよく出て参ります。従って、ちょっとこれは脇筋ですけれども、この磚茶、偽り、人を騙すエピソードというのは、わりと19世紀イスラム教徒反乱史の中では定番のエピソードであります。まあ、これがどこから来たのかというのも興味深いわけですが、何にしても、そういう、つまりこのアブドゥラフマンの歌謡というのは、当時の他のヒストリオグラフィに出てくる挿話とも時代を共有していることがここから窺えるのではないかと思います。

Shamemet

「語り部」故シャー・メメット氏


「殉教」の「語られ方」(2)新しいテキストでの語られ方

さて、ここまでの話は「古いテキスト」での「語られ方」でした。そこから数十年経って、今度は「新しいテキスト」が登場して参ります。今までのは写本という形、フラグメントの形でヨーロッパの図書館であるとか、あるいは古い出版物の中に見出されるものですが、ここから一気に50年以上の時間が経過して、我々は比較的新しい出版物の中で、このアブドゥラフマンの「叙事詩」を見ることが出来るわけなんです。

現存する印刷されたテキストは、全て一人の語り部の「語り」、すなわち冒頭でご紹介したシャー・メメットさんの演奏というか語りをテキスト化したものです。

まず最初に出たのは1980年代に『ウイグル民間叙事詩』という2冊組の本が出まして、この中の第一巻にさっそく「アブドゥラフマン」の「叙事詩」テキストが入っております。このテキストは非常に多く利用されたテキストでして、例えばトルコではこのテキストに基づいてオズケンという学者が「アブドゥラフマン・ハン」という本を出版しましたし、ドイツのライクルという叙事詩研究家も、このテキストを使ってウイグル人の叙事詩の研究をしています。

しかし、このテキスト自体は実は他のテキストと比べてみると非常に公式テキスト、中華人民共和国の「欽定テキスト」としての性格が強いように見受けられます。これはテキストを比べればよくわかるんですが、「アブドゥラフマン」のテキストの中では、例えば異教徒を殺す、というような記述が非常に多いんですね。これは「聖戦」ですから。清朝に対する反乱で、その中で異教徒の満州人を殺傷する、というようなことをやるわけですよね。ところがこのテキストには「異教徒」という言葉は全く出てこないんです。他のテキストには出てくるんですけれど、このテキストではもっぱら「敵」という言葉が用いられています。それから「イスラームを開く」という、他のテキストや史書で頻出する言葉もまったく出て参りません。これも置き換えがなされている。且つ、ここでのお話はイスラーム教徒が「聖戦」を行い、清朝の現地政府を倒すわけなんですが、これは異教徒支配を退けて「イスラームを開く」ことを目的としていたのは明らかです。しかし、この「公式テキスト」はまず、人民に圧迫を加えている封建的な清朝のアンバンを倒すという為に立ち上がったのだというような書き口になっておりますし、それからアブドゥラフマンの死も(史実にある同宗のイスラーム教徒との戦いではなく)清朝勢力との戦いのなかでの戦死に書き換えられています。つまり、ここでは「階級闘争」史観と申しますか、現在の中国の国家体制に沿った歴史の書き換えがなされているのです。

そういうわけで、オズケンやライクルがこのテキストに拠って新疆ウイグル人の叙事詩研究をしたというのは、方法論的に細かい部分では参照に値するわけですが、ちょっと私には全面的にその分析を受け入れるにはためらいがあります。

さて、さらに新しいテキストとしては、実はホタンで、年次はよくわからないんですが、多分80年代に『アブドゥラフマン・ハン』という本が出ております。これは現存する中で一番長いテキストでして、語り部はさきの「公式テキスト」と同じシャー・メメットです。

興味深いことにこのテキストは「語り部」が同じであるのにもかかわらず、先ほどお話した「公式テキスト」にあった公式的な要素が全く見られず、むしろ写本時代の口承文芸、つまり先ほど挙げた「古いテキスト」ですね、そういうものに非常に近い、連続性のある内容になっております。そこでは「異教徒」そして「イスラームを開く」という「公式テキスト」では忌避されたと思しき言葉を見つけることが出来ます。

また、このテキストはこれまでのいかなるテキストよりもはるかに長いものでありまして、話の流れは細部に至るまで史実に忠実な内容になっております。そして歌謡の言葉遣いや構成に文学的な洗練が見られます。つまりリフレインが多用されたり、あるいはペルシャ文学の『シャー・ナーメ』に登場するロスタムとかそういう伝説上のエッセンスが加えられたり、あるいは後から話しますが、ホタンのマザール、聖者廟に関する記述があったり、非常に増えている分、聴衆の耳に適うような潤色がかなりたくさんなされているんですね。まあ、デコレイトがされているわけなんです。アブドゥラフマンが亡くなって一世紀余の間に、語り部と聴衆の協業によって、「史実」としての記憶の整理(修正・補充)がなされ、一つ一つの言葉に磨きがかけられ、多彩な文化要素が盛り込まれた、その跡をわれわれはこのテキストに見出すことが出来ます。

さらにその具体的な内容に目を向けますと、そのテキストの中で注目される点といたしましては、一つには回族(トゥンガン)とウイグルの敵対関係をそれぞれの「イスラーム法学派」の違いに見出している点ですね。テキストでは、

われわれ(=トゥンガン)の信仰はシャーフィイー派に属し、
一方アブドゥラフマンの信仰はハナフィー派である。
これは大いに我々を分け隔てるものである。


とあり、トゥンガンはシャーフィイー派で、アブドゥラフマン、つまりウイグル人はハナフィー派だと主張するくだりがあります。実は一般的には回族もウイグル人も同じハナフィー派として扱われておりまして、つまり「史実」とは全く異なる見方だと言えるわけです。しかし、ホタンの人々の間に、回族との間には、つまり回族はイスラーム教徒だけど自分たちのイスラームとは違うんだよ、という認識が現として存在することがここからわかるわけなんですね。

それからもう一つ、先ほど申し上げましたが、ことのほかイスラーム聖者廟を崇拝する「特殊ホタン的イスラーム」の姿、つまりホタンの宗教文化の顕著な特徴がこのテキストには見られます。例えば、ここではホタンに墓が現存する「12人のイマーム」(この「12人のイマーム」はイランで著名ないわゆる「12イマーム」とは些か異なるようです)の名前であるとか、ほかの聖者の名前が出てきて、彼らの加護を求める場面が見られます。

「あるべき歴史」の姿

以上、「古いテキスト」から「新しいテキスト」へ膨張をつづけ「アブドゥラフマン」のものがたりは徐々に内容が増えていった、中には「公式テキスト」のような変則的な「書き換え」がなされたものもあった、というような膨張のプロセスをご紹介申し上げました。次に、そのいくつかのテキストに共通して見られる要素は何かということについて考えてみたいと思います。つまり、「アブドゥラフマン」が亡くなってから一世紀余、この物語は膨張・変化を遂げつつ歌い継がれてきたわけですが、先にご紹介した変化した点や増し加えられた点とは他に、一貫して変わらなかった要素もまたあるわけです。そして、それこそが彼らホタン人にとっての「あるべき歴史」であり、言い換えるならば「歌」という乗り物に乗せて過去から未来へと受け継がれたホタン人の「心性」の如きものであったのではないかと私は思うのです。

その一つは、先にご紹介しましたけれども、「イスラームを開く」という要素がございます。

アブドゥラフマンは泣いてそこから起き上がり、
「このホタンの中で宗教の子孫(聖裔?)は残っていない,
アルバンの苦痛からヤルカンドの町(?)は残っていない
このホタンの中にイスラームを開きましょうぞ、父上」

....... (中略)..........

我を見よホタン人たちよ、後ろに退くことなかれ
私を捕えて敵にやるな、トゥンガンがまた到来するならば
(我々は?)アルバンを取らない。一銭の金も取り上げない

つまり異教徒支配の苦境から脱し、重税から解放され、イスラーム教徒としての自由を獲得することへの希求の念が、この「アブドゥラフマン」のものがたりには一貫して見られると言って差し支えなかろうと思います。事実、今日なおホタンの人々は異教徒支配のもとにあるわけですし、「イスラームを開く」ことは彼らにとってはなお今日的な問題として受け止められていると見ることは可能であろうと思います。

もう一つは英雄アブドゥラフマンの不本意な死を「悼む心」が全てのテキストにおいて通覧できます。

アフン・アガチャムはそしてそのように慟哭したのだ
「子どもというのは一輪の花であり、父母の僕、
朝晩の夜啼鳥-(それが)子どもではないのか、友よ」

子の無き者の活力はなく、その声望も空しい。
mellis(?)に行けば場所はない。子どもというものは、友よ、
子どもというものは一羽の夜啼鳥、父母には僕となる。
shamisi e(?)天馬となる、子どもというものは、友よ
炉は(火に)満ち、灰が残った、金庫は満ち、金が残った。
ザクロの花の汝の子供たち、その父は無く孤児が残った。
赤いバラの汝の子供たちを、我が左手で導こう。
汝の妻たちを、我が右手で導こう。

いくぶん、意味がとれない部分がありますが、この「悼む心」から、このアブドゥラフマンの歌謡、叙事詩は、最後のクライマックスともいうべきリフレイン「アー、バラム(おお、わが子よ)!」が導き出されるわけです。この死者、殉教者たちを悼む心は、「特殊ホタン的」な聖者崇拝-その聖者の大半は異教徒との聖戦のなか戦死した殉教者たちです-とも相まって、信仰のために死んでいったすべての死者に対する追慕の念として、聴衆であるホタンの人々の心に響くものだったのでしょう。

最後に「地域主義」つまりホタンの人々をエンカレッジするような、そういう記述が非常に多いわけですね。これは多分、聴衆に向かってこれが歌われることで、聴衆は非常に力づけられ、うれしくなるような要素であったろうと思われるわけです。

満足を私が与えよう、汝らは満足せよ、ホタン人よ
(汝らには)財といえばそれはあり、
時といえばそれもある
わが故郷で王国に私の必要性も(今や)無い
私は汝らを私と言って、
かくの如く(殉教)なったのだ、ホタン人よ

気弱なホタン人よ、私の顔を見よ
神の加護のもと、私に満足せよ
ホタンを治め、労役を行うな
圧政者の悪行を行うな、殉教者の国ホタンを
繁栄せしめよ、気弱なホタン人よ

これがおそらくホタンのこの叙事詩の核となるエッセンス、一番の精髄ともいうべき要素だろうと私は思うのです。この「気弱なホタン人」というのは、他の文献でもホタン人を説明する記述にみられる常套句だと思いますが、このような少々短所と申しますか、ネガティヴな文言を頭において、ホタン人たちに殉教者たる英雄アブドゥラフマンが語りかける。これは英雄の言葉と受け止めるべきでしょうが、死者たち、彼らの父祖たちから、未来のホタン人たちに投げかけたことばと受け止めてもよろしいと思います。この強烈なメッセージ性が「アブドゥラフマン」歌謡を今日まで生き続けさせた原動力だったのではないでしょうか。


There is one more thing: 話の続き

今日の私のお話は大体以上でおしまいです。ここまではまあ「きれいな話」と言ってよろしいかと思いますが、実はこの話にはもうひとつ、少々角度を変えた別の話があります。これはあくまで推測を出ない、まだまだ検証を必要とするお話ですので話半分に聞いておいていただきたく思います。なお、この言葉”There is one more thing(もうひとつある!)”は先日亡くなったスティーブ・ジョブズの決め台詞の一つでして、彼へのリスペクトをこめてあえて使わせていただきました。

実はこの叙事詩自体の扱っている話は、その基本的な「部立て」が1930年代のイスラーム教徒の解放闘争の歴史と矛盾しないのですね。それどころか19世紀のイスラーム教徒反乱史の既存史料では確認できない、具体的で詳細な情報がかなり入っています。

1930年代に樹立されたホタン・イスラーム政権は、まずカラ・カーシュに秘密結社を組織し、そしてその活動の結果でホタンに進軍しイスラム政権を立てるに至りました。史資料から明らかになっているそのプロセスと「アブドゥラフマン」叙事詩に描かれた19世紀の蜂起プロセスの記述は全く矛盾しないところが、非常に細かく似ているところがあるわけですね。カラ・カーシュでの秘密結社組織、ホタンの占領、指導者の兄弟の不本意な状況での死亡、回族との敵対関係など、共通する要素には事欠きません。

とくに回族との関係においては、1930年代に回族軍閥がホタンを占領して、非常にホタン人をいじめたというのは有名な話でして、実際1930年代のホタンの状況というのは、回族の絶対的な支配のもとにあったわけでして、ホタン地方を「ドゥンガニスタン」つまり回族の国と表記した地図が残っているほどです。

すなわち、1930年代の「記憶」が、19世紀の叛乱を歌ったこの叙事詩の中には織り込まれている、仮託されているのではないか。-ここでは一応こういう可能性もある、ということを最後に申し上げておきたく思います。あくまで可能性として申し上げているわけでして、これが1930年代の歴史だ、と言うつもりは毛頭ございません。


おわりに

私のお話は、これはやはり口承としての歴史が、どのようにあるべき歴史として、歴史を内在化し取り込み、人に語られ、また消えていくのかというお話なんだと思うんですね。冒頭にお示しした写真で、語り部は聴衆に語っているわけですけれども、こうした語り部と聴衆が織りなす創造の営み、歴史の創造の営みは続いていくだろうと思います。

話の後半はシャー・メメットという語り部が歌った「アブドゥラフマン」のテキストを中心に致しましたが、実はシャー・メメト氏はもう亡くなっておりまして、この世に存在しておりません。ですから政府当局が、仮に今私がお話ししたようなことに気付いて(多分、気づくことはあるまいと思われますが)「ああ、アブドゥラフマン叙事詩というのは、けしからん、語り部は誰だ」と言っても、彼を捕えることはもうできません。いや、仮に今アブドゥラフマン・ハンという歌を歌っている人を捕まえていじめても意味はないわけですね。すぐにそういう歌謡というものは次の「乗り物」(別の違った形の歌)を見つけて、同じこのエッセンス、精髄というものを伝えていくに違いないわけなんです。事実、私はいくつかホタンで別の歌謡を耳にしましたけれども、このアブドゥラフマンと同じようなリフレインを持って、同じようなエッセンスを持った詩を知っております。

つまり、外からどんな目に遭おうとも、歌に終わりはないわけです。非常にアノニマスな歴史になってしまうかもしれませんが、未来に向かって人々が語り伝え、そして維持していく「内在化した歴史」というものはおそらく、そういう枝葉末節な個別具体的な情報というものを削ぎ落としてでも継承されて歌い継がれていくものだろうと私は思います。いささかまとまりが悪いですが私のお話は以上です。ありがとうございました。

(2011年10月30日(日)、文京区民センター3-A会議室)


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