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CESS 12th Annual Conference, Ohio State University(1)

Cess01
恒例の講演。今年は『中国は西に進む』の著者ピーター・パーデューさん。

今年も学会シーズンとなり、CESS(北米の中央ユーラシア学会Central Eurasian Studies Society)に出席してきた。

私は物事を続けるのは元来苦手なのであるが、CESSは毎回新旧の友人たちに出会えるのが嬉しくもあり、ここ数年は1年のライフサイクルのひとつの節目として毎回参加し、報告を続けている。CESSをひとつの目標にして春先に論文の骨子を考え、同時に友人たちに声をかけてパネル組織の申請をし、夏に論文を書いて参加する、というペースがなかなか心地よく、不思議と筆も進む(と言う書き方ももはや死語か)のだ。この合衆国の「寄り合い」に出るようになってから、すいぶんとproductiveになったような気がするのは気のせいだろうか。

合衆国の一部の研究者や学生には、CESSはいささか「たるんで」いて、緊張感もどこか欠けていて権威が足りない、という印象を持っている人もいるようである。しかし、あえて言わせてもらえば、旗揚げから12年というこの若い学会が目指しているものは、そういう権威主義的で過度の緊張感のあるような昔ながらの学会ではおそらくないだろう。出来るだけ多くのメニュウを取り揃え、中央ユーラシア研究の「国際見本市」のような賑わいのある空間をつくりあげ、人と人とをつなぎ、そこから新しい学問を見つけていこうという、「溌剌とした空気」が横溢している時限的な空間。人によって受け取り方は多様かもしれないけれども、それが私にとってのCESSなのである。

あれこれ言う人はいるかもしれないが、「中央ユーラシア」と言うマイナーな地域研究の学会が毎回200名近くのスピーカー(出席者ではない。発表者と司会者とコメンテイタの重複を省いた実数である)を集め、初日のレセプションを含め4日間の日程で50以上のパネルとラウンドテーブルを開くという事実は、「驚異的」と言うほかは無いであろう。私は正直「帝国」としての合衆国はとっくに落ち目だと思っているが、こういう人と人を結ぶ手管と言うか、組織力には正直わが国は「敵わない」と言うしかない。もっとも、私が言ったところでどうということはないけれども。

CESSに出ていつも思うのは、こういうことは日本では無理だし、期待してもいけないのだろうな、ということである。まず日本にはそんなに研究者はいないし、合衆国とは研究者の置かれた環境も、人付き合いのかたちも違う。ただ真似ればいいというものでもないし、無理やりやれば必ず失敗するだろう。少なくとも私は自分の専門研究を通じて、文化の移植がどんなに難しいか、と言うことを学んできたつもりである。そうして得た経験に照らせば、合衆国でいいと思ったからと言って、それをそのまま日本に持ち込むことは何であれ無理があるように思われる。

どんなに優れた研究者も、高度な教育を受けた官僚たちも、自分の専門では一定の見識を見せているのに、こういう文化移植に無頓着なのは困ったものだ。まあ人のことは言えないけれども、それぞれ研鑽を通じて得られたはずの知見が、どうして「日々の自分の生活」や「生き方」に反映されていかないのか?われわれは悪い意味で本当に公私の別ができているとつくづく感じる。それとも、最初から本気で学問や仕事には取り組んでいないのだろうか。

ちょっと調子に乗ってひねくれて書いてしまったが、例えばこういうことである。
CESSではすぐにファーストネームで呼び合ったり、知り合った人とは必ず「やあやあ」と何かにつけて目配せをしたり手を振ったり、四方山話を頻繁にするけれども、日本でそれを期待することは「変」である。日本はそういう文化環境にはないのだから。そして、実にその一事を以ってCESSと同じ会議を作ることは出来ない、と言うことは私は十分に可能だろうと思うのである。

「バカ言うなよ、そういう『マナー』なんて些細なことじゃないか、あちらの学会運営のやり方が良いと言うならば、学会組織やプログラム運営のしかた「だけ」を移植してやればいいじゃないか」という人がいるかもしれない。しかし、それは無理なのだ。なんなればその学会は言うまでもなく人付き合いの場であり、まずもってコミュニケーションを取るための場である。そこでそのコミュニケーションの「作法」が全く意味をなさないなどと言うことがあるだろうか?その場の作りあげる最も魅力的な部分は、そういう作法がベースにあって初めて成立するものである。すべてがことば(英語)と、そのことばについてくる身体の動き(これかなり大事)、作法の上に立脚している以上、ベースを取り去れば、それ(その上に乗っかっている、期待されるコミュニケーションの形)はがらがらと崩れてしまうだろう。

つまり、CESSのような会議を日本で再現したければ、まず会議使用言語を英語に統一し、かつ英語圏のコミュニケーション上の作法をすべて再現しなければなるまい。

昔、そう10年位前ならば、ここまで書けば「なあるほど、馬鹿馬鹿しいよね」とほとんどの方が思ってくれたかも知れず、またここで話は終わりになるはずである。しかし、昨今の風潮を見ていると、ひょっとしたらここで「そりゃいいや、それなら英語で行きましょう」と言い出す能天気な馬鹿が出てきそうである。事実、日本のいくつかのカイシャがカイシャでの使用言語を英語に切り替えたというニュースはそう古い話ではないし。思うに、近年の日本の教育行政や大学経営を担ってきた方々は、大方この手の能天気な「頭はいいけどあまり賢くない」人びとなのではなかろうか。


(2)につづく。あまり学会参加報告らしからぬ方向に傾いたので、つづきはもう少し会議の内容について。


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