« アリムジャン・イナイェト「チャガタイ語から新ウイグル文章語への移行、およびその過程における民間文学の役割」 | Main | 暑中お見舞い申しげます。 »

中国ムスリム研究会第21回定例会

久しぶりに中国ムスリム研究会の定例会@早稲田大学に参加した。

この寄り合いも気がついたら今年で11年目である。会場で配布された資料を見ると第1回例会が開催されたのが2001年7月14日、報告者は現幹事の澤井充生さんと私だったのだった(忘れていたよ)。あれからひとつのディケイドを経てしまったわけであるが、顔ぶれは(そりゃ人数は多くなったが)基本的に相変わらずと言う感じ。そんなに華々しい大きな会になったわけでもなく、メンバーは相変わらず世間的には(一見)役に立たない、マニアックで愉快な報告に生き生きと聞き入っているのである。これは実に素晴らしいことではなかろうか。

さて、本日のメニュウはことごとく新疆関係の報告であった。

まずトップバッター清水勝彦さん(元朝日新聞社)のご報告は「朝日新聞の新疆ウイグル報道を検証する」と題し、朝日新聞の中国報道、とりわけ新疆問題の報道の検証を試みたものであった。

まず基礎的な手続きとして、中国報道をめぐる一般的な取材環境、日中間の特殊事情、朝日新聞社の特殊事情そしてこれまでの主要報道テーマを紹介し、ついでそれらを踏まえ、具体的に伊塔事件(1962)、バレン郷事件(1990)、イリ事件(1997)、ウルムチ事件(2009)の各報道の整理を試みた、というのがこの報告のあらましである。たしかに朝日新聞がどう中国と関わり、これまでどう新疆問題を報道してきたか、ということを理解するうえでは利益なしとはしない。少なくとも今後「いったい朝日新聞は新疆をどう報道してきたんだ」という問いを発する必要はなくなるであろう。

しかし大変僭越ではあるけれども「だからどうした」というのが私の率直な感想である。なるほど、朝日新聞の事情は(全部とは思えないけれども)分かった。分かったけれども、その知見を我々はどう「使う」ことが出来るのか? 朝日新聞社、という個別具体的な企業を離れて、そこで明らかになった諸事実を普遍化することはできるのだろうか?

報告者の清水氏は「報道に当たる現役記者と報道の受け手である読者の双方に有益」になることを今般の「検証の理由」として挙げておられる。確かに朝日新聞の現役記者には自分を見直す機会には(ひょっとしたら)なるかもしれない。しかし「読者に有益」というのはどういう意味なのだろうか。あえて無理やり考えてみると、今回清水さんが「検証」した朝日新聞の報道体制の「事情」をふまえておけば、朝日の記事を正しく理解できるようになる、ということであろうか。それって、それこそ余計なお世話(僭越!)と言う感じが私などはするのであるが。それとも、今回明らかにされた事情を正しく理解すれば「朝日新聞などそもそも読む価値がない」ことは自明であり、今後朝日新聞を読むような過ちを犯すこともなくなるであろう、ということであろうか(なるほど、それは有益かもしれない)。いずれにしても、お話の中心は「朝日新聞」であって、「新疆問題」はたまたま朝日新聞社の報道のあり方を検証する「手段」として「使われている」に過ぎないのではないか。

こういうことを考えすぎるとストレスがたまるので、ここではこれ以上考えないことにする。清水さんのご報告は「ご苦労」ではあるが、少なくとも私個人はその意義を十分には感じ取ることができなかったことをここで告白しておきたい。

つぎに鷲尾惟子さん(奈良女子大学)のご報告は、「観光化・グローバル化によるドラーン民間芸能と、ウイグル人の意識の変化」と題し、近年のドラーン文化復興(?)の動きを観光、芸能と言う視点から分析したもの。ドラーン人は歴史的にアクス~マラルバシ~ヤルカンド周辺地域に居住し、狩猟・漁労に従事していたことで知られる小集団である。このドラーン人ならびにドラーン・ムカムが「ウイグル・ムカム」の一翼を担う形で近年顕彰され、やがて「外向け」に発信されるに至ったプロセス、それに伴う「芸能」の内容ならびに人びとの意識の変化を詳細に明らかにした、というのが本報告の功績といえるだろう。ドラーン音楽ならびに踊りの特徴を詳しくご説明いただけたのはとても勉強になった。また12ムカムの祖とされるアマンニサハンがいつのまにかメルキト出身(えっ?つまりドラーンなの?)となかば認定され、同地に「少女時代のアマンニサハンの像」が建てられていたというのは初耳であり、いったいいかなる根拠でそういうことになったのかがことのほか興味がそそられた次第である。

これは鷲尾さんのご報告内容の趣旨とはややずれるかもしれないけれども、ドラーン人の音楽や踊りが徐々にメジャーになり、「観光化」が進められていると言う事実は極めて興味深い問題を内包しているように思われる。ウイグル人やドラーン人の文化、とりわけ即興性のある身体技法である踊りや言語文化である歌謡は、そうした観光化あるいは「公式の文化」に認定されることにより、ある種の「変化」を経験した、あるいは「変化」に晒されているはずである。じっさい、それはどんな状況にあるのか。

観光化や公式化はとどのつまり、素朴な「むら」の踊りやうたが「ステージ芸」としてプロフェッショナル化することを意味している。プロフェッショナル化とは身体技法や歌謡の言語が記譜され規範化されるということである。それはそれまで人びとが育んできた即興性ある創造的な文化の営みを「停止」させることではないのか。別に、だからといって「それは問題だ!」と騒ぎ立てることはしないけれども(だって、それこそ「僭越」ではないか)、そういう規範化をみんながみんなクールだ、すてきだ、と思っているのだろうか、というあたりが気になる。

実はこの問題は数年前に口承文芸について坂井弘紀さんたちとあるパネルセッションを組んだ際に共通の(学術上の)問題意識として設定した、その道(たぶんフォークロア)ではかなり基本的な「問い」である。そのとき対象になったのは歌謡の「ことば」であって、「テキストに落とす」という営為が「うた」の創造の営みを停めてしまう(「殺す」とさえ言ってなかったか?)ことについてそれぞれの守備範囲で考えようという試みだった。同じことは身体技法についても言えはしないだろうか。こなれない言い方だけれども(たぶん人類学の方や民俗学の方はこういうことを語るのに長けているはずだから、いっぺんちゃんとしたお話を伺ってみたい)。


最後の報告は新免康さん(中央大学)と小沼孝博さん(東北学院大学)「台湾故宮博物院所蔵ヤークーブ・ベグ関連文書について」。これは1867/8年にヤークーブ・ベグが清朝皇帝(Khaqan-i Chin)にあてた書状を分析した研究。

もともとテュルク語で書かれた原文の内容がおそらくはクムル回王府で漢文に訳された際に「読み替え」が為され、「天子」としての清朝皇帝のステイタスを認めるようなものになっていたというのは実に面白い。オリジナルでは自分たちは天地を創造した神以外に頼るべき存在はない、と「神様」の話をしているのに、それが漢語訳では一連の出来事は天の意志だ、という文言になり、天の意志=「天子(皇帝)」の御心のままに、という方向に一大転換しているというのがお話の肝ともいうべき部分である。

これを単なる「改竄」で片づけて「だから中国はしょうもない」と中国嫌いの方々は言いそうである(じっさい、会の最後でコメントなさった楊海英さんはたぶんそういう意味のことを仰せであったように思う)。しかし、それは学問的には実にもったいないことではなかろうか。このお話はもっともっと面白さ(といったら不謹慎でしょうかね?)をもっているとみることができるようにも思うのだが。

つまりだ、これをことばそのものに注目するかたちで眺めなおしてみたらどうだろう。思い切りお話を単純化すると、khuda(神)、asman(天)、そして天子という3つのことばの関係を考えてみたら。これらのことばは当然(1)トゥルキーのことば(19世紀なんで、ウイグル語と呼ぶのはちと不正確。第一どっちも借用語彙だし)と(2)漢語に分けることができそうだ。そこで、この文書(原文と漢語「訳」)をめぐるアクターは、(a)文書原文作成者(ヤークーブ・ベグ配下の書記か)、(b)クムル回王府の翻訳官、(c)清朝の役人の3者が想定できるわけだけれども、翻訳者がじっさいどういう言語環境にあったのか、というのがものすごく興味深い。

これは帝国論や国家意識なんていう枠でもまだ小さい(小さいんだよ、とあえて主張してみたい)、もっと大きなそしてラディカルな言語学的?な問題をはらんでいるのではなかろうか。少なくとも例題ぐらいにはなりそうな気がする(気がするだけかもしれない)。

研究会参加報告はここまで。朝に伊那を出て、研究会終了後ただちにとんぼ返りという慌ただしい参加ではあったが、実に濃密な時間であった。


*****

最後に、会場では幹事の澤井充生さん(首都大学東京助教)からご玉稿「中華人民共和国の「宗教団体」に関する一考察:イスラーム教協会の事例」(首都大学東京『人文学報』438号所収)抜き刷りを賜った。多忙にもかかわらずばりばり生産を続ける澤井さんの活力にはいつも感嘆の念を禁じえない。中国ムスリム研究会幹事のご苦労とあわせ、この場で感謝申し上げます。


|

« アリムジャン・イナイェト「チャガタイ語から新ウイグル文章語への移行、およびその過程における民間文学の役割」 | Main | 暑中お見舞い申しげます。 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 中国ムスリム研究会第21回定例会:

« アリムジャン・イナイェト「チャガタイ語から新ウイグル文章語への移行、およびその過程における民間文学の役割」 | Main | 暑中お見舞い申しげます。 »