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コミューター・スカラーの悦楽

昨日は相模原、そして本日は府中の東京外国語大学で「現代ウイグル語」を教える。

伊那谷から首都圏に遠距離通勤をしているわけであるが「東京」に来ているという実感は皆無である。そちらで移動するのは中央道元八王子バスストップ~淵野辺間と中央道府中バスストップ~多磨(東京外国語大学前)間だけ。町らしい賑わいは西八王子と淵野辺の駅前しかなく、あと八王子駅の乗換えがちょっと込み合うぐらい。火曜日の今日なんて西部多摩川線の「競艇場前」と「多磨」しか利用せず、通勤ルートにはコンビニが2軒しかない。つまり利用できるお店も伊那の方が遥かに大きく、買い物は全く楽しめない。

ようするに、通勤がてら首都圏にちょいちょい出てくるメリットはほとんど無い。わずかばかりの授業のために「はるばる」伊那谷から出てくることに意味があるのか、と思われる方もいるだろう(じっさい外語大のキャンパスでことばを交わした旧知の某先生は、「長野県」と言って絶句しておられた)。

しかし、負け惜しみではないが、私は今の生活が好きである。当初はどんなものかと思わないでもなかったが、実際暮らしてみると案外悪くない。むしろ東京にいたときよりも、さまざまな面で有意義に時間を過ごしているように思われるのである。考えてみると、これは曖昧な「感覚」の問題ではなく、ある程度「数値化」できる事実である。

たとえば長距離通勤の結果、伊那谷と首都圏を往復する時間(往復5時間強)がまるまる作業時間になった。いまの中央高速バスは無線LANが完備されており、コンピュータを開けば自宅にいるのと遜色ない通信環境である。メールの送受信、このブログの更新、ツイッターのつぶやき、授業の準備、史料の講読、論文の執筆と何でも出来る。現時点でバスの中でできないのは「辞書編纂作業」ぐらいのものであろう(私の辞書の仕事は自宅のキッチンで大型辞書をいくつも開き、場合によっては蔵書のいくつかを開いたりする作業の繰り返しであり、もはやキッチン以外の場所で取り組めるような体制になっていない。そもそもそれは早朝の仕事と決めているし、わざわざバスの中でやろうとは思わない)。

誰に邪魔されるわけでもなく、3時間弱「座っていなければならない」時間を毎週4回こなせるというのは存外お得なことではないだろうか。たとえば同じ時間を家やオフィスで過ごせたとしても、バス以上に仕事がはかどるとは思えない。いや、出来る人がいないとは言わないけれども、少なくとも私は無理だ。家にいれば庭の野菜が気になったり、掃除をしたり、トイレにこもって積んである「読みたい本」を生理現象のせいにして読みふけったり(なお、今トイレで開いているのはこれ)…本当にろくでもない。子供はかわいいが、子供と一緒のときは仕事なんて何にも出来ないし。

いまのような交通の便が確保できるのならば、遠距離通勤も悪くない。長距離バスで3時間前後かかるところにわざわざ住むのも「あり」だという気がしてきた。なんならフルタイムでこういう通勤をしたっていい。移動中なのだから外部からの通信は「謝絶」し、ウォークマンでお気に入りの曲を聞きながら、読み書きに深く深くのめり込むのである。

去年「伊那から東京に通うんだ。片道3時間だよ」と欧州のある友人へのメールに書いたら、彼女から「3時間ならいいじゃない。私は6時間」という答えが返ってきて仰天したことがあった。毎日ではないようだけれども、彼女は家族の住むドイツのザクセン・アンハルト州から職場のあるコペンハーゲンまで通っているのである。「通勤学者(Commuter scholar)の暮らしを楽しんでいる」という彼女(なお、彼女は優れた人類学者である)のメッセージを私は皮肉と受け取ったのだけれども、いや、これはガチで楽しんでいるのではないかと言う気が今はしている。多分電車の中で、飛行機の中で、そしてバスの中で、彼女は彼女なりに読み書きの時間を楽しんでいるのではなかろうか。世の中は雑用だらけ、ぼうっとしているとつまらぬ仕事が追いかけてくる。研究者は自己防衛のため乗り物に身を委ねて走り去り、そこに頭脳の平和を見出すのである。

少なくとも今年度中はこの「コミューター・スカラーの悦楽」を私は存分に楽しむはずである。出来れば来年も、いやその次の年も、飽きるまで続けて行きたいものだと思っている。

「時間がない」「忙しい」と言っているあなた、座席が確保されている交通手段のある「遠い」どこかに住処を求められてはどうですか?

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