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「眠れるドラ猫」の覚醒?-論集編集はつらいよ

ずうっと前の「辞書編纂はつらいよ」につづき、「つらいよ」シリーズ第二段である。こうなったら今後もあれこれ「つらいよ」ぶりを告白していくこととしたい。

懸案の論集、そろそろおしまいにしなければ。

2008年にウルムチで開催した学会『マザール:シルクロードにおけるイスラーム聖地の研究』は大変素晴らしい会議であったが、まだその後始末ともいうべき論集の仕事が終わっていないのは困ったことだ。例によって菅原は仕事が遅い、と叱られそうだが、本当に申し訳ない。

しかし、会議後も音信普通であきらめかけていた人から(たまたま別の場で再会しちゃったので)思いがけずペーパーが届いたり、何度も書き直しをなさる方がいたり、編者のがんばりだけではどうにもならないことも多々あったのですよ。それに加えて自分自身の周りの冠婚葬祭やら引越しやら子育て、さらには取るに足らない(と傍目には写るであろう)自分の研究もあった。そういう事情もどうかお察しいただきたい。

「研究所出版物」のようなマイナーでマニアックな出版物ばかりとはいえ、いちおう世に出るものを何冊も手がけた立場から言わせてもらえば、本一冊を世に送り出すことは大変骨の折れる仕事である。特に多くの方が執筆者として関わる論集のようなものは、もともと個性が強い、意識の高い(あえて言うなら「身勝手な」)執筆者とのやり取りに大いに消耗する。今手がけている論集の執筆者は30人弱である。目が回る。

一冊の本としてまとめるからには、誰でもまずは体裁上の統一を図ろうとするものである。それはたとえば総ページ数や章番号の振り方、行あたり文字数、ページあたり行数、段組み、インデント、脚注や文献目録などの基本的なフォーマットはもちろんのこと、文中に登場するターミノロジーの綴りやアラビア文字やキリル文字の転写法にまで及ぶ。実はこういう執筆ガイドラインはできるだけ周到に事前に開示してあるのだけれども、それがまともに顧慮されたペーパーは極めて少ない。まずこの書式上の問題を正すのがとっても面倒くさい。私はこういうことが嫌いではなく、正直かなり得意な方だとは思うけれども(事実、仕事として編集を請け負った経験も少なからずある)、それでも面倒なことに変わりはない。山ほどお金があるなら人に投げたいところだが、そんなお金はないし(だいいちそういう仕事は人に頼るとろくなことがない。結果的に時間と手間とストレスをお金で買ってしまうことになったりするのだ。不思議な世界!)。

それでも、今回の論集は対象となる地域と分野がまあ近接しているのでまだいいほうだ。たとえば私の分野(歴史学)だと、もう少し時代をさかのぼり、モンゴルが出てくるともう大変である(これを歴史書編集の「元寇」と私は呼びたい。この場合「モンゴルの平和」は無い)。モンゴル語人名とペルシャ語人名のバランスをどうとったものか、それぞれの「勢力」との喧嘩(論争)を覚悟しなければならなくなる。「ティームール」か「テムル」か、「ハーン」か「カーン」か、だけでもかなりの混乱が予想されるし、統一をはかるのは不可能である。かつて角川書店の『角川世界史辞典』の専門領域部分の校正をまとめてお引き受けしたことがあった。そこでものすごいエネルギーを要したのは、そのような専門(扱う史料の言語)の違いをどう乗り越えるか、と言う点であったと(下っ端の身ながら)記憶する。

(余談ながら、『角川世界史辞典』では、膨大な量の短い記事ひとつひとつについて、それぞれガイドラインに適っているか、コンテンツとして要件を満たしているか、などまるで社会科のテストの採点でもするような感じで校正していくことを求められた。その仕事で分かったのは、大学の教員の中にも文章をまともに書けない人がいるのだ、と言う事実であった(よくもまあ、人のレポートや卒論の指導が出来るものである。もっともそういう「痛い」教員がいるのは実は珍しくもなんともないことだそうだけど)。今だから言えることだが、とんでもなくひどい文章を書いてくる「先生」が数名いて眩暈がした。最終的には何とか格好をつけたけど)。

さて、フォーマット以外に、各ペーパーの内容のチェックも改めてしなければならない。もちろん個別のペーパーのレヴェルについては、出版元の要請もあり、早くから個別のペーパーは委嘱した査読委員の査読を経ており、著者修正もいちおう終えているので多分問題はない。ここで言う「内容のチェック」とは、私が「編者」の立場から、個別ペーパーが「一冊本の収録記事として十全に適切な内容であるかどうか」をあらためて見直すという作業である。たとえば本書はイスラーム聖者廟すなわちマザールに関する研究論集であり、マザールが何であるかとか、対象地域である新疆やフェルガナがどういうところであるか、と言うことがらは「本書の常識」に属する。そういうことは私の名で巻頭に書くはずの序章にすべて盛り込まれるので、個別ペーパーで正面から講釈すべきことではない。したがってそういう「常識」はばっさばっさと切り落としていく。

さらに、小さなことではあるが「この論文」、「この会議」などの文言も吟味して、場合によっては「この章」「この本」のように書き換えなければならない部分も出てくる。そういう「一冊の論集のパーツ(と言う言い方が悪ければエレメンツelements)」としての大小さまざまな凸凹を整形していかなければならないのである。そういう「人の書いた文章」にハサミを入れるような仕事は本当に神経をすり減らす。そういうプレッシャーに打ち勝つには、(本来の自分とは違うと思いつつも)「厚顔無恥」あるいは「俺様」の態度を貫くほかはないのである。その意味で編者は独裁者である。

さて、独裁者を演じる他に、編者には、本書をいわば「束ねる」文章である序章を書くと言う仕事もある。

これは本書の学術的な価値を左右する、きわめて重要なパートである。このブログをお読みの方の中には「序章なんて関係ねーよ。◎◎先生の論文をコピーしてゲットすればそれで用済みだもんね」とお考えの方もいらっしゃるであろう。それは論集の使い方として「本当に正しい」。私だって自分の関心あるテーマの論文を収集するときには論集に収められた論文のところだけをコピーする。序章なんて絶対に読まないし、読む余裕もない。実際そういう使われ方を自明のこととしてまとめられた本も決して少なくない。一昨年出した『新疆史料の研究』論集はまさにそういう序章の体裁をとっているし、SOAS会議の論集なんかもそうだ。そもそも共同編集の本は当初の志がどんなに高くても、結局は編者同士のパワーバランス(で言葉が悪ければ「エフォート」の配分)やスケジュールの関係で序章はおざなりになりがちという印象がある。

しかし編者が自らの個性を発揮し、個別のペーパーを有機的にまとめて確固とした方向性のある論集を世に出そう、という強い(かなり身勝手な)意志を持っている場合は、序章はこだわりぬいたものになる傾向がある。たとえば私の分野ではJo-Ann Grossさんの編まれたMuslims in Central Asia. (Durham & London, 1992)などがそうだろうと思う。あの本は論集のくせに冒頭に「両親に捧ぐ」など献辞が書いてあって変な本だなあ、とかねて思っていたが、今にして思えばそれは編者がその論集のeditingに強烈な思い入れを持っていることを示すものだったのだろう(あるいは文字通りご両親に直接迷惑をかけたのかも知れない。「パパー、ママー、締め切りが近いの、これとこれ、コピーとって来てー(泣)」とか。まさかね)。実際、その論集はグロスさんの呼びかけに集った執筆者たちの仲のよさが窺われる粒ぞろいの論文を集めた面白い論集である。たぶんそうしたクオリティはなによりもその集いをよりよい形で残したいと思いたったグロス女史のパッションから導き出されたものではなかったか。その論集の序章はそうした学問のコミュニティーに対する「私たちの貢献」という自負が読み取れるようなよい文章である。

私もこの論集、いやこの論集の前提としての「ウルムチ会議」にはこのうえない思い入れをもっている。トヨタ財団のご厚意で助成を受け、幾多の困難な条件がありながらも新疆大学の友人たちと「手作り」で開催にこぎつけられたあの会議は素晴らしいものであった。トヨタ財団や日本、新疆、そして世界各地から参加いただいた方々の恩義に報いるためにも、ひとつの記念碑としてこの論集をまとめ上げたい、との思いを私は強く持っている。

さらに、そういう「恩義」もさることながら、その論集は中央ユーラシアの「マザール」すなわちイスラーム聖者廟の粒ぞろいの研究を集めた、当分野としてもめずらしく包括的な性格を持つ論集になるはずである。したがって専門や地域を異にする研究者や学生達にとり、それらペーパーを読む前提となるような概説的な説明が必要である。それは序章でなされねばならない。このような概説的、当該テーマの導入的序章を配置することにより、この論集は当該テーマに関する基礎文献としての稀有の価値を持つことになるはずなのである。

以上、本書の「序章」につき私の「気負い」のほどが知れようと言うものである(気恥ずかしい)。せいぜい不完全燃焼の格好悪い「着陸」にならぬよう意を用いたい。

さて、編者の仕事はそれだけではない。ほかにも仕事は山積みだ。すべてのパーツが出揃ったら索引を作らなければならない(なお、私は人名、地名、用語に分けるような索引作りは嫌いである。あれは目的の言葉を捜すためには二度手間になり全然user friendlyではない不親切、と言うか頭の悪い作り方だと思う)。さらに上述の「基礎文献」的性格を考慮するならばグロッサリも完備したい(グロッサリ作りは「お得意」の?辞書作りのノウハウを存分に活用させてもらう)。そういう一連の作業を終えて初めて序文(Preface)と謝辞(Acknowledgement)に取りかかることが出来る。

以上の作業にどれぐらいかかるだろう。ずいぶん長くかかりそうな気もするが、本気でやればかなり早く終わるのではないかと言う気もする。「中国は眠れる獅子だが、いったん動き始めたら止まらない」とか言ったっけ。私も出来ればそういう気持ちでそろそろ本件に関しては眠りから醒め、動き出したい。まあ私の場合はせいぜい「眠れるドラ猫」あるいはドラえもんといったところだが。

以上、本文にお付き合いいただいた読者の皆さん。怠け者の私をどうぞご鞭撻ください。「あの論集どうなったの」のひと言で十分ですから。

【付記】…と美しく決めた(?)ところで、ほかでもないJo-Ann Grossさんの編集でタジキスタンのマザール信仰に関するご高著が刊行予定となっていることを知った。うかうかできない、と俄かに焦り始めました。

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その後、かなりの苦労を経て、この論集は2016年3月に東京外国語大学出版会から刊行された。このブログエントリーからさえ実に5年も経過し、ただただ執筆者の方々には遅延をお詫びする次第。

本書はamazon.co.jpから購入が可能です。
https://www.amazon.co.jp/Mazar-Studies-Islamic-Central-Eurasia/dp/4904575512/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1466544602&sr=8-1&keywords=Mazar

Posted by: 菅原純 | 2016.06.22 at 06:30 AM

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