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東洋史基礎演習(基礎ゼミ)開講にあたって-学部2年生へのメッセージ

(以下は青山学院大学・文学部史学科東洋史コースの「基礎演習」今年度第一回の講義で述べたことを適宜補筆修正のうえアップしてみました。たぶん、私などより遥かに聡明な方々は「それは違う」とか「まだまだ思慮が浅い」とか「私はこう思う」という異論があろうかと存じます。浅学もかえりみず勝手なことを書き連ねておりますが、どうかご寛恕いただければ幸いです。)


昨年、今日のような美しい春の日に大学生活をスタートされ、高等学校とはひと味もふた味も違うであろう1年目を、皆さんは思い思いに送られたことと思います。この一年は皆さんにとってどんな一年だったでしょう。オトナとしての自由を満喫し、毎日が楽しくて仕方が無かったと言う人もいるでしょう。また「こんなはずじゃなかった、期待はずれだ」とあまり面白さを感じられないまま一年を過ごされた方もいるかもしれません。いずれにしても、大学がどういう場所であるか、大学生がどういうものか、ということがようやく自分の中で消化されて、身の置き方、振舞い方が、その一年の暮らしを通じて「自分のもの」になってきたということは、おそらく皆さん全員がそうした感覚を多かれ少なかれお持ちなのではないかと思います。

この2年目、皆さんは、もはや右も左も分からない「新人」でも「最下級生」でもなく、いちばん「大学生」らしい「大学生」なのです。今はお分かりにならないかもしれないでしょうが、2年生のこの一年は、次の3年生とならんで大学生活をもっとも謳歌できる「きらきらした時間」です。いや、ここのところ就職活動はずいぶんと始まりが早くなっていますから、そこから考えると「きらきらした時間」は今や2年生しかないのかもしれません。この一年は大学生活の中でもっとも長く、そして最も楽しく、皆さんのこれからの人生の中で忘れられない一年になることでしょう。今はぴんと来ないかもしれませんが、時が来ればそれはきっとお分かりになるはずです。

年度の初めに、皆さんの年齢を通り抜けて馬齢を重ねた先輩として、衷心より申し上げます。この一年を大切にしてください。大切といっても、時間がこぼれ落ちていかないように時計の秒針を凝視するようなみみっちいことをしろと言っているのではありません。ぼうっとしていないで、ためらうことなく熱中できることに熱中してください。それは何でもいいのです。バイトが面白ければバイトでもいいし、サークル活動でも、ボランティアでも、遊びだっていいのです。もちろん恋に熱くなるのも結構です。無為に過ごすのはもったいない。この一年を生き生きと過ごしていただければと思います。どうか半端に済ませずに、この一年おおいに「弾けた」時間を送ってください。疑いなく、それがあなた方に与えられた特権なのですから。

まあ私は教員として皆さんの前にこうして立っておりますので、あえて申し上げるのですが、「弾け方」のひとつのあり方として「勉強」もまたいいものです。皆さんはたぶん勉強がそれなりに好きで、とくに歴史に何らかの興味があって史学科に進まれたのだと思います。そうであれば、またたとえそうでなくとも、勉強というものはそれはそれでかなり面白く、この「きらきらした一年」をかけるだけの魅力に満ちた代物です。別に「他のことをするな」と言うつもりは全くありませんが、ぜひ「勉強」も熱意を持って取り組んでいただきたいのです。

☆☆☆

皆さんは過酷な「受験戦争」(今ではずいぶん使い古された言い方になってしまいましたね)を通り抜けられ大学に来られました。小学校からこっち「勉強」を続けてこられたわけですけれども、受験までの「勉強」と大学での「勉強」はよく言われるようにいささか性格が違うものです。いや、全く別物といってしまってもいいかもしれません。受験までの勉強は、極論を言えば、「本当のこと」を学ぶものではありません。我々の世界は多くの矛盾に満ちており、またその実なにが本当のことで、なにがそうではないか、ということさえ分からない、頼りない地盤の上にやっと立っているというのが本当のところなのです。つまり確実なことは何一つ無い。事実は解釈の数だけ存在し、到底ひとつに束ねられるようなものではありません。高等学校までの勉強や受験勉強は、そうした不確実な諸事実の一面を、「便宜的」に「本当のこと」と暫時仮定してして習得するゲームのようなものです。「便宜的」に社会で「取り決められた」「合意事項」を学ぶ教養のトレーニングが、言ってみれば高等学校までの勉強だったとも言える訳です。少なくとも、皆さんが得意であったろう高校の「世界史」とはそういう「科目」であったといえます。別に私は世界史がダメだといっているわけではありません。そういうトレーニングは「本番」にたどり着くためには不可欠のプロセスなのですから。世界史の教養をパスして歴史学に取り組むことはできません。

しかし大学の学問としての「歴史学」はそうした「ゲーム」とは違います。私たちがこれから取り組む「歴史学」はそうした教養トレーニングをひとまず「卒業」したうえで、なにが信頼にたる「自分(あるいは自分たち)にとっての事実」なのか、それをしかと見定める取り組みなのです。これまで単なる消費者として無批判にながめていた「便宜的な歴史事実」をクールに自分なりの根拠に基づいて見直す行為、と言う言い方も可能でしょう。

ただ、こういうことはいまや皆さんの間ではもはや当たり前のことかもしれませんね。今般の震災、原発事故についての東京電力や原子力保安院、そして政府のリリースする情報にしても、またそれを伝えるメディア報道にしても、どこか頼りなく、お茶の間(死語?)で私たちは「ほんまかいな」といちいち突っ込みを入れざるを得ないような状況になっています。インターネットで氾濫する情報や「つぶやき」を私たち自身が選別し、裏を取り、どれが信じるに値するか、各自が判断するような時代になってきています。これはまさに歴史学がやってきたことで、歴史学の手法、つまりそれを「史料批判」とか言ったりする訳ですが、それが今ほど必要な時代はないのではないでしょうか。

学問としての「歴史学」は、どこから手をつけたものか憚られるほどに混沌としていたり、または荒漠としている対象を、自分の目と手で秩序ある形に組み立てていかなければなりません。それは大変面倒で厄介な取り組みです。しかしご自分の目で歴史-過去の人間の営み-とリアリティをもって向き合うある種の達成感を感じることができる快い取り組みでもあります。ぜひ皆さんにはそういう「厄介だけど快い」学問を体験してもらいたいのです。

そして、こうした「学問」を通じて得られるであろう技術は、かならずや皆さんの役に立ちます。まさか皆さんは文学部史学科が歴史学者を養成するために存在しているなどとは考えておられないでしょう。それはもちろん違います。育まれた問題意識からひとつの具体的な問題を設定し、その解決のために情報を収集し、選別し、分析して結論を導き出す、という一連のプロセスは歴史学に限らず、どんな学問でも、いや、どんなお仕事でも基本的に同じです。ただ対象と材料が歴史を扱っているだけのことで、取り組み方や手立てはそれぞれそう違ったものではないのです。皆さんはご自分の趣味にあっている歴史学でそういう「技」を磨かれればよろしいのです。それは実社会で必要とされているすぐれて実践的な技術なのですから。

これから皆さんと1年を過ごすこの「基礎演習」は歴史学を通じてのそういう「技術」とのおつきあいの最初のステップです。史学科では皆さんの勉強の最終的な到達点として卒業論文、つまりご自身で歴史と向き合った取り組みの総まとめ、を課しています。この基礎演習では、卒論を射程において、そのために必要と思われる基本的な技術を習得することをまずもって第一の目的においています。基本的な技術とは、単純に言えば「本やことばとの付き合い方を学ぶ」ということです。より細かく言えば、本や論文の探し方、読み方、ノートの取り方、情報のまとめ方、コンピュータとの付き合い方、そして文章の書き方(テクニカル・ライティング)まで、大学生として身につけていてもらいたい数々の基本技術ということになります。これをこの講義では扱っていきます。

この講義では、できるだけたくさんの「本」や「文章」を皆さんには読んでもらいたいと思っています。次回か、次々回に図書リストを配布します。その中には学者の伝記や自伝、歴史理論に関するものも含まれるので、すべてが十全にそうだとは言いにくいのですが、具体的な歴史を扱った文献については、ただ漫然とそれを「読む」のではなく、ぜひその文献を「解剖」するような意気込みで「読み解いて」もらいたいのです。具体的には、

(1)著者(書き手)がいかなる問題意識によってその文献を書こうと考えたのか(研究史に照らし、それは正当なものなのか?、時宜に適っているのか?他の人も納得できるようなリーズナブルなものなのか?)、
(2)その問題意識から、そこで何をどこまで明らかにしようとしているのか(それは正当なものか?到達可能なものか?飛躍は無いか?)
(3)そのため拠り所とした史料(根拠となる文献や文書、証言など)はどういうものなのか(それは本当に信頼できるものなのか?どういう性格を持っていて、どういう欠点を持っているのか、使う上で何か注意すべき点はあるか?)、
(4)そうした史料を動員して、いかなる段取り(構成)で(2)にアプローチしようとしているのか?(その手続きは正当なものか?)、
(5)それぞれの部分から浮上してきた部分ごとの結論はどういうものか(それは正当なものか?)、
(6)最終的・包括的な結論はどういうもので、それは論理的に適切なものか(上述の各部分の結論が論理的に配置されて、正しく総合され結論が導き出されているか)

などと言う点にいちいち留意しながら読んでいってもらいたいと思います。そういう読み方をこの1年間みっちり鍛えていき、歴史学のものの見方を養っていただきたく思います。

この一年どうぞよろしく。この授業を通じて「何かをやり遂げた」と達成感が感じられるようでありますように。

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