「カシュガル再訪」ワークショップ開会挨拶

以下に紹介するのは標記会議で、開会にあたってオーガナイザーとして5分ばかり時間を頂戴して私が述べた挨拶を和訳したもの(と言うか日本語原文)。実際は緊張で十全に言いたいことを伝えられなかったような気がしているので、ここに完全版を挙げておく。

なお、この私の挨拶に先立って、もう一人のオーガナイザーであるイルディコ・ベラー・ハン(コペンハーゲン大学)が同じく挨拶を述べ、会議の趣旨、組織経緯、スポンサーへの謝辞などを述べている。よって私のあいさつではそうした内容は(用意していなかったわけではないが)スキップしている。


"Coming to Kashgar in 1929 was like coming from the present to the Middle Ages, like coming to a setting for A Thousand and One Nights. ...... Nowhere in the world can one today find such a well-developed Islamic medieval society as Kashgar was in those days."
---- Gunnar Jarring

おはようございます。私は日本から参りました菅原です。ワークショップのオーガナイザーを代表して、いま一度、ここで皆様に謹んで「サラーム」を申し述べたく思います。ワークショップ『カシュガル再訪』にようこそ。

このワークショップは、傑出した学者で、かつ卓越した外交官であったグンナー・ヤーリング大使を共に思い起こすことを目的としています。そして、会議のタイトルはもちろん、大使の魅力的なトラヴェローグ『カシュガルへの帰還』にちなんだものです。カシュガルは、ご存知の通り、我々それぞれが関心を持つ地域、まちの名前ですが、ここではより大きな意味で、我々の友人である「ウイグル人の世界」すべてを指す象徴的な意味でご理解ください。

開会に当たり、ここで5分ばかり、どうか私個人のカシュガルと、ヤリング大使との関わりについてお話することをお許しください。

今日ここにおいでの皆さんの中には、私などよりはるかに長くカシュガルと、そしてヤーリング大使と濃密なおつきあいをされていた方が少なからずいらっしゃいます。そんな中での私の体験など、実にささやかなものであります。しかし、そのささやかな体験でも、私にとっては実に大きな意味を持っているということを、ここで少しお話させてください。

私が最初にカシュガルを訪れたのは1986年の8月のことです。4日間に及ぶバス旅行の末、私はひとりのバックパーカーとしてカシュガルに到着したわけですが、当時カシュガルについて何の知識も持ってはおりませんでした。

その時分はちょうど犠牲祭(Qurban heyt)の時期でした。そこで私がみたもの、聞いたものは、それがヤーリング大使の体験されたことと全く同じとは思われないのですが、それでも「アラビアン・ナイトさながら」の風景、人々、青い空、馬のいななき、茶色いトゥマン川は、若い学部学生であった私にとてつもない大きな印象を残しました。今にして思えば、そこで私はカシュガルとの出会いを果たし、それが現在までの私の人生を決定したのでした。

旅から日本に帰ってより後、私はカシュガルについての勉強をはじめ、テュルク語も学び始めました。そして数年が経ち、私はついにヤーリング大使と出会ったのです。

私は1992年と1998年に2度スウェーデンを訪問しまして、どちらも新免康さん(中央大学教授)と一緒に大使にお会いしました。そしてどちらの時も、ルンド大学図書館のエリック・ニカンダー博士のお世話になりました。ニカンダーさんは今日ここにおいでです。ニカンダーさん、ようこそお越し下さいました。皆さん、ルンド大学図書館のキュレーター、エリック・ニカンダー博士をここでご紹介させていただきます。ニカンダーさんはもう引退なさっておられますが、今日ここにわざわざお立ち寄りいただきました。心から感謝申し上げます。

さて、私はヤーリング大使に1992年にはルンド大学図書館の閲覧室で初めてお会いすることができまして、同図書館に所蔵される、大使が整理なさった通称「ヤーリング・コレクション※」を、大使ご自身のご案内で調査する機会に恵まれました。一点、一点の写本につき大使は丁寧にご説明下さり、若輩者の私としては大変恐縮したことを覚えております。

そして1998年には大使の晩年の住まいのあったヴィケンでお会いすることができました。98年、ヴィケンにはニカンダーさんが親切にもご自分の車を運転して連れて行って下さいました。ヴィケンでヤリング大使と再会した日のことは忘れられません。小さいけれども機能的なお宅に大使はお住まいで、私たちはダイニング・キッチンのテーブルを囲んでお話をしたのでしたが、大使の背後にある書架にはスタイン・オーレルはじめ、貴重書がびっしりと詰まっておりました。ヤリング大使は「みなさい、これらの本は今ではずいぶん高価な価値ある本なのですよ」と誇らしげに蔵書を指し示しておられました。これらの本は現在はイスタンブル・スウェーデン研究所、つまり当ワークショップのオーガナイザーの一人でもあるシュライター先生の監督下にあると伺いました。大変素晴らしいことだと思います。こうしたヤリング先生の遺産は、必ずやトルコやそこを訪れた外国の友人たちにとっては実に有用な助けとなるでしょう。

ともあれ、ヤーリング大使にはじめてお会いした翌年から、私は新疆に暮らすことになるのですが、そこでの2年間のなかで私に手紙をくれた知人友人はごくわずかでした(当時はインターネットなんてものはなく、手紙はすべからく郵便で交わされていたのです)。たしか、今日ここにいるジム(=ミルワード)が1度か2度、アリゾナから手紙をくれたのではないかと思います。そしてヤーリング大使。大使は私のような者の手紙にも必ず返事を下さいました。それは多分、彼の外交官としての習慣から導き出されたものだったのでしょうけれども。しかしそういう大使の丁寧なお手紙が、ひとり新疆に暮らす私にとってどんなに励みになったことか。あれから、20年近い時間がたってしまいました。

このやけに冗長な、かつドラマティックでもない私の話は次のように要約できるでしょう。今にして思えば、カシュガルとの出会いは、確かに私の人生を決めたのです。そして私は、このカシュガルの大地にかかる研究を行うものとして、ヤーリング大使ご自身と、大使のお仕事に、この上ない恩義と申しますか、負い目を感じております。それは、多かれ少なかれ、ここにおいでの皆さんも共に感じておられることなのではないでしょうか。

皆さんが今日から3日間にわたるこの会議を存分に楽しまれること、そして今は亡きヤーリング大使のお人柄とその東トルコ語に関するお仕事にあらためて思いを致すことを心から望みます。本当に今日、ここにお越し下さりありがとうございました。

よろしい、友人諸君、用意はよろしいですか?
カシュガルを再び訪れる準備はできていますか?
ey adash, emdi qaytidin Qeshqer zeminini ziyaret qilip baqamduq?
xoshal-xoram bilen mush qadirliq ilmiy yighinni ötküzeyli.
... "Azizane Qeshqer", menggu güllinip yashinisun !
カシュガル万歳!
Silerge köp rehmet !
ありがとう!


※ヤーリング・コレクション: 19世紀末〜20世紀初頭カシュガルを中心とする南新疆で伝道活動に従事したスウェーデン伝道団のミッショナリが収集したアラビア文字写本類500余点からなるコレクション。ヤーリング大使がそれら写本の統合、整理を行ったことからその名がある。)

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カシュガル再訪:グンナー・ヤーリング大使没後10年記念ワークショップ

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Kashgar Revisited: Workshop to commemorate the 10th anniversary of the death of Ambassador Gunnar Jarring

Sponsored by The Danish Council for Independent Research; Humanities(FKK), The Swedish Academy of Letters, University of Copenhagen(Asian Dynamics Initiative The Nordic Institute of Asian Studies, The Department of Cross-Cultural and Regional Studies)

Time: 10th -12th May 2012
Venue: Nordic Institute of Asian Studies, University of Copenhagen, Leifsgade 33, 3rd floor, 2300 Copenhagen

Organizers:
Ildikó Bellér-Hann (Copenhagen)
Birgit Schlyter (Istanbul)
Jun Sugawara (Tokyo)

「世界ウイグル会議」東京会議の喧騒をよそに(?)、北欧はコペンハーゲンで、新疆研究に関する標記学術会議が5月10日から3日間の日程で開催された。

今回、私はオーガナイザーの一人として、開会の短いあいさつと、一セッションのチェアーと、エクスカーションのツアーコンダクターと、ついでに拙い研究発表をこなし、大変消耗はしたが、実に気持ちの良い、濃密で面白い会議であった。当会議の報告は(今回は組織者としての視点から)私はやや長めのものをいずれ書くつもりではあるけれども、さしあたり、ここでは概略のみご紹介することとしたい。

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会議風景。お部屋の壁にはなんと『準回両部平定得勝図』(実物)が掲げられていた。


(何度も言うように)近年、新疆地域に関する学術的関心は確実に高まりを見せている。従来、この地域に関する研究は、歴史学と自然科学研究にほぼ限定されていたが、近年は人類学、言語学などの人文学はもとより社会学、政治学、経済学、国際関係学といった分野の研究も増え、いわゆる「地域研究」の枠組みで当地を解読して行こうという試みが始められるに至っているように見受けられる。

今日、当地を扱う学術研究は、むしろ後発の社会科学を中心とする「地域研究」や、ジャーナリスティックな研究の方が、より現代事情に直結する問題を扱っているため(インパクト・ファクターという点で)より高い評価を受けているようである。しかし、そういう状況は、必ずしも書写資料に依拠した人文研究の価値が低いということを意味するものではないであろう。人文学研究に期待される、対象地域に関する歴史的・文化的背景に関する堅牢な知見と、マテリアリティある手堅い記述は、どちらかといえばそうした点に貧しい「流行りの学問」(実際、そうした学問はその核心的な事実認識という点において、人文系の学術成果に大いに依存している)に対し、一定の「アドヴァンテージ」を有している筈なのである。

コペンハーゲン大学で開催された今回の会議は、上述のような趣旨のもと組織された"text-based"の新疆研究に関する国際ワークショップである。開催年である今年、2012年はたまたま当分野において顕著な貢献ある碩学にしてスウェーデンの有名な外交官、グンナー・ヤーリング大使(Ambassador Gunnar Jarring, 1907?-2002)の没後10年にあたり、今回はそれを記念する形で開催の運びとなった。なお、開催に当たってはThe Danish Council for Independent Researchほかいくつかの資助を受けた。

この会議の組織に当たっては、私は3人の組織委員(organizers)のひとり、より正確には、こういう会を開こうという「陰謀」を目論んだコンビのひとりとして、その一番最初から(たぶん、最後まで)かなりのエネルギーを注ぎ込んだつもりである。国際会議の組織は国内外を通じてこれで何回目かであるが、今回はこれまでの中でも最もカジュアルかつコンパクトに、うまく「こと」が運んだ会議であったし、報告されたペーパーもまた、最近の流行り言葉?を用いるならば、私の研究上の「核心的利益」に直結するような粒ぞろいの素晴らしいものばかりであった(当然といえば当然である。報告者も私と今回の「相棒」のイルディ・ベラー=ハンの「趣味」で厳選したのだから…)。

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コーヒー・ブレイク


以下にプログラムを示す:

1st Day(May 10)

Welcome address and introduction by the organizers

Paper 1 KEYNOTE Birgit Schlyter(Istanbul/Stockholm):
The Turkological Legacy of Ambassador Gunnar Jarring
 (グンナー・ヤーリング大使のトルコ学へのレガシー)

Paper 2 Arienne Dwyer(Kansas):
The contribution of the Jarring Lund Corpus to Turkestani language and culture studies
(ヤーリング・コレクション・ルンド言語資料体のトルキスタン言語・文化研究への貢献)

Paper 3 Rian Thum(New Orleans):
The functions of writing in a 20th-century manuscript culture: an overview of the Eastern Turki manuscript corpus .
(20世紀写本文化における書写の諸機能:東トルコ語写本資料概観)

Paper 4 Äsäd Sulaiman(Stockholm):
From “Eastern Turki” to “Modern Uyghur” How did the Southern Dialects of “Eastern Turki” develop in to the “Modern Uyghur”? – A historical and Socio-Linguistic Discussion of “Kashgar Prints” during the transitional period (1880s-1930s)
(東トルコ語から現代ウイグル語へ-いかに「東トルコ語」南部方言は「現代ウイグル語」へ発展したか:過渡期(1880s-1930s)のカシュガルの印刷物に関する歴史的、社会言語学的検討)

Paper 5 Abdurishid Yakup(Berlin):
The Khotan dialect of Uyghur as seen in Jarring’s transcription materials
(ヤーリングの転写資料にみるウイグル語ホタン方言)

Paper 6 Onuma Takahiro(Sendai):
The 1795 Khoqand mission and its negotiation with the Qing: Political and diplomatic space of Qing Kashgar
(1795年のコーカンド使節と清朝との交渉:清代カシュガルの政治的、外交的空間)

Paper 7 Rune Stenberg(Berlin):
Closeness and marriage in Uyghur Kashgar
(カシュガルにおけるウイグル人の親密性と婚姻)

Paper 8 Joanne Smith Finley & Dilmurat Mahmut(New Castle):
'A man works for the land, a woman works for her man': gender roles and inter-generational change in Xinjiang.
(「男は土地のために働き、女は男のために働く」:新疆におけるジェンダーの機能と世代間の変化)

Discussant’s comments & discussion...James Millward(Washington DC) and Laura Newby(Oxford)

Reception


2nd day(May 11)

Paper 9 Eric Schluessel(Cambridge/Mass):
Xinjiang and the Colonial Question: Punishment and Reform under Late-Qing Rule
(新疆と植民問題:清朝支配後期の刑罰と改革)

Paper 10 Jun Sugawara(Tokyo/Ina):
Waqf Domains in Kāshghar: Dimensions and Distributions of Pious Endowments for Mazars in the Early 20 th Century.
(カシュガルにおけるワクフ地:20世紀初頭の聖者廟寄進地の規模と分布)

Paper 11 Alexandre Papas(Paris):
Muslim Reformism in Xinjiang: Reading the Journal Yengī Hayāt (1933-1936)
(新疆におけるムスリムの改革運動:『新生活』紙(1933-1936)を読む)

Paper 12 Thierry Zarcone(Paris):
Underground Naqshbandi Madrasas in Southern and Northern Xinjiang after 1949
(1949年以後の南北新疆におけるナクシュバンディーの秘密学校)

Paper 13 Rahile Dawut(Ürümchi):
Ordam Mazar: The Intersection of Varied Belief Systems in Trans-Cultural Xinjiang
(オルダム・マザール:文化横断的新疆における多様な信仰システムの交接点)

Paper 14 Chris Hann & Ildikó Bellér-Hann(Halle/Copenhagen):
Magic, Science and Religion in Xinjiang
(新疆における呪術、科学そして宗教)

Paper 15 Fredrik Fällman(Stockholm):
Defining the past and shaping the future – reflections on 20th century Uyghur-Han-Hui relations and the struggle for rights and precedence today
(過去を定義して未来を方向づける:20世紀維漢回関係と今日の権利闘争)

Discussant’s comments & discussion...James Millward(Washington DC) and Laura Newby(Oxford)
Conference dinner

3rd day

Visiting the Jarring Collection of Lund University Library
(エクスカーション:ルンド大学図書館ヤーリング・コレクション訪問)

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ヤーリング・コレクションの最新登録資料(19世紀中葉までのMakhdumzade系図)

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ルンド大学図書館でヤーリング・コレクションの写本資料を皆で閲覧


個別報告の内容については長くなるのでここでは立ち入らない。詳細は近いうちに(まだ書いていないが)公刊予定の私の会議報告、あるいは数年以内に出版予定の成果論文集を参照されたい。一言で言って、新疆に関する人文研究は確実に質と量を充実させてきており、研究者の強固なネットワークとあいまって、当該分野の今後の一層の発展を確信させる、そんな幸福感いっぱいのワークショップであった。

今回の会議は、位置づけとしては、直接的には2004年11月のSOAS会議のリユニオンである。会議報告に書いたように、あの会議は実に愉快で、「小学校の教室みたい」なにぎやかで打ち解けた雰囲気の中、時にはチェアーが「静かにして!」と叱りつけるほどわいわい議論した面白い会議であった。あの会議の報告文を締めくくるに当たり、私はこう書いた。

…こうした暖かい雰囲気で育まれた関係が今後も発展的に維持されていくことを私は期待している。可能ならば2年ごと、あるいは3年ごとにこうした学会が開催できないものであろうか(そういう考えはオーガナイザーも抱いているようである)。こうした集いが定期的に行われれば新疆・ウイグル人に対する最新の知見の共有が促進され、各研究分野の発展、ひいては新疆・ウイグル人に対する一般社会の理解も深められることであろう。必要とあらば私も及ばずながらその実現には力を尽くしたいと思う。

そうした思いが、事後8年を経て本当に実現したのであるから感無量である。いくぶん、顔ぶれは前回通りとはいかなかった(今回は前述の通りヤーリング大使の業績を顕彰するという意図もあり、いわゆるContemporary Issueを扱った研究は対象にせず、もっぱらtext-basedの人文学研究を対象にした)けれども、ミルワードやニュウビーが討論者として参加してくれたのはありがたかったし、若い世代の研究者が報告者、フロア出席者として参加してくれたのも幸いであった。こうした集いが今後も続くことを期待したい。

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新疆虎について-昼下がりの寄り道-

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新疆虎の図(出典

原稿がさっぱり進まないので、読書に逃避していたら、プルジェワルスキーの旅行記(プルジェワルスキー著、加藤九祚訳『黄河源流からロプ湖へ』(世界探検全集9)、東京:河出書房新社、1978年)のあるくだりに目が止まった。

それはプルジェワルスキーが新疆虎(ロプノール虎)について書いた部分である(327-332頁)。彼が1883~1885年に実施した第二次チベット探検、その後半は新疆をチャルクリク-チェルチェンーケリヤ-ホタンーアクス(-ロシア領)のルートで旅行するわけであるが、ホタンからアクスに至る旅程でしばしば「大シカやトラ、まれにはイノシシ」の足跡を見つけたのだという(326頁)。プルジェワルスキーはそこから一通り旅程の記述をしたあとで、どうしても書かずにはいられなかったのか、あらためてタリム盆地の虎について、ページを割いて紹介しているのである。

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ニコライ・プルジェワルスキー(wikipedia)


プルジェワルスキーによれば、彼がその内陸アジア旅行で虎に遭遇したのは、ジュンガリアのイリ河谷、そして東トルキスタン(南疆-菅原注)の二箇所においてであり、虎は後者により多く生息していたと言う。より詳しくは茂み(ジャンガル)のあるタリム川、ロプ・ノール、ホタン川、カシュガル川流域が主たる生息地であった。

彼自身は虎と直接鉢合わせすることは無かったようだが、ロプ・ノール地方に居住するいわゆる「ロプ人Lopliq」から虎をめぐる興味深い話を聴取したと見え、旅行記には「住民(ロプ人を指す)」から聞いた話が紹介されている。以下、そのごく一部を箇条書きで示す:

・虎はその活動を夜に行い、音も無く移動し、獲物を見つけると15メートルにも達する大跳躍を行う。時には第二、第三の跳躍を行うが、それ以上の跳躍をすることは無い。そして、ときに虎はメスを呼ぶオスの大鹿の鳴き真似をして獲物を騙そうとさえする。

・虎の大好物はイノシシで、家畜の牛と羊がそれに続く。またオオシカ(マラール)、ウサギ、雁、鴨などを捕ることもあり、死んだ虎の胃袋から魚の骨が出たこともあると言う。

・この地の虎は、たとえ飢えていても、基本的に攻撃されない限り人を襲わない。人に出会うと普通は気がついていないふりをして(笑)遠ざかろうとする。

・虎は傷に弱く、弾丸1発で死んでしまう。しかし猟師たちはむしろ餌に毒(馬銭子=ストリキニーネ)を塗ったものを食わせて中毒にさせる手法をとることが多い。

・虎の吼える声は断続的で大きく、聞き苦しい。しかしそれを聞くことは(獲物に逃げられたときなど)まれである。

・通常虎のメスは2-4頭、まれに6頭に達する子を生む。多産のときは母虎が子を食べることもある。

プルジェワルスキーはさらにロプ人の虎狩りについて住民から聞いた話を2,3紹介しているが、これも長いので省略する。いずれにしても、新疆の虎がプルジェワルスキーをそれなりに魅惑したのはどうやら確かなようだ。


◆ ◆ ◆

そもそも新疆虎と言うのはどういう虎なのか。

新疆と付き合い始めて四半世紀になり、息子に虎之助と言う名前をつけておきながら、これまで私は迂闊にも新疆と虎を結びつけるのを怠ってきたのであった(なんたること!)。不明を恥じると共に、さっそくいつも頼りにしているグーグルで安易な検索を試みたところ、漢語サイトに一定の記事を見つけることができた。(件のプルジェワルスキーの記事に言及した記事もちゃんとあった)。

例によって漢語ウィキペディアの記事がよくまとまっている。それによれば新疆虎は学名をPanthera tigris lecoquiと言い、動物分類学上は絶滅種のカスピトラ(Panthera tigris virgata別名ペルシャトラ)と同じ亜種らしい。学名のlecoquiとはひょっとしてドイツの東洋学者ル・コック(Albert von Le Coq)に由来するのであろうか(←宿題その1)。現在はカスピトラ同様に絶滅種らしく、百度では1916年に正式に命名され(学界でオーソライズされたと言うことか?)、その年以後確認されていないとある。さきのウィキペディア記事などでは断片的な目撃情報がその後もあったらしいが、いまのところ絶滅種と考えるのが妥当なようだ。2002年には100万元の懸賞金がかけられ捜索が行われたようだが、再発見されたと言う話は聞かない。

カスピトラと同種、ということは外観は下に示すとおりやや長毛の虎だったのであろうか。見た感じ、何だか暖かそうでかわいい。こんな虎がいまや現存しないとは残念だ。

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カスピトラ(19世紀ベルリン動物園で飼育されていたもの

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これはアムール虎

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こちらはスマトラトラ

つまりプルジェワルスキーの記事は、(すべて信頼に足るのか、正確なのかどうかは分からないが)今は失われた新疆虎の生態と、住民と虎のかかわりを今に伝える貴重な証言と言うことになる。ほかにもヘディンがロプ地方の虎について書いており(たとえばヘディン著、鈴木武樹訳『チベットの冒険』(ヘディン中央アジア探検紀行全集3)、東京:白水社、1965年、65-66頁ほか)、それも同じく貴重な記事であるが、結局「新疆虎」の情報は、新疆の「探検の世紀」なしには現在に伝わらなかったと言うことになろうか。

◆ ◆ ◆


新疆虎について、当の新疆住民がいかなる知見を持っていたかといえば、おそらく虎と近接して暮らしていたロプ人や、同じような環境に暮らしていたドーラン人はそれなりの知識と経験を持っていたであろう。しかし彼ら自身は自分たちの知見を文字で書き残すという文化をその頃は持ち合わせておらず、上述の通り彼らを訪問した外来者がそれを書き残すこととなった。ひょっとしたら現在まで口伝えで残る歌謡(qoshaq)やことわざ(maqal-temsil)のなかに何らかの新情報が織り込まれているかもしれないが、私は不明にしてそれを知らない(←宿題その2)。

都市や農村に住む現在のウイグル人の先祖はどうかといえば、管見の及ぶ限りでは、彼らが新疆虎について詳細な情報を持っていた形跡はどうにも見出すことができない。虎(Yolbars / Bars)は干支にも入っている以上知らなかったはずは無いし、まれには狩猟の結果毛皮などがバザールにもたらされたこともあったろう。しかし、一般的にはその生態まで知悉することはなかったのではないか(まあ、虎の生息地ではない日本の住民よりは身近な存在だったかもしれないけれども)。

現在スウェーデンのルンド大学に所蔵される一写本(Prov.204)は、19世紀末葉、つまりプルジェワルスキーの旅行とほぼ同時代に、南疆のトゥルク人(ウイグル人)モッラーがチャガタイ語で書き綴った南疆ムスリムの風俗習慣に関するエッセイ集である。その一章に「害獣たちに関する記述vakhshi hayvanlarning bayani」と題する一章がある。虎については、

「…さらに一種(の害獣)は、yolbarsと呼ばれる。yolbarsは獅子(shir)ほど大きくは無い。yolbars, またはbarsは、獅子より細(inchika)く、その姿(suret)はネコ(mushuk)のような姿である。しかしこの野獣もまた肉食この上ない(khunkhvar yaman)野獣である。獅子が食らうものは何であれこれ(虎)も食らう。」(Lunds UB, Handskriftsavd, Gunnar Jarring Collection, Prov.204. no.20)

とあり、かなり漠然と虎が何であるか説明されている。ネコのよう、とは獅子のようなたてがみがないと言うことを意味するのだろうか。獅子より小さいというのは獅子が新疆に存在しなかった以上、伝聞であることは確実ながら、どうも具体性に乏しい感は否めないように思う。これは一般的な虎の説明を出るものではなく、「新疆虎」に関する情報としてはいまいち使えない。


◆ ◆ ◆


新疆虎は何故絶滅したのか。これはたぶん人間による乱獲が原因であろう(蟻が原因だという説はどうにも私は信じ難いのだが、どうなのだろう?)。ヘディンは上述の文献で虎を狩る猟師の存在を伝えているし、地元民のみならず、英国人をはじめとする外国人もさかんに狩猟を行っていた形跡がある。いわゆる「探検の世紀」は、一部では「狩猟の世紀」(<動物乱獲の世紀)でもあったようで、事実新疆には19世紀末~20世紀初頭もっぱら狩猟を目的としてこの地を訪問した外国人もいた(一例としてはこれとか)。この問題はいずれ時が来たら勉強してみたいネタのひとつではあるが、今は宿題としておきたい。

◆ ◆ ◆


さて、プルジェワルスキーはその旅行記の新疆の虎に関する記事を、こういう話題で結んでいる。

…ロプ・ノール住民の話によると、春と秋、水面の氷が割れやすいときには、トラはけっして氷上を歩こうとせず、イノシシを餌食にして一個所にじっとしている。何も食べるものがなくても、完全に氷結するまで、あるいは解氷するまでがまんしている。

真冬の寒いタリム盆地で、結氷した川面を歩く虎の姿はきっと映えて見えたに違いない。だが今はそうした風景は永遠に失われてしまった。まれにしか聞かれなかったと言う「聞き苦しい」虎の咆哮ももはや聞くことはできない。時間の流れの中で失われていくものは人の「伝統」や「歴史」だけではないのだ。

■ ■ ■ ■

【追記】
その後「ウイグルペディア」に新疆虎(Shinjang yolwisi) が立項されていることを、いつもお世話になっている小沢さんからご教示いただいた。ここに記して感謝申し上げる。この記事では上述したような基本情報に加え、ケリヤ地方のウイグル人猟師によるトラ狩りに関する比較的新しい記憶について、興味深い証言がいくつか紹介されている。新疆虎はどこかで今も生きているのであろうか。

さらに、余談ながら、情報収集の過程でロプ・ノールの地図が日本の陸地測量部によって作成されていた(1922)ことを知った。これは現在東文研所蔵と言うことであるが、カシュガルやクムル、グルジャなどもカヴァーされているようだ。縮尺100万分の1なのであまり参考にはならないかも知れぬが、どの程度の地名を把握していたのか実に興味深い。この地図につき、もし詳細をご存知の方がいらしたらご教示願いたい。地図実物はいずれ機会があったら閲覧してみたいと思う。

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2011年回顧と(ごくごく)若干の展望

年の瀬を迎え、掃除やら家族との時間でまあ忙しく毎日を送っている。そういう家事に忙殺?され「静かな思考の時間」がなかなか取れないのは困ったものである。しかし愚痴ってばかりもいられない。ここで気持ちよく新しい年を迎えるために、まず2011年の総括を試み、いささかの展望のようなものを書いておきたい。

まず自分に今年何があったのか。当ブログの記録に基づき、以下に時系列で示す:

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1月 年末年始は実家にも帰らず信州伊那谷で家族とひっそり過ごす。ワクフ関連文書をコツコツ読む毎日だった。

2月 俄かに新疆の雑誌向け論文(維文)の改稿に時間を費やす(結局、出たのかどうか未確認。どうなったの?)。ほぼ20年ぶりにスキーを再開しイナリ駒ヶ根やぶはらで滑走。「意外に行けるじゃん」と気を良くする。

3月 東日本大震災。信州の我が家は本棚が倒れガラスが割れた程度。岩手内陸部の実家・親戚もほぼ無事なれど、沿岸部の姻戚にかなりの犠牲者が出たことを後で知った。陸前高田など子供時代からなじみのあった地域の津波被害に茫然自失。震災の影響で予定していた公開講演(青山)も中止。中央アジア古文書セミナー(第9回)に参加しいくぶん気分を持ち直す。

4月 新年度開始。AA研フェローとなり、科研プロジェクトを引き続き推進。また青山の基礎ゼミ担当(今年度限り)。

5月 現代ウイグル語読書会@東京外語大をはじめる。

6月 中国ムスリム研究会(第21回定例会)出席

7月 野尻湖クリルタイ参加。

8月 信州を一歩も出ず、子供とプール通い。信州でこんなにプールに入るなんて思わなかった。行ったプール →1, 2, 3, 4

9月 伯父の重興梅岳英彦大和尚、遷化(4日)CESS@コロンバス参加。3か月連続の海外報告はじまり。

10月 「中央アジアのスーフィズムとイスラーム」シンポジウム(プリンストン大学)招聘・参加

11月 「新疆問題を越えて」ワークショップ(オーストラリア国立大学)参加。内陸アジア史学会@富山出席。

12月 九州史学会特別企画「アジ文研・ユラ研の時代」出席

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こう書いてみると、今年は堅実な仕事をあまり前に進められず、伊那谷の自然を満喫し「のほほん」と過ごしてしまった1年であったとつくづく感じる。今年の一字は「絆」だそうだが、個人的にはもう「薪」と書くしかない。薪の調達と薪割り、薪棚作りと薪の乾燥、がこの一年だったと言えなくもない。これが「充電」と呼べるものであるかどうかは俄かに判断がつかない。

今年見聞きしたことごと、学んだかもしれないこと、知りえたことがいつか何らかの形で実を結ぶのかどうか。それもまたよくわからない(当たり前だが)。今年亡くなったスティーヴ・ジョブズによれば、そういうことはその時には分からないもので、後で振り返ってみて初めてそのつながりが見えてくるのもなのだという(そういうことをスタンフォード大学のスピーチで述べていた。どういう実を結ぶのかは神のみぞ知るといったところだけど、願わくばそれがせめて「良い実」でありますように。

研究面で今年を一言でいえば「ワクフ」とりわけカーシュガルのワクフというものの理解が僅かながら前進したということに尽きる。昨年までは数例の事例を提示するのがせいぜいだったけれども、今年は包括的に(少なくとも)カシュガル旧市を中心とするワクフの規模と分布を把握できるだけの材料がやっと出揃った。今年の野尻湖クリルタイとプリンストン大のシンポジウムではそのあらましを報告させていただいたけれども、次のステップとしては、個別事例の検討を丁寧に完成させて、あらためてカーシュガルのワクフの歴史的性格というものを他地域との比較の上で明らかにしてみたい(実際、この取り組みにはかなりわくわくしている)。

新年は何はさておき懸案の論集編集を終了させ、かつ新疆大学とのイスラーム聖者廟(マザール)に関する記述研究をいくらか前進させたい。これが喫緊の課題。そうそう忙しくはしないつもりだが、どうなりますやら。

また当ブログについても、新年からはいくぶん執筆の間口を広げて、記事を拡充させていきたく思っている。

新年辰年もどうかよろしく皆様のご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

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「アジア文化研究会・若手ユーラシア研究会の時代」

九州史学会イスラム文明学部会 特別企画
「アジア文化研究会・若手ユーラシア研究会の時代」
日時:2011年12月11日(日)10:30-17:00
場所:九州大学文系キャンパス302番教室


私が生まれた頃(1960s中葉)、「中央ユーラシア」地域は、まだ「塞外」すなわち「中国辺境」の文脈で語られがちな時代であった。

その時代は、まだ間野英二先生の名著『中央アジアの歴史』(1977)は出ていなかったし、中国は文化大革命が始まり、ソ連はまだとても(傍目には)元気で、新疆や中央アジアの国々に実際に出かけるなど夢想も出来なかった時代であった。そればかりか、ヴェトナム戦争チェコ事件成田闘争学園紛争よど号事件と、国内外は動乱の只中にあり、学生そして大学が現在よりは社会と関わりを持ち、また関わることを余儀なくされた時代でもあった、と言われる(くりかえすが、私はその頃に生まれたので、あくまでそれは伝聞の域を出ないのだけれども)。

まさにその頃、いわゆる「団塊」世代を中心とする「青雲の志を抱いた若者たち」は、「アジア文化研究会(略称「アジ文研」)」「若手ユーラシア研究会(略称「ユラ研」)」さらに「北陸ユーラシア研究会」といった地域、大学の枠を越えた研究会を組織し、互いに切磋琢磨する学びあいの場をもったのである。ここで築かれた人脈は今日に至るまでわが国の中央ユーラシア研究を牽引する原動力となっている。

今回の九州史学会の「特別企画」はそうした時代を回顧し、将来への展望を示すことを目的として企画されたものであるという。主催者である清水宏祐さんが「熱い会になるでしょう」と予告された通り、実に白熱した(でも、たぶん傍目には異様な)研究会となった。

まず以下にプログラムを示す::

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午前の部
清水宏祐 「趣旨説明」
堀 直「一期の夢---第1次アジ文研とその後---」
小松久男 「アジア文化研究会~塞外の青い空」
午後の部
司会 堀川徹
森川哲雄「なぜ若手ユーラシア研究会を立ち上げなければならなかったか」
片山章雄「アジア文化研究会の記録と若手の動向をたどって」
林俊雄「押立温泉、夏合宿」
休憩
司会 梅村 坦
コメント・情報提供・記憶確認:森安孝夫・真田安ほか
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懇親会二次会(ここで出席者は例外なく「本日の感想、コメント」の発言を求められた)で話した通り、私は1966年生まれ、1985年大学に入学した世代である。つまり今回の主題であるアジ文研の立ち上げの頃に生まれ、大学に入ったときにはとっくにそれらの研究会が雲散霧消していた、と言う世代と言うことになる。もっと言えば、その頃には「若手」ではなく「中堅」研究者として活躍されておられた先生方から、ひと昔前の「アジ文研」伝説を拝聴し続けた世代、と言っても良いかも知れない。当事者が語る「近過去」の伝承を断片的に繰り返し(いや本当にしつこいほどに)伺い、その「後史」を目の当たりにしつづけた、と言うのが私の研究生活の始まりであった。そういう意味で、今回の研究会は、断片的しか知り得なかった「アジ文献」をめぐる諸事実を、組織的・網羅的に当事者からきっちりご報告いただき、かつその事実の裏づけとなる「資料」を目睹し得たと言う、まことに有意義な機会であった。

当時大学院生ですらなく、学部の1、2年生(つまり「若手研究者」にすらカウントできない!)であった学生たちが、積極的にこうした研究会を組織し活発な活動を展開できた、というのは個人の資質も無視できないけれども、やはり「時代」と言うべきであろう。私などの世代から見ても、1960年代の学部学生たちは、今の同世代の学生たちと比べ、社会と積極的に関わって行こうと言う傾向がやや強かったように感じられるし、今よりは少し羽目をはずしたり、「野蛮」であることをよしとする「矜持」があったようにも思う。あまり上手な言い方はできないけれども、皆で集まって天下国家、あるいは学問的真実について議論することが恥ずかしくなかった時代、とでも言うのであろうか。私はそういうことが恥ずかしいとは(やっと今は)思わないけれども、少なくとも私の世代以降の若者は、皆でそういうことについて率直に語り合うことを「格好悪い」と思っているか、すくなくとも「格好悪いと思っている」というポーズをとろうとする傾向にあるのは否定できない。あの「団塊の若者たち」のエネルギーは見習いたいし、またその余沢に預かったことを心から感謝したいと思う。

今回の研究会で印象に残ったフレーズをいくつか以下に記しておこう。録音をしていなかったので一言一句正確な記録ではもとよりないし、誤りもあるかもしれない(だから発言者のお名前はあえて割愛させていただく)。その点はお許し願いたい。

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「研究者は一人の先生の学恩をうけ育てられた、と言う人も多いだろうが、私を研究者としてまさに育ててくれたのはアジ文研であった。アジ文研の横のつながり、友人、先輩からは本当に多くのことを学んだ。そういうアジ文研の『無償の指導』『無償の愛』には心から感謝している」

「初期アジ文研を仕切ったHとUはいわば井戸を掘った人だ。我々は彼らが掘った井戸の水を飲んだのだ」

「結果として、研究会のメンバーとして残っていくのは地道に史料を読み続けていくオーソドックスな歴史研究者ばかりであった。社会学や人類学、(歴史学でも)現代史などを専門とする学生は「気後れ」して、やがて幽霊会員となって来なくなるのである。地域としても中国史や南アジア史などは残らなかった」

「『東大(の学生)が会長では参加者が集まらない。だから会長は○○○(東大以外の学生)がするべきだ』と説き伏せられた」

「実際、アジ文研は決まりごとも役員も決めない、実におおらかな集まりだった。今は何かと役職を決めたり、お堅い規則をこしらえたり窮屈な集まりばかりでうんざりだ」

「今の学術は発展著しいが、一面でアジア研究の学生が減少し、社会の関心も低下している。昔は単著があって学位があれば問題なく就職できたが、今は相当優秀な人でも就職するのはかなり難しい時代になっている。昨今の就職難の状況に照らし、人文学、アジア研究はオールジャパンの横のつながりが必要なのではないか」

「今の日本のレヴェルならば『ケンブリッジ中央ユーラシア史』以上の通史を編纂することは十分に可能だと思う。しかし世界を意識するのであればそれは英語で書かれなければならず、また大局にたって歴史を書くためにはかなりの議論をそのために積み重ねる必要があるだろう。ことは簡単ではない。」

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上述の通り、私はこの団塊世代の方々のお世話になり、いってみれば「アジ文研のレガシー」に育てられた世代である。今もあらゆる場でお世話になり、ある意味「井戸から引いた水道水」を飲んでいるような安直な世代である。ここで先生方に対し、謹んで感謝の言葉を申し述べたいと思う。

しかしその一方で、今回の研究会は懐旧談だけに終始したようにも思われ、そのため「展望」と言う部分がかなりおざなりにされてしまったような印象を持った。過去を振り返り、事実を発掘し、記憶の共有をはかることは悪くない。しかしどこかそこには「アジ文研」の栄光の過去と、その結果としての輝かしい現在-つまり「現在の絶対的な肯定」が無意識的にではあっても前提としておかれているのではないか、という印象が拭えない。

確かに発言者のなかには「複雑な事情によって」アジア研究への社会的関心が薄れ、大学のポストも減っているという現状を憂うような発言をされた方もいらしたけれども、そういう方にあっても、その責任の一端が自分たちの世代にあるなどとは露ほども感じられておられないようであった。アジア研究への社会的関心が低くなっているのは、団塊世代研究者たちに蛸壺的な「研究職人」が多く、教養としてのアジア研究(社会への発信)を軽視してきた結果であるとの見方も出来るのではないか(参考)。その意味ではせめて今回の研究会は「反省会」とは言わないまでも、「アジ文研の時代-どこか僕らは間違っていたか?」という題目にするぐらいの度量を示されてもよかったように思う。

「展望」として示されたのは、「中央ユーラシアの通史」をケンブリッジの向こうを張って日本人が書こうと言う話であるが、ナンセンスである。いまはもう「日本の○○学」などと言うような時代ではない。世界で読んでもらうためには英語で、と言うことも結構だが、それならなおのこと狭い日本の学界という枠組みでやることではないようにも思われる。『ケンブリッジ中央ユーラシア史』の出来が悪いと言うのであれば、日本人が主導・出資して「世界中の研究者」に声をかけ、よりよい通史を書くというのが自然ではなかろうか。どうしてそこでナショナリズムが出てくるのか理解できない。

もっとも、そのどこか能天気なところが、彼ら「野蛮な不良おじさん」たちの面目躍如とでも形容すべきところであって、それはそれで彼らなりに筋が通っているのかも知れない(そして彼らの世代のそういうところを、我々はこよなく愛するものである)。


むしろ問題は我々(いや、私自身)にあるのかもしれない。

そこに居合わせた若い世代(もっとも、私は必ずしももはや若くは無いけど)は彼らの言い分をそれをただ傾聴して「勉強になりました」などと言っていてはいけないのではないか。「ふざけんな爺さんたち、勝手にいい気になってんじゃねえよ」といきりたって「新しい井戸」を掘る気概を表明すべきではなかったか。ただ漫然と人の掘った井戸の水を飲んでいるばかりでは、何も新しいものは生み出せない。我々は新しい井戸を掘る努力をすべきであり、それは時には、古い井戸を否定し、打ち壊してでも行われるべきものなのだ。

時代は変わる。そして人のつながり方や学問へのアプローチの仕方も変わらざるを得ない。横の広がりはもはやたやすく国境を越える。そして世代の垣根も以前よりもぐっと低くなってきているように見受けられる。さらに言うならば大学ばかりが「研究の場」ではなくなりつつある(と言うより大学が研究の場でなくなりつつある!)。学術研究は大学教員だけのものではなく、より幅広い枠組みで行われるようになりつつあるのではないか。そういう局面にあって、我々は団塊世代のレガシー(この場合、負の遺産?)を乗り越え、(当たり前ながら)自分たちの手でそれらに対峙していかねばならない。

いささかまとまりに欠けるけれども、以上が九州まで行って見届けた団塊世代の「お祭り」への私なりの感想である。総じて個人的にはさまざまな意味で有意義な体験であった。

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«ワークショップ「『新疆問題』を越えて(Beyond 'the Xinjiang Problem')」(2011年11月3-4日、オーストラリア国立大学)