2011年回顧と(ごくごく)若干の展望

年の瀬を迎え、掃除やら家族との時間でまあ忙しく毎日を送っている。そういう家事に忙殺?され「静かな思考の時間」がなかなか取れないのは困ったものである。しかし愚痴ってばかりもいられない。ここで気持ちよく新しい年を迎えるために、まず2011年の総括を試み、いささかの展望のようなものを書いておきたい。

まず自分に今年何があったのか。当ブログの記録に基づき、以下に時系列で示す:

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1月 年末年始は実家にも帰らず信州伊那谷で家族とひっそり過ごす。ワクフ関連文書をコツコツ読む毎日だった。

2月 俄かに新疆の雑誌向け論文(維文)の改稿に時間を費やす(結局、出たのかどうか未確認。どうなったの?)。ほぼ20年ぶりにスキーを再開しイナリ駒ヶ根やぶはらで滑走。「意外に行けるじゃん」と気を良くする。

3月 東日本大震災。信州の我が家は本棚が倒れガラスが割れた程度。岩手内陸部の実家・親戚もほぼ無事なれど、沿岸部の姻戚にかなりの犠牲者が出たことを後で知った。陸前高田など子供時代からなじみのあった地域の津波被害に茫然自失。震災の影響で予定していた公開講演(青山)も中止。中央アジア古文書セミナー(第9回)に参加しいくぶん気分を持ち直す。

4月 新年度開始。AA研フェローとなり、科研プロジェクトを引き続き推進。また青山の基礎ゼミ担当(今年度限り)。

5月 現代ウイグル語読書会@東京外語大をはじめる。

6月 中国ムスリム研究会(第21回定例会)出席

7月 野尻湖クリルタイ参加。

8月 信州を一歩も出ず、子供とプール通い。信州でこんなにプールに入るなんて思わなかった。行ったプール →1, 2, 3, 4

9月 伯父の重興梅岳英彦大和尚、遷化(4日)CESS@コロンバス参加。3か月連続の海外報告はじまり。

10月 「中央アジアのスーフィズムとイスラーム」シンポジウム(プリンストン大学)招聘・参加

11月 「新疆問題を越えて」ワークショップ(オーストラリア国立大学)参加。内陸アジア史学会@富山出席。

12月 九州史学会特別企画「アジ文研・ユラ研の時代」出席

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こう書いてみると、今年は堅実な仕事をあまり前に進められず、伊那谷の自然を満喫し「のほほん」と過ごしてしまった1年であったとつくづく感じる。今年の一字は「絆」だそうだが、個人的にはもう「薪」と書くしかない。薪の調達と薪割り、薪棚作りと薪の乾燥、がこの一年だったと言えなくもない。これが「充電」と呼べるものであるかどうかは俄かに判断がつかない。

今年見聞きしたことごと、学んだかもしれないこと、知りえたことがいつか何らかの形で実を結ぶのかどうか。それもまたよくわからない(当たり前だが)。今年亡くなったスティーヴ・ジョブズによれば、そういうことはその時には分からないもので、後で振り返ってみて初めてそのつながりが見えてくるのもなのだという(そういうことをスタンフォード大学のスピーチで述べていた。どういう実を結ぶのかは神のみぞ知るといったところだけど、願わくばそれがせめて「良い実」でありますように。

研究面で今年を一言でいえば「ワクフ」とりわけカーシュガルのワクフというものの理解が僅かながら前進したということに尽きる。昨年までは数例の事例を提示するのがせいぜいだったけれども、今年は包括的に(少なくとも)カシュガル旧市を中心とするワクフの規模と分布を把握できるだけの材料がやっと出揃った。今年の野尻湖クリルタイとプリンストン大のシンポジウムではそのあらましを報告させていただいたけれども、次のステップとしては、個別事例の検討を丁寧に完成させて、あらためてカーシュガルのワクフの歴史的性格というものを他地域との比較の上で明らかにしてみたい(実際、この取り組みにはかなりわくわくしている)。

新年は何はさておき懸案の論集編集を終了させ、かつ新疆大学とのイスラーム聖者廟(マザール)に関する記述研究をいくらか前進させたい。これが喫緊の課題。そうそう忙しくはしないつもりだが、どうなりますやら。

また当ブログについても、新年からはいくぶん執筆の間口を広げて、記事を拡充させていきたく思っている。

新年辰年もどうかよろしく皆様のご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

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「アジア文化研究会・若手ユーラシア研究会の時代」

九州史学会イスラム文明学部会 特別企画
「アジア文化研究会・若手ユーラシア研究会の時代」
日時:2011年12月11日(日)10:30-17:00
場所:九州大学文系キャンパス302番教室


私が生まれた頃(1960s中葉)、「中央ユーラシア」地域は、まだ「塞外」すなわち「中国辺境」の文脈で語られがちな時代であった。

その時代は、まだ間野英二先生の名著『中央アジアの歴史』(1977)は出ていなかったし、中国は文化大革命が始まり、ソ連はまだとても(傍目には)元気で、新疆や中央アジアの国々に実際に出かけるなど夢想も出来なかった時代であった。そればかりか、ヴェトナム戦争チェコ事件成田闘争学園紛争よど号事件と、国内外は動乱の只中にあり、学生そして大学が現在よりは社会と関わりを持ち、また関わることを余儀なくされた時代でもあった、と言われる(くりかえすが、私はその頃に生まれたので、あくまでそれは伝聞の域を出ないのだけれども)。

まさにその頃、いわゆる「団塊」世代を中心とする「青雲の志を抱いた若者たち」は、「アジア文化研究会(略称「アジ文研」)」「若手ユーラシア研究会(略称「ユラ研」)」さらに「北陸ユーラシア研究会」といった地域、大学の枠を越えた研究会を組織し、互いに切磋琢磨する学びあいの場をもったのである。ここで築かれた人脈は今日に至るまでわが国の中央ユーラシア研究を牽引する原動力となっている。

今回の九州史学会の「特別企画」はそうした時代を回顧し、将来への展望を示すことを目的として企画されたものであるという。主催者である清水宏祐さんが「熱い会になるでしょう」と予告された通り、実に白熱した(でも、たぶん傍目には異様な)研究会となった。

まず以下にプログラムを示す::

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午前の部
清水宏祐 「趣旨説明」
堀 直「一期の夢---第1次アジ文研とその後---」
小松久男 「アジア文化研究会~塞外の青い空」
午後の部
司会 堀川徹
森川哲雄「なぜ若手ユーラシア研究会を立ち上げなければならなかったか」
片山章雄「アジア文化研究会の記録と若手の動向をたどって」
林俊雄「押立温泉、夏合宿」
休憩
司会 梅村 坦
コメント・情報提供・記憶確認:森安孝夫・真田安ほか
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懇親会二次会(ここで出席者は例外なく「本日の感想、コメント」の発言を求められた)で話した通り、私は1966年生まれ、1985年大学に入学した世代である。つまり今回の主題であるアジ文研の立ち上げの頃に生まれ、大学に入ったときにはとっくにそれらの研究会が雲散霧消していた、と言う世代と言うことになる。もっと言えば、その頃には「若手」ではなく「中堅」研究者として活躍されておられた先生方から、ひと昔前の「アジ文研」伝説を拝聴し続けた世代、と言っても良いかも知れない。当事者が語る「近過去」の伝承を断片的に繰り返し(いや本当にしつこいほどに)伺い、その「後史」を目の当たりにしつづけた、と言うのが私の研究生活の始まりであった。そういう意味で、今回の研究会は、断片的しか知り得なかった「アジ文献」をめぐる諸事実を、組織的・網羅的に当事者からきっちりご報告いただき、かつその事実の裏づけとなる「資料」を目睹し得たと言う、まことに有意義な機会であった。

当時大学院生ですらなく、学部の1、2年生(つまり「若手研究者」にすらカウントできない!)であった学生たちが、積極的にこうした研究会を組織し活発な活動を展開できた、というのは個人の資質も無視できないけれども、やはり「時代」と言うべきであろう。私などの世代から見ても、1960年代の学部学生たちは、今の同世代の学生たちと比べ、社会と積極的に関わって行こうと言う傾向がやや強かったように感じられるし、今よりは少し羽目をはずしたり、「野蛮」であることをよしとする「矜持」があったようにも思う。あまり上手な言い方はできないけれども、皆で集まって天下国家、あるいは学問的真実について議論することが恥ずかしくなかった時代、とでも言うのであろうか。私はそういうことが恥ずかしいとは(やっと今は)思わないけれども、少なくとも私の世代以降の若者は、皆でそういうことについて率直に語り合うことを「格好悪い」と思っているか、すくなくとも「格好悪いと思っている」というポーズをとろうとする傾向にあるのは否定できない。あの「団塊の若者たち」のエネルギーは見習いたいし、またその余沢に預かったことを心から感謝したいと思う。

今回の研究会で印象に残ったフレーズをいくつか以下に記しておこう。録音をしていなかったので一言一句正確な記録ではもとよりないし、誤りもあるかもしれない(だから発言者のお名前はあえて割愛させていただく)。その点はお許し願いたい。

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「研究者は一人の先生の学恩をうけ育てられた、と言う人も多いだろうが、私を研究者としてまさに育ててくれたのはアジ文研であった。アジ文研の横のつながり、友人、先輩からは本当に多くのことを学んだ。そういうアジ文研の『無償の指導』『無償の愛』には心から感謝している」

「初期アジ文研を仕切ったHとUはいわば井戸を掘った人だ。我々は彼らが掘った井戸の水を飲んだのだ」

「結果として、研究会のメンバーとして残っていくのは地道に史料を読み続けていくオーソドックスな歴史研究者ばかりであった。社会学や人類学、(歴史学でも)現代史などを専門とする学生は「気後れ」して、やがて幽霊会員となって来なくなるのである。地域としても中国史や南アジア史などは残らなかった」

「『東大(の学生)が会長では参加者が集まらない。だから会長は○○○(東大以外の学生)がするべきだ』と説き伏せられた」

「実際、アジ文研は決まりごとも役員も決めない、実におおらかな集まりだった。今は何かと役職を決めたり、お堅い規則をこしらえたり窮屈な集まりばかりでうんざりだ」

「今の学術は発展著しいが、一面でアジア研究の学生が減少し、社会の関心も低下している。昔は単著があって学位があれば問題なく就職できたが、今は相当優秀な人でも就職するのはかなり難しい時代になっている。昨今の就職難の状況に照らし、人文学、アジア研究はオールジャパンの横のつながりが必要なのではないか」

「今の日本のレヴェルならば『ケンブリッジ中央ユーラシア史』以上の通史を編纂することは十分に可能だと思う。しかし世界を意識するのであればそれは英語で書かれなければならず、また大局にたって歴史を書くためにはかなりの議論をそのために積み重ねる必要があるだろう。ことは簡単ではない。」

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上述の通り、私はこの団塊世代の方々のお世話になり、いってみれば「アジ文研のレガシー」に育てられた世代である。今もあらゆる場でお世話になり、ある意味「井戸から引いた水道水」を飲んでいるような安直な世代である。ここで先生方に対し、謹んで感謝の言葉を申し述べたいと思う。

しかしその一方で、今回の研究会は懐旧談だけに終始したようにも思われ、そのため「展望」と言う部分がかなりおざなりにされてしまったような印象を持った。過去を振り返り、事実を発掘し、記憶の共有をはかることは悪くない。しかしどこかそこには「アジ文研」の栄光の過去と、その結果としての輝かしい現在-つまり「現在の絶対的な肯定」が無意識的にではあっても前提としておかれているのではないか、という印象が拭えない。

確かに発言者のなかには「複雑な事情によって」アジア研究への社会的関心が薄れ、大学のポストも減っているという現状を憂うような発言をされた方もいらしたけれども、そういう方にあっても、その責任の一端が自分たちの世代にあるなどとは露ほども感じられておられないようであった。アジア研究への社会的関心が低くなっているのは、団塊世代研究者たちに蛸壺的な「研究職人」が多く、教養としてのアジア研究(社会への発信)を軽視してきた結果であるとの見方も出来るのではないか(参考)。その意味ではせめて今回の研究会は「反省会」とは言わないまでも、「アジ文研の時代-どこか僕らは間違っていたか?」という題目にするぐらいの度量を示されてもよかったように思う。

「展望」として示されたのは、「中央ユーラシアの通史」をケンブリッジの向こうを張って日本人が書こうと言う話であるが、ナンセンスである。いまはもう「日本の○○学」などと言うような時代ではない。世界で読んでもらうためには英語で、と言うことも結構だが、それならなおのこと狭い日本の学界という枠組みでやることではないようにも思われる。『ケンブリッジ中央ユーラシア史』の出来が悪いと言うのであれば、日本人が主導・出資して「世界中の研究者」に声をかけ、よりよい通史を書くというのが自然ではなかろうか。どうしてそこでナショナリズムが出てくるのか理解できない。

もっとも、そのどこか能天気なところが、彼ら「野蛮な不良おじさん」たちの面目躍如とでも形容すべきところであって、それはそれで彼らなりに筋が通っているのかも知れない(そして彼らの世代のそういうところを、我々はこよなく愛するものである)。


むしろ問題は我々(いや、私自身)にあるのかもしれない。

そこに居合わせた若い世代(もっとも、私は必ずしももはや若くは無いけど)は彼らの言い分をそれをただ傾聴して「勉強になりました」などと言っていてはいけないのではないか。「ふざけんな爺さんたち、勝手にいい気になってんじゃねえよ」といきりたって「新しい井戸」を掘る気概を表明すべきではなかったか。ただ漫然と人の掘った井戸の水を飲んでいるばかりでは、何も新しいものは生み出せない。我々は新しい井戸を掘る努力をすべきであり、それは時には、古い井戸を否定し、打ち壊してでも行われるべきものなのだ。

時代は変わる。そして人のつながり方や学問へのアプローチの仕方も変わらざるを得ない。横の広がりはもはやたやすく国境を越える。そして世代の垣根も以前よりもぐっと低くなってきているように見受けられる。さらに言うならば大学ばかりが「研究の場」ではなくなりつつある(と言うより大学が研究の場でなくなりつつある!)。学術研究は大学教員だけのものではなく、より幅広い枠組みで行われるようになりつつあるのではないか。そういう局面にあって、我々は団塊世代のレガシー(この場合、負の遺産?)を乗り越え、(当たり前ながら)自分たちの手でそれらに対峙していかねばならない。

いささかまとまりに欠けるけれども、以上が九州まで行って見届けた団塊世代の「お祭り」への私なりの感想である。総じて個人的にはさまざまな意味で有意義な体験であった。

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ワークショップ「『新疆問題』を越えて(Beyond 'the Xinjiang Problem')」(2011年11月3-4日、オーストラリア国立大学)

Workshop, Beyond 'the Xinjiang Problem'
主催:オーストラリア国立大学パン・アジア研究所
後援:(合衆国)インディアナ大学、オーストラリア国立大学中国研究所、同政治・社会変動学部、モナシュ大学アジア研究所、タスマニア大学。
会期:2011年11月3-4日
会場:Hedley Bull Centre, ANU.
オーガナイザ:トム・クリフ(オーストラリア国立大学)、アイシェム・エリ(タスマニア大学)、ガードナー・ボヴィウンドン(インディアナ大学)

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ケント・アンダーソン氏(主催者ANUを代表して)のOpening Address。スクリーンに映っているのはインディアナ大学側のオーガナイザー、ガードナー・ボヴィンドン。


2009年7月のウルムチ事件をひとつのピークとして、「新疆問題」はいまや国際的な問題として、一定の社会的認知を受け今日に至っているように見受けられる。以前に比べ新疆に関する興味、関心は飛躍的に増加を見せており、わが国でも新疆に関する記事や出版物、そしてイベントを目にする機会は確実に増えている。その一方で、こうした新疆への関心がいささか単純化された認識、ーつまり事態全般を「漢族」対「ウイグル人」の「民族対立」の問題にのみ特化する形で捉えたり、大国「中国」の「世界戦略」とそれに対抗する国際社会と言う二分法的な構図の中でのみ事態を考えようとする傾向ー、に基づく面があることもまた否定できない。こうした状況にあって、学問はいかに現下の状況に対峙し、これを乗り越えていくことが出来るのか。(あくまで私個人の解釈だけれども、たぶん)こうしたコンセプトのもと、先週オーストラリアはキャンベラで『新疆問題を越えて(Beyond'the Xinjiang Problem')』と題する国際学術会議が開催され、私も歴史学の立場から、(コンセプトに照らし、さして役に立ちそうにも無い)拙い報告をさせていただいた。以下はその簡単な報告である(なお、より詳細な報告をいずれ紙媒体でも発表する予定である)。

この会議については1年前のCESSミシガン会議の際にオーガナイザーのアイシャム・エリから概要を聞き、その後公式に招請の通知をもう一人のオーガナイザーであるトム・クリフから受け取った。他でもない「新疆研究」の会議であると言うこと、かつ以前(シドニー五輪より前だから、もう10年以上も前に)「モリソン文書」で関わり(といささかの負い目)を持ったオーストラリアでの開催と言うことで、私は万障を繰り合わせ(!)嬉々として参加することとした次第である。

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今回のワークショップ会場Hedley Bull Centre。

まず、以下に会議プログラム(和訳)を挙げる。なお人名の読みは便宜的なもので忠実な読みかどうかは(所詮カナなので)疑わしい。またペーパーのタイトルも便宜のために「超訳」してみたもので間違いもあるだろう。正確な原綴や原題はここを参照していただきたい:

【1日目】(公開)
■パネル(1): 清朝史

ディスカッサント:ルイ・マヨ (メルボルン大学)
チェア:ジェームズ・レイボルド (ラ・トローブ大学)
・ディヴィド・ブロフィ(ANU) 「衙門ウイグル:清朝期新疆の忠誠の言語」
・アンソニー・ガノー (メルボルン大学) 「誰の『新疆』か?:新疆史に関する甘粛からの視座」
・ローラ・ニュービー(オクスフォード大学)「清朝西北辺境の奴隷」

■プレゼンテーション:カシュガル・プロジェクト
チェア:ディヴィド・ブロフィ (ANU)
・マリカ・ヴィザニ (モナシュ大学) 「カシュガル・プロジェクト:文化遺産と雇用創出?」

■パネル(2):教育
ディスカッサント:アンドリュー・キプニス (ANU)
チェア:ジャスティン・ティゲ (メルボルン大学)
・チェン・ヤンビン (ラ・トローブ大学)「もうひとつの新疆少数民族教育エリート集団へむけて?」
・ティモシー・グロース (インディアナ大学)「中国西北部を去る『孔雀たち』とウイグル人」

【2日目】(参加登録者のみ)
■パネル(3):現代政治

ディスカッサント:ジェームズ・レイボルド (ラ・トローブ大学)
チェア:TBC
・マイケル・クラーク (グリフィス大学) 「新たな新疆地政学へ向けて?」
・ディヴィド・オブライエン (コーク大学) 「山は高く皇帝は通し:いかに王楽泉は誤りウイグルと漢を接近せしめたか」

■パネル(4):社会史
ディスカッサント:ジョナサン・アンガー
チェア:アンソニー・ガノー (メルボルン大学)
・トム・クリフ (ANU) 「オイル・エリートの伝説と野心」
・サンドリヌ・カトリ (インディアナ大学) 「文化大革命下の新疆」

■パネル(5):アイデンティティ
ディスカッサント:タマラ・ジャカ
チェア:ディヴィド・オブライエン
・ジョアンナ・スミス・フィンリー (英ニューカッスル大学)「トルキスタン・ラブソング、『新フラメンコ』そして新疆都市部における『世界市民』の生成」
・アイシャム・エリ (タスマニア大学) 「漢からウイグルへ:新疆哈密におけるエスニック・アイデンティティの形成と融解(1880s – 1980s)」

■パネル(6):殉教者たち
ディスカッサント:ジャスティン・ティゲ (メルボルン大学)
チェア:アイシャム・エリ (タスマニア大学)
・菅原純 (東京外国語大学) 「膨張した『殉教』の記憶:アブドゥラフマン・ハン伝説の生成と発展」
・ジョシュア・フリーマン (新疆師範大学) 「ルトプラ・ムタッリプ:誰の殉教者か?」

今回はインディアナ大学との共催で、スピーカーにはインディアナ大学の大学院生が複数名参加していたし、会議冒頭に行われた開会式はインディアナ州ブルーミントンとのヴィデオ会議の形を取った。オーガナイザーのひとり、インディアナ大学のガードナー・ボヴィンドンはブルーミントンのオフィスから開会に当たって挨拶を述べ、彼と久しぶりに会えるかと思っていた私としてはいささか残念であった(もっとも、ガードナーは、出席者ひとりひとりの近業について挨拶のなかで言及すると言う、彼らしい細かい気配りを見せていた)。それにしても今やテクノロジーの発達でこういうことが痛痒無く行えるというのは素晴らしい。

オーガナイザーのひとりアイシャム・エリ(タスマニア大学)の挨拶は、新疆をめぐる国際会議のこれまでの動きにつき言及し、現下の新疆の情勢により彼女の企画した現地開催の会議(新疆大学とドイツのマックス・プランク研究所の共催による会議)が2度にわたり中止を余儀なくされ、新疆研究に関する会議の現地開催が実に困難であること、今般オーストラリアでこうした会議が開催できたことが率直に喜ばしいことなどを述べた。その流れで彼女が、我々が2008年に新疆大学で開催した「マザール・ワークショップ」にもふれ、それが例外的な快挙であり、じつにうらやましい、と述べていたのはいささか面映かった(実際、我々の会議は、今にして思えば「台風の目」からロケットを発射するように奇跡的なことだったのだ。つくづく我々は幸運に恵まれていた)。

会議報告の具体的な内容はとにかく多岐にわたり、これを総括するのは実際かなり厄介なことである。個別報告の紹介はこれからまとめる予定の紙媒体版に譲ることとして、ここでは特記すべき個別報告と全般的な印象についてのみ、少しだけ申し述べることとしたい。


【新疆史を扱った報告】

まず今回のワークショップで「歴史枠」と見なしうる報告はブロフィー、ガノー、ニュービー、クリフ、カトリ、そして私の6報告であり、これはパネル報告全体の半分を占めており、歴史学は量的にはまあ健闘していると言えるだろう。注目すべきは扱った時代で、さきの3報告はパネル題目どおりの清朝史研究であるが、クリフ報告はコルラの油田開発に従事した「オイル・エリート」のインタヴュウに基づくライフ・ヒストリー、カトリ報告は共産党幹部のメモワールから文化大革命にアプローチした研究で、新疆史もついに「解放」後の時代を射程に置いた研究が登場しつつあるということは注目されよう。こういうかなり新しい時代を扱った研究は(なにしろ、あまりにも扱う時代が新しいので)具体的な研究の手法や史料の扱い方が十分に確立していない。そして往々にして利用できる情報(史料)はバランスの取れたものになかなかなりにくい、厄介なものである。その意味において現代史なるものがジャーナリスティックなもの(つまりノンフィクション)を離れて成立しうるかどうかということは常に難しい問題をはらんでいると言える。お二人の今後の研究の発展に大いに期待したい。

話は前後するが「清朝史」パネルのうち、清朝期の言語翻訳事業を扱ったブロフィー報告は、博学な同君らしい多くの言語への知識に裏打ちされた周到な報告であった。清朝が回部(のち新疆)のテュルク語をどうさばいていたかという問題については、热扎克・买提尼牙孜編になる『西域翻译史』(新疆大学出版社, 1997)の第五章(pp.210-225)にも一定の記述があるが、ブロフィー報告はそれをさらに詳細にしたものともいえる。実際、清朝がかくも複数の「翻訳装置」を有していたとは不明にして知らず、大いに興味を覚えた次第である。

またニュウビー報告は清代新疆における「奴隷bondage」の実態に関する報告。「奴隷」の意味する範疇が、果たして当時のチャガタイ語文献のどれに相当するか今一つ分からず少々不満が残った。しかし清朝史料から窺われる範囲ではその「奴隷制」(?)がどうやらヤークーブ・ベグ時代を画期として衰退していった、との指摘はこのうえなく面白い。近代史の一つの「転換点」としてヤークーブ・ベグ政権を考察するうえで、それが奴隷かどうかはさておくにしてもニュウビー報告は忘れずにおくべきであるように思われた。

なお、私の報告は個人的には古いテーマで、例によってホタンの口承文芸と歴史の関係について論じた。この報告は私としては今回の報告をもって「卒業」のつもりで、このワークショップ成果論集で論文を発表することで一段落をつけたいものだと思っている(このトピックについてはいずれこのブログ上でも書く予定)。


【歴史以外の報告】

歴史以外の報告としては、やはり文献に依拠したものとして、私と一緒にパネルを組んだジョシュア・フリーマン君(新疆師範大学)の報告は夭折したウイグル詩人ムタッリプを扱った非常に詳細な研究であり、利用した文献は膨大でたぶん遺漏はあるまいと思われる。ついにウイグル現代文学を文献学的な裏付けの上で論じられる研究者の登場を素直に喜びたい。以前もこのブログで書いたように、フリーマン君は前述のマザール・ワークショップ(2008)でも通訳として大活躍してくれ、また9月のCESS@オハイオでも再会の機会に恵まれた。彼の研究は私の個人的関心としてはストライクであり、今後生産されていくであろう彼の研究には注目していきたい。

さらに「教育」パネルのチェン、グロース両名の報告は、いずれも昨今のウイグル人子弟を内地に送り漢語教育を施す「新疆班」に焦点を当てた研究であった。この「新疆班」をめぐっては様々な意見があるけれども、実態として新疆班の卒業生(これを漢語メディアで「孔雀Peacock」に例えられたことがあるということも初めて知った)には新疆に帰らずに内地で就職する傾向が強い、とのグロース報告は実に興味深かった。またこうしたプログラムがひとりウイグル人だけを狙い撃ちにしているわけではなく、「西蔵班」などにみられるようにほかの少数民族にも存在し、当局側の見方としては就学機会の平均化のための全国的なプログラムの一環としてみることも可能だ、ということも両名の報告で再認識した次第である。


■ ■ ■


個別報告を見回して興味深かったこととしては、利用する史料やディシプリンによって「新疆研究」が実に多彩な像を取り結ぶものなのだ、と言うことが(今さら、ではあるが)よく理解されたことである。実際、当ワークショップのメニュウを通覧しただけでも、当地域の捉え方が冒頭で述べたような「単純化」や「二分法」で説明できるものではないことは十分に窺い知ることができる。

以上、今回のワークショップ参加は実に赤道をまたいで4泊2日(うち機内泊2日)というハードなスケジュールではあったが、オーガナイザーのホスピタリティに支えられ、実に充実した2日間であった。さらに1日目の会議の後の夕刻のひととき、郊外の小山を散歩して、そこらじゅうにいるカンガルーを横目に眼下の平原と沈む夕日を眺めるという、いかにも豪州的な「プチ・アウトバック体験」も経験させていただいた。私にとりオーストラリアは初めてではないが、平原の景色がクルグズスタンなどの平原の風景に実によく似ていることは新発見であった。オーガナイザーのトム、アイシャム、そして現在ANUに所属し皆にあれこれ世話を焼いてくれたディヴィドにはまずもって心から感謝したい。

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「カンガルー・ウォーク」。カンガルーでも見ないことにはオーストラリアに来たことが実感できないであろう、との主催者の暖かい心配りに感謝。


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シンポジウム「中央アジアにおけるスーフィズムとイスラ-ム」(プリンストン大学)

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Symposium on Sufism and Islam in Central Asia, Princeton University
主催:Department & Program in Near Eastern Studies, Princeton University
後援:Leon B Poullada家
会期:2011年10月21日(金)、22日(土)
会場:Woodrow Wilson School - Robertson Hall, Bowl One

秋を迎え色鮮やかに木々が色づく週末(金土)、合衆国東部はプリンストンで中央アジアのスーフィズムに関するシンポジウムが開催された。このシンポジウムは外交官であった故Leon B. Poullada氏の遺徳を顕彰しその遺族の資助を受け、プリンストン大学近東学部が主催することとなったもので、私はずいぶん前(15ヶ月ぐらい前)にお誘いをいただき、後述するような幾許かの葛藤?を経て、5泊3日(機内2泊)のなかなかハードな日程での参加と相成った。会期中は時差ボケで大いに苦しめられたが、総じて学ぶところの多い有意義な旅であった。

この会議の個別報告の内容ならびに具体的な議論については、同じく参加者であった河原弥生さんが『日本中央アジア学会報』次号に参加報告を寄稿されるということなので、ここではいちいち網羅的に紹介することはしない(だいいち大変だし。ここは河原さんの健筆に期待しよう)。ここでは例によって(!)この会議についての私なりの雑駁な印象を綴ることとする。


まずプログラムを以下に挙げる:

第1日(10月21日金曜日)
ウェルカムスピーチ:Muhammad Qasim Zaman(組織委員長、プリンストン大)
キーノート:Devin DeWeese (組織副委員長、インディアナ大)

セッション I :史料と解釈の手法

Shahzad Bashir (スタンフォード大)
「ジャンル、語り、テキスト、そして写本:中央アジア・スーフィ聖者伝研究の発見的方法(heuristic)」
Jo-Ann Gross (カレッジ・オブ・ニュー・ジャージー)
「ムハンマド・バシャーラの伝承:タジキスタンにおけるイスラーム聖者伝」
Maria E. Subtelny (トロント大)
「16世紀初頭中央アジアスーフィズム研究の史料としてのフサイン・ヴァーイズ・カーシフィーの諸作品(oeuvre)」
ディスカッサント:Jawid Mojaddedi (ルトガー大)


セッションII: スーフィ・コミュニティと史料:ロシア語からポスト・ソヴェート時代への再編成

河原弥生(東京大)
「ワリー・ハーンのマルギランにおける聖戦:コーカンド・ハーン国におけるマフドゥムザーダに関する一考察」
Eren Tasar (セント・ルイスワシントン大)
「ソヴェート期のスーフィズム:第二次世界大戦後の中央アジアの社会政治風景における聖者と聖地」
Ashirbek Muminov (カザフスタン科学アカデミー東洋学研究所)
「現代カザフスタンのスーフィ・グループ:カザフ・イスラム社会との競争と結合」
ディスカッサント: Zvi Ben-Dor Benite (ニューヨーク大)

第一日目総括 Jo-Ann Gross

第二日目 (10月22日土曜日)

セッションIII: スーフィ・コミュニティ:社会、政治、経済的視点から

Florian Schwarz (オーストリア科学アカデミー)
「スーフィと都市:Thamarāt al-mashāyikhにみる17世紀ブハラのスーフィ・コミュニティ」
Allen Frank (インディペンデント・スカラー)
「ブハラ・アミール国(1850-1905)におけるスーフィ・シャイフ史料としてのTārīkh-i Barangawī 」
菅原純(東京外語大)
「カーシュガルにおけるマザールとワクフ地:20世紀初頭における規模と分布に関する初歩的アプローチ」
Robert McChesney (ニューヨーク大)
「家族内での管理:初期近代中央アジアおよびタジキスタンにおけるスーフィ廟、王族、そして国家」
ディスカッサント:Dina Le Gall (レーマン・カレッジ、ニューヨーク市立大学)

会議総括:Devin DeWeese
閉会の辞:Muhammad Qasim Zaman


個人的に、個別報告でもっとも印象的だったのはトップバッターのShahzad Bashirさんの報告だった。

Bashirさんの報告は「聖者伝テキストを読み、そこから我々は何を得ることが出来るのか?」という実にラディカルな問題を扱ったお話である。正直そのお話を十全に理解できたか(納得できたか)どうかも実はいまだに自信が無いけれども、クリティカルな手を経た「写本」、さまざまな「テキスト」、そして原初的な「語り」の関係に我々はよくよく留意しなければならない、と言うこと、そして聖者伝に書かれた「歴史的事実」と「奇蹟」を峻別するような取り組みは適切か否か、少なくとも両者の関係につき丁寧な考察が加えられるべきではないか、というようなご指摘には(誤解かもしれないけれども)大いに共感を覚えた。

歴史学では聖者伝から史実を汲み取ろうと言う試みは(少なくとも中央アジア史では)まあ一般的だと言って良いだろう。もちろんそれなりの「物差し」を持って書かれてあること、話されていること(最近は聖者伝説の口碑史料の収集利用も始まっており、私自身も少しだけそういう仕事をしたことがある)を「分析」するわけだが、どうしても「取捨選択」して「史実」を「抽出」すると言うことに意識が向きがちである。聖者伝から聖者や聖者一族の歴史を素描したり、あまつさえ聖者とときの政権との政治的関係などを「発掘」しようとした研究は少なくないし、これまで(少なくとも中央アジアの)歴史学はそうやって一定の成果を収めてきた。しかしそれは果たして適切(この場合、倫理的にということではなく、あくまで学術的な視点からであることに注意)だろうか? この問いは歴史学の常套的手続きである「史料批判」の手法につき(少なくとも聖者伝の取り扱い上は)、一石を投じる指摘とも言えるかもしれない。

Water_princeton
会場風景。水までPrinceton大学ブランド。


ほかの報告についてもふれたいが面倒くさいきりがないので、前述通り、詳細は河原さんのご報告に譲ることとしたい。以下、ここではひとこと感想のみ。

・Gross報告は「聖者密着型通史的研究」とでも呼ぶべきもので、ムハンマド・バシャーラを軸とした歴史像の提示は手堅く「圧巻」と呼ぶにふさわしい。お手本にしたい研究である(新疆の場合、あれほど多種多数の史料は期待できないけれども)。

・Subtelny報告は碩学の貫禄、気風漂うご報告であった。カーシフィーの文芸作品から歴史を読み解く、というテーマ故だろうが、その語り口に「古典学」の雰囲気が横溢しており、いかにも学問らしいご報告に目眩がした。ああいう「大人」になれるのはいつのことやら。

・河原報告も相変わらず実に手堅い。ワリー・ハーンといえば、同族(カーシュガル・ホージャ家)で19世紀半ばに新疆に侵入して大暴れした同名の人物がいるけれども、両者を混同したりするようなことはなかったのであろうか。奇妙なことに河原さんが扱われているワリー・ハーンは1850年代を最後に情報がなく、こちらの方は1850年代から活動を開始している(はず)。これがマンガならば「今日からお前がわしの名前を名乗るが良い」とか感動的な引継ぎがなされるドラマに仕立てるところであるが…真相はいかに?

・Tasar報告はおそろしく弁が立つ(というか饒舌)な報告だなあ、というのが第一印象。それにしてもWW2以降の時代とスーフィズムの関係という切り口は実に面白い。考えてみれば大祖国戦争に従軍したムスリム兵士にスーフィがいたって不思議でもなんでもないわけで、戦中戦後のソ連のムスリム社会にスーフィ・ファクターをおり込んで説明すると言う試みはもう少し行われても良いだろう。

・Muminov報告は現代事情に関する報告だが、イスラーム学を専門とされ、歴史、古文献にも通暁されておられる氏の説明は実に安定感がある。冒頭でOlcottなどが「ソ連期のカザフスタンでスーフィズムは途絶した」と信じているのは誤謬であるというところから説き起こし、現代のスーフィ諸集団、その系譜(silsila)、実践、政府の対応、スーフィ集団間の対立、サラフィーとの対峙、民間信仰との関係などを丁寧に分析している。それにしても日本の現代中東~中央アジア事情を語る方々(研究者)の言葉は概して(私目には)軽く聞こえ、大衆受けはするかもしれないけれども、なんだか週刊誌のゴシップ記事を読んでいるみたいに感じることがとても多い。(誰とは言いませんが)そういう方々は教養の「根っこ」が実は脆弱なのではないだろうか。

・Schwalz報告は史料Thamarāt al-mashāyikhに基づいてブハラのスーフィ社会像にアプローチしたもの。都市における集団と言う視点は長く続く都市論(Islamic Urban Studiesとでも言うべきか)の研究の系譜の上にあり、こういう成果が積み重ねられたことには率直に喜びを覚える。

・Frank報告はTārīkh-i Barangawīという1914年にまとめられた史書に基づき、ブハラ・アミール国史をスーフィズムとのかかわりにおいて(たぶん)論じたもの。氏の報告は遺憾ながら自分の報告の直前で全然頭に入らなかった。

・わたくしの報告は新疆・カーシュガルのワクフについて、新史料である131点のワクフ関連文書を整理しその史料としての性格を明らかにし、聖者廟に付属するカシュガル所在ワクフの規模と分布を明らかにしたもの。と、さらりと書いたけれども、これが研究史的にどういう意味を持っているか、なかなか分かってくれる人がいないのが寂しい。

・McChesney報告。McChesney教授はワクフについての専著があり、かつEIで中央アジアのワクフの項も執筆されておられる大家である。今回のご報告はそれまでのご研究を踏まえ、かなり包括的なお話をされていた。氏の報告については(私にとって重要に思われるので)機会を改めて取り上げたい。ここでは文書史料の利用が歴史研究にどう使えるかと言う意味でかなり有益なご報告であったと言う感想のみ述べておきたい。

Robertson
会場となったRobertson Hall


さて
数ヶ月前に東大の森本(一夫)さんから「豪華な顔ぶれですね」と(メールで)言われたとおり、text-besedの中央アジア史研究の最前線にいる合衆国の研究者が一堂に会した確かに豪華な会であった。ひと月ぐらい前にプログラムを見たときには眩暈を覚え、こんな方々を前に自分の貧相な発表などしていいものであろうか、と正直「ダメダメ感」とかなりの緊張感を覚えたことを告白する。私以外は全員いわゆる中央アジア(Russian Central Asiaってもう死語?)を主たるフィールドとなさっておられる方々であり、私ひとりだけカシュガルのことなどしゃべっていいのだろうか。だいいち日本には彼とか彼とか、こういう場にもっと相応しい優れた研究者がいるはずなのに、と「本来ならばこの会に(私に成り代わって?)参加すべき優秀な人たちの顔がいくつも頭に浮かべては些か憂鬱な気分になっていた --要するに私は事前にこのうえないプレッシャーを(珍しくも)感じていたのである。

しかしふたを開けてみれば実に雰囲気の良い会議だった。

この会議はスピーカーへの参加招請(15ヶ月も前)の段階から"not a large number of brief conference papers, but an opportunity for careful and sustained discussion of a smaller number of in-depth studies"が目的であると言っていたとおり、比較的少人数で和やかなムードのなか粛々と進められた、総じてまことに気持ちのよい会議であった。2日間、朝の会場には軽い朝食が用意され、かつ昼食も供され、当然コーヒー・ブレイクも設けられているので、会議の間じゅう参加者は外にも出ることなくずうっと話しっぱなし。主催者がもくろんだような、きめ細かく深い対話が実現されているのを目の当たりにすることができたし、私自身、関心を共有するマニアックで素晴らしい参加者たちとのおしゃべりを存分に楽しませてもらった。ここまで関心が接近している方々とまとまってお会いすることは国内外を問わず「まれ」なことであり、私には奇跡とも思えるような2日間であった。

今回のシンポジウムの成果はおそらくDeWeeseさんを編者として論集としてまとめられ、それは中央アジア・スーフィズム研究のランドマーク的な位置を当分占めることになるだろう。乞うご期待。

Ivy
アイビー・リーグのアイビー。

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CESS 12th Annual Conference, Ohio State University(2)

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今回の会場Blackwell INN前景。

さて、今回の大会でも私の専門に近い若い人たちが新疆研究のパネルを組織していたが、どういうわけか最終日の一番お尻に配置されてしまい、帰りの飛行機の関係でそれは見送りになってしまった。そのメンバーとは全く知らない関係でもないし、近いうちに再会する事も(実は)決まっているのではあったが、本当に残念だったことを最初に告白しておきたい。実に悔しい(プログラムを良く見てからチケットは予約しましょうー)。

ともあれ、今回、まず新疆関係の報告としては、以下のペーパーが実際に読まれた。
なおタイトル訳文は相当いい加減なのでご寛恕を請う次第。

メットトゥルスン・バイドゥッラ(ハーバード大学)
 「新疆におけるウイグル語、言語政策と文化アイデンテティ」
ライアン・サム(ロヨラ大学)
 「中国領トルキスタンにおける本と地理を綴じること」※
菅原純(東京外国語大学)
 「包括的な新疆所在聖地(マザール)データベースの構築」
グルナル・アズィズ(新疆社会科学院)
 「ウイグル人のための電子リソース」
アーロン・ギルキソン(マイアミ大学)
 「マザールの魂:新疆の漢人旅行者、ウイグル巡礼者、聖なる空間」
ジョシュア・フリーマン(新疆師範大学)
 「ウイグルの真正性の定義づけ:文字文化のヘゲモニーの喪失と伝統の創造」※
エリック・シュルーセル(ハーバード大学)
 「引き離された対話:トルコ・東トルキスタン間の理想主義とテュルク的想像」※
エリゼ・アンダーソン(インディアナ大学)
 「無形物のアイロニー:現代新疆のウイグル文化遺産」※
サム・バース(新疆師範大学)
 「人びとの祭礼:新疆のイードの即興性と形式化」※

※印は自分のパネルと同じ時間の別のパネルでの報告だったり、上述の痛恨の手違いで拝聴することがかなわなかったもの。

個別の報告の論評はここでは(長くなるので)控えるけれども、特記すべきこととしては、新疆師範大学に留学中のアメリカ人学生のフリーマン君とバース君の両名が留学先の学校名で誇らしく参加してくれたということが先ず挙げられるだろう。確か二人とももともとインディアナ大学の学生だったと記憶している(でも記憶が曖昧)。とくにフリーマン君は2008年のマザール会議に通訳者として縦横無尽の活躍をしてくれたので、今回再会出来たのは本当に嬉しかった。またサム君とシュルーセル君とはあらかじめ小仕事(原稿を読み合わせたり、新史料の読み合わせをしてみたり)を会場ですることにしていたので、それが果たせたのも幸いであった。

ともあれ、知っている人とはより突っ込んで近況の情報交換をし、知らない人とはお知り合いになる、という(ちょっと「俺の夢は、この学校の生徒全員と友だちになることだ!」と言ってのける新作の仮面ライダーの主人公みたいだが)個人的なポリシーは、新疆関係についてはほぼ達成されたので、その点、私の目的は果たせたといえるだろう。

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さて自分の報告。
今回の私の報告は日本の自分が代表を務める科研費プロジェクトの中間報告で、技術的なことはあまり深入りしないで、いまマザール研究がどういう段階にあり、そのデータベース構築にどんな意義があるのか、我々にとって理想的なデータベースのあり方はどういうものか、ということをプロジェクトに付随する形で得られた学術的知見(つまり、データベースとは無関係の、データの中身の話)を織り交ぜながらお話した。

なお、今回の私の参加パネルは「中央アジアに関する電子研究リソースの創造」というタイトルで、代表者は浩瀚な現代ウイグル語入門書の著者でもあるカンザス大学のアリアンヌ・ドワイヤーさんである(なお彼女の報告は実に要点を捉えた、中央アジア、とくにご専門の言語研究を念頭に置いた素晴らしい報告であった)。ドワイヤーさんは、実は新疆におけるわが師の(多分外国人としては最初の)弟子で、私の姉弟子にあたる。留学中からお名前を師から伺っており、2004年のロンドン会議で初めてお会いして以来、たびたびCESSでお目にかかっていたもの。今回は考えてみれば初めてその姉弟子(なんか字面がおかしい。でも「妹子」はもっとおかしい!)と競演…もとい共同で同じパネルを組んだわけで、実に幸いであった。
(ドワイヤー先生、いやアリアンヌ姐さん、またご一緒しましょう!)


また、新疆研究ではないけれども、授業で使っている本の編者の一人であるスコット・リーヴァイさん(※)とも今回はランチをご一緒し、あの本について「便利な本をどうも」とお礼を申し上げられたのは幸いだった。中央アジア史料の英訳アンソロジーである彼のその本は、学部学生と読むには実に便利で、勉強になる本である。その本について「私の専門の新疆の記事がどうして(中央アジアで書かれた)ムンタハブ・アッタヴァーリフなんですか(サイラーミーでも載せてくれればよかったのにー)?」とかねての疑問をお伝えすると、「あー、あそこ、あそこはね実は僕が訳したんだよ。そうかー、そこ読んでくれたんだ、ありがとう」と意外にもお礼を言われたので拍子抜けしてしまった(質問に答えてないし)。

リーヴァイさんは実は6年前から存じあげており、3年前には友だちに紹介もしてもらったのに、ちゃんと話したことがなく、何となく近づきがたいような印象を勝手に持っていたのであった。しかしお話しすると、この人は「天然」なのではないか、と思いたくなるほど明るいご性格で「ああ、日本にもよく似た先生がいるなあ」と思い至ったらイメージががらりと変わってしまったのは面白かった。そのリーヴァイさん、今回はご自分の大学(オハイオ州立大学)での開催のため、実質的な運営責任者として相当忙しくしておられた(お疲れ様でした)。

ともあれ、今回はあまり学術的な深い話を(いつものことだが)書くことができず、誰と会っていかに楽しかったか、という「学会自慢」に終始してしまったきらいがある。どうかお許しを。


※Scott Leviさん(オハイオ州立大学)。レヴィ、かと思っていたがアメリカ人なのでリーヴァイなのだった!本人が「やあ、リーヴァイだよ」と言うまで、どうしてそのことに思い至らなかったのか…そういえば最近はリーヴァイスを穿いていない。


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OSUのシンボルのひとつ、フットボール・スタジアム。
リーヴァイさんは開口一番「あれさ、サマルカンドっぽいよね」と仰せであった。


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ついでにOSUのフットボールチームのマスコット”Brutus Buckeye”
すぐれて「キモカワ」系のように思われたので記念に貼っておく。

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