第一回新疆文書史料研究セミナー(ご案内)

D031s

「合法売却」による実質的な債務文書(1895, カシュガル地区タズグン)


各 位

以下の要領で、科研費「新疆イスラーム法廷文書資料体の構築と研究」(基盤(C)・研究代表者:菅原純)、「19~20世紀中央ユーラシアにおける越境と新疆ムスリム社会の文化変容に関する研究」(基盤(B)・研究代表者:新免康/研究分担者:小沼孝博)および(公財)東洋文庫中央アジア研究班・西アジア研究班の共催により、「新疆文書史料研究セミナー」を開催いたします。

当セミナーは、2001年にカシュガルで収集され、2014年9月に公式に新疆大学(人文学院・新疆民族文献研究基地)への移管がかなっ た 700 点余の文書コレクション(東テュルク語/チャガタイ語・ウイグル語、漢語などによる、イスラーム法廷の関与になる各種契約文書、係争文書、ほか雑 文書からなる)に関する科研費研究プロジェクトの一環として開催されるもので、コレクションの学術利用手法の検討、ならびに個別具体的な 文書史料の研究と、そこから窺われる新疆の伝統的な社会・生活秩序の解明をめざしています。

今回のセミナーでは、まず前半の菅原報告では文書コレクションそのものの概要紹介につづき、とくに債務契約をめぐる文書をとりあげます。 さら にゲスト報告者として新疆師範大の白海提(Bakhtiyar Ismail)氏をお招きし、近世新疆におけるスーフィ教団Thaqibiyyaの活動に係る新史料につきお話しいただきます。

ご多忙とは存じますが、ふるってご参加いただきたく、ご案内申し上げます。


日時: 2016年6月4日(土):13:00~18:00
場所: 東洋文庫 7階会議室
アクセス: http://www.toyo-bunko.or.jp/about/access.html

【プログラム】
13:00-13:15 趣旨説明(菅原)、参加者自己紹介
13:15-14:30 菅原純(東京外国語大学・特別研究員)
「新疆社会における債務契約と文書」①
14:30-14:40 休憩
14:40-15:30 菅原純(東京外国語大学・特別研究員)
「新疆社会における債務契約と文書」②
15:30-15:40 休憩
15:40-16:30 白海提(新疆師範大学・准教授)
「ヤールカンドのあるスーフィー家族の『歴史記憶』:写本Tarikh-i Khatiraについて」①
16:30-16:40 休憩
16:40-17:30 白海提(新疆師範大学・准教授)
「ヤールカンドのあるスーフィー家族の『歴史記憶』:写本Tarikh-i Khatiraについて」②
17:30-18:00 総合討論
18:15-20:30 懇親会(会場未定)


菅原・白海提のどちらの報告も、後半に報告で扱う史料(言語:東テュルク語/チャガタイ語による契約文書並びに歴史著作)を参加者全員で 読み合わせる講読会の時間をとります。参加者の皆様におかれましては、各自のご関心に照らし、可能な限りで結構ですので、事前配布資料の予習方よろしくお 願いいたします。

ご参加を希望される方は、事前に講読資料をお送りします。送付先のご住所を下記メールアドレスまでお知らせください。その際はお名前、ご所属、資料送付先ご住所、事後予定されている懇親会へのご出欠をメールにご記入、お知らせいただければ幸いです。


連絡先:菅原純(sugawara[at]uighur.jp)  ※[at]を@に変えてご利用下さい。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

書評『イスラーム 書物の歴史』


room.jpg



付記 この書評は、先般『イスラム世界』82号に掲載された拙稿の元原稿を若干短縮、整形し掲載するものである。ここでは、いつも私が常套としてきた(書評としてはまあありきたりの)「持ち上げてちょっぴり落とす」式の書き方を取らず、のっけから辛口の批判を書き連ねる「落としてから、持ち上げる」式の書き方を取った。別に明確な意図があるわけではなく、いつもとは別のやり方を試してみただけのことである。

ただ、今にして思えば、こういう順番で書いたことによって、批判部分だけ読んでそのあとのフォロー部分を読まずに気を悪くなさる関係者の方がいらっしゃるかもしれない。その筋の方には、どうか最後までお読みいただき、ご寛恕を請いたい。

書評:小杉泰・林佳世子編『イスラーム 書物の歴史』(名古屋大学出版会、2014年6月20日刊、453頁)


「これを知らずして書物を語るなかれ」という実に挑戦的な帯書きがまず目を引く本書は、これまで我が国の読者にまったくと言ってよいほど馴染みのなかったイスラーム世界の「書物」を真正面から扱った論集である。一般的に本の帯に示される惹句は、販売戦略のなか出版社サイドで作成されることも多かろうから、これが本書の編者や執筆者の側からひねりだされた言葉とは考えにくいかもしれない。しかし、西欧のグーテンベルク以降の印刷本に記述が偏りがちであった従来の「書物の歴史」の語られ方に照らすならば、この惹句は本書の目指すところ、あるいは編者の「心意気」を直截に示した、あるいは読み取った言葉として実に分かりやすく、本書の性格を簡潔に言い表していると言えるだろう。

本稿では、まず粗略ではあるが本書の内容を、多少個別的に評者のコメントを交えつつ紹介し、次いで総合的な評価を試みることとしたい。


1. 本書の内容

まず本書の目次を示す。各章の題名に続け、執筆者名は括弧内で示すこととする。

はじめに 光は東方から-文字と書物の水脈(小杉泰)

第Ⅰ部 イスラーム文明と書物文化の隆盛
第1章 イスラームの誕生と聖典クルアーン(小杉泰)
第2章 製紙法の伝播とバグダード紙市場の繁栄(清水和裕)
第3章 アラビア語正書法の成立(竹田敏之)
第4章 写本クルアーンの世界(小杉麻李亜)
第5章 イブン・ナディームの 『目録』(清水和裕)
第6章 アラビア文字文化圏の広がりと写本文化(東長靖)

第Ⅱ部 華麗なる写本の世界
第1章 書物の形と制作技術(後藤裕加子)
第2章 アラビア書道の流派と書家たち(竹田敏之)
第3章 書物挿絵の美術(ヤマンラール水野美奈子)
第4章 イスラーム科学の写本(山本啓二)
第5章 アラブの歴史書と歴史家 — マムルーク朝時代を中心に(中町信孝)
第6章 神秘家たちの修行と書物(東長靖)
第7章 サファヴィー朝のペルシア語写本(後藤裕加子)
第8章 オスマン朝の写本文化(小笠原弘幸)
第9章 オスマン朝社会における本(林佳世子)
第10章 ムガル朝インドの写本と絵画(真下裕之)

第Ⅲ部 現代から未来へ— 写本・印刷本・デジタル本
第1章 イスラーム写本の流通と保存(三浦徹)
第2章 写本研究の愉しみ (1)— アラブ史の現場から(大稔哲也)
第3章 写本研究の愉しみ (2)— オスマン朝史の現場から(永田雄三)
第4章 イスラーム世界と活版印刷(林佳世子)
第5章 聖典の刊本とデジタル化(小杉麻李亜)
第6章 デジタル時代の古典復興— アラビア語メディアを中心に(小杉泰)


以上の通り本書は3部22章からなり、全体の構成としては、第Ⅰ部にイスラームと書物の関わり合いに関する原初的な問題やアラビア文字の世界的拡散のような包括的なテーマ、第Ⅱ部に個別具体的なテーマに関する写本文化の諸相を提示し、第Ⅲ部では現代における写本の保管、研究状況ならびにその後継技術を扱った論文と、専門研究者の写本研究の体験をつづったエッセイ2編を配置している。必ずしも「通史」を意識した構成をとらずにそれぞれ独立したトピックを扱った章(論稿)に、ゆるやかなまとまりをもたせた構成をとっている。各章のタイトルを一瞥すれば明らかなように、本書が主にターゲットとしている「書物」は基本的に「手書き写本」(手稿本)であり、活版印刷術導入以降の印刷本(刊本)が全体的な構成のなかで占める割合は小さい。


はじめに 光は東方から-文字と書物の水脈

編者のひとり小杉泰による序章(はじめに)では、まず本書を編むにあたっての前提となる問題の所在として、従来の「書物の歴史」が西欧の活版印刷発明以降のことに偏りがちだと指摘する。より巨視的に見れば、西欧の印刷革命に先行する形でイスラーム世界では早くから写本市場が成立しており、「多品種少量生産」を特徴とする写本文化によって「効率的」に「知の伝達」がなされていた。それゆえ8世紀から18世紀まで続いたイスラーム世界の写本文化(および中国の活版印刷文化)を含む形での「グローバル」な書物の歴史の読み直しが必要だ、というのがここでの小杉の主張である。本書はそうした問題意識を受け、さらに書物の「デジタル化」という「大きな画期」の変化も見据えつつ、「書物の歴史を編みなおすことを、少なくともその重要な一翼を担うこと」をめざすとする。

 
第Ⅰ部 イスラーム文明と書物文化の隆盛

 まず冒頭の第1章(小杉泰)は、「イスラームとアラビア文字が育んだ書物文化の出発点」として、「最初の書物」であるクルアーンの成立(結集)をめぐる背景とその成立プロセスを詳述した論稿である。7世紀のイスラームの誕生につづく聖典クルアーンの成立の背景として、古代オリエント、地中海世界の文化的な「伏流」に価値を見る点が目を引く。第2章(清水和裕)はイスラーム世界の写本文化の発展を担保した紙の伝播と流通の問題を扱う。前半はブルーム(J.M.Bloom)の先行研究を軸として、製紙法の伝搬に関する「タラス河畔の戦い伝播説」への批判を詳しく紹介しつつも、紙の伝播の問題としてはそれは核心ではなく、「中国とつながった中央アジアをイスラーム王朝が支配下に置いたことによって、イスラーム世界に伝播したという事実」の重要性を改めて強調する。後半は製紙法のイスラーム世界伝播後に、写本の書写、売買などを一手に担ったワッラークと呼ばれる専門家たちの活動を紹介する。第3章(竹田敏之)は聖典クルアーンの成立とともに整備されていったアラビア語正書法に関する論稿である。具体的には、初期のドゥアリー等による母音記号(ナクト)の考案と導入、アッバース朝期のハリールの新たな母音記号(シャクル)の変革、さらにクルアーン(ウスマーン版)の綴り(ラスム)と並行して発展していった類推型正書法(キヤースィー)等の問題を扱う。第4章(小杉麻李亜)はクルアーンの正典であるウスマーン版の成立から、「朗誦性の再現と美的水準を兼ね備えた写本」の出現を見たイル・ハン朝期までのクルアーン写本の発展史を辿った論稿。書記の文字であるナスフ体によるクルアーン写本の成立に、その原初より朗誦性が重要な要素を占めていたクルアーン写本の「視覚的な芸術性」への変貌の画期を見る点は注目される。この小杉論文とその前に配置された竹田論文を併せ読むことにより、イスラームの発展と歩調を合わせるようにアラビア文字文化が絶え間なく革新と発展を遂げていった過程が了解され、実に「読ませる」内容となっている点は高く評価すべきである。つづく第5章(清水和裕)は10世紀のバグダードで活動したワッラークであるイブン・ナディームが著した浩瀚な『目録』の全容を紹介し、9-10世紀バグダードの「写本出版文化の圧倒的な規模」の提示を試みたものである。『目録』の目次に沿う形での当時の「イスラーム社会の知」の体系を窺うとともに、『目録』から知りうる『アラビアン・ナイト』や「知恵の館」の「歴史情報』の提示を試みている。そして第6章(東長靖)はイスラームの拡大とともに広範な拡張を見せたアラビア文字につき、イスラームを受容したイラン、テュルク、インドほか各言語文化の受容にかかる諸事情を素描するとともに、一般的なアラビア文字写本のスタイルにつき付言する。本章の記事は新ウイグル語の音素に関する記述に誤りがある点がいささか気になる。


第Ⅱ部 華麗なる写本の世界

第1章(後藤裕加子)はアラビア文字写本の製本技術が「頂点を極めた」とする15世紀のティムール朝時代のペルシア語文化圏の写本につき、モノとしての写本の構造とその制作ならびに装丁技術を中心に据えた論稿である。前代のビザンツ帝国期の製本技術を引き継ぎ、中央アジアや中国の要素が装丁技術に反映され一つの完成を見ることとなった写本制作技術の発展プロセス、さらにそうした発展を担保した職人および工房の時代ごとの変遷等の諸点は、ヨーロッパや東アジア世界の同様の事例と比べるうえで興味深かろう。第2章(竹田敏之)は、アラビア文字の主要な書体の開発と書道の流派、著名書家たちの活動等からなる「書道文化」を、その勃興(アッバース朝期)から活版印刷普及期(オスマン朝後期)まで通史的に眺めた論稿。その要を得た記述は、「イスラーム書道」ならびにアラビア文字書体全体の見取り図を把握するために大変役立つ。第3章(ヤマンラール水野美奈子)は写本文化における挿画の問題を扱い、前提としてのイスラーム世界における絵画の文化的位置づけの問題につづいて、挿画の二つのジャンルであるタズヒーブ(文様絵画)と具象絵画につきそれぞれ解説を加えている。第4章(山本啓二)はイスラーム科学、すなわち「8世紀から15世紀頃にかけてイスラーム圏で行われた科学的営み」のなかで制作され読まれた写本類を主として書誌的な視点から紹介した包括的な論稿。さまざまなジャンルからなるアラビア語写本のなか、科学関連の写本類の内訳や現下の保管状況がコンパクトにまとめられている。第5章(中町信孝)は主としてマムルーク朝時代に編まれた膨大な数の歴史書(historiography)につき、複雑な引用関係、各著作の生成過程、歴史家たち相互の情報伝達、等の諸点から窺われる「歴史家の知的実践の痕跡」の問題を扱う。文献学の奥深さを思い知らされる重厚な論稿である。第6章(東長靖)は「修行論・霊魂論を中心にスーフィーたちが書物として遺した説」を解説した論稿。スーフィズムの理論と実践の問題が、それぞれ拠り所となる古典的な書物と関連付けられた形で簡潔にまとめられている。第7章(後藤裕加子)は「挿絵入りペルシア語写本」に関する論稿。従来補助的な「情報提供媒体」であった挿画がイル・ハン朝期に次第に重要度を増し「芸術」に転換を見せ、やがてジャラーイル朝、ティムール朝を経てサファヴィー朝で「一つの頂点」を迎えるまでの主要作品を丹念に追う。第8章(小笠原弘幸)は主としてパトロンとしての宮廷とのかかわりを軸に、オスマン朝期の「豪華写本」の文化を通史的に捉え示した論稿である。宮廷専属の文人「王書詠み」という担い手を得て発展を見せた写本文化が、ムラト3世の治世に至って「精髄」とされる浩瀚な歴史書や豪華写本を生み出し、やがて17世紀の「写本文化の転換」を経て修史官年代記へとつながっていくまでを手堅く記述する。一方第9章(林佳世子)はさきの第8章とは対照的に、オスマン朝期の街場レヴェル-オスマン朝臣民の社会における「普通の本」のあり方と書誌を包括的に展望した論稿である。当時の本屋の風景に始まり、マドラサ、個人そして図書館の蔵書の所蔵状況と内訳、教科書から窺われる当時のカリキュラム、およびアラビア語文法、論理学、修辞学、神学、イスラーム法学、伝承学、クルアーン解釈学など当時読まれていた各学科別の主要文献にまで話が及ぶ。第10章(真下裕之)はインドにおけるイスラーム写本ならびに絵画の大まかな流れを踏まえたうえで、現存するムガル朝期の写本ならびに絵画から窺いうる、当事者たちがそれら「文物に刻み込んだ働きかけ」の問題を検討した論稿。具体的にはデリー・スルタン朝期からムガル朝のアウラングゼーブまでの時代を中心とする写本と絵画の歴史を通覧し、ついでジョン・ホプキンズ大学所蔵写本『勝利の書』と大英博物館所蔵絵画『フマーユーンの園遊会』それぞれの書き込み、印章、そして改変などの諸要素から、そうした当事者たちの「働きかけ』の背後にある歴史認識を読み取る。


第Ⅲ部 現代から未来へ— 写本・印刷本・デジタル本

第1章(三浦徹)はアラビア文字写本の書誌を中心に据えた論稿。イスラーム写本の現在の国際的な収書状況と、アラブ世界での一般的な写本の作成から流通にいたる諸事例、そして写本の目録編纂のうえで必要となる情報項目の問題などを扱う。つづく第2章(大稔哲也)、第3章(永田雄三)は、それぞれエジプトとトルコを主たるフィールドとする著者が、各地域の写本史料の所蔵、利用事情を紹介するとともに、それぞれの切り口から写本研究の実際を紹介した論稿である。まず大稔はエジプト史の立場から参詣書写本研究の実際に加えて、日本における写本のおおまかな利用・研究状況などを示す。つづく永田は自身がトルコで行ったオスマン朝期文書史料(政府文書ならびにイスラーム法廷文書)の調査・研究活動の体験をつづる。この分野の最前線を走る研究者の調査研究の手続きがこのように具体的に提示されることは大変まれであり、とりわけ同学の読者には学ぶところが大きいであろう。第4章(林佳世子)は「近代」への適応の結果として本格的な登場を見た、活版印刷術を用いたイスラーム書物に関する専論である。欧州、マイノリティ社会そしてイスタンブルにおけるミュテフェッリカの「印刷の館」操業(18世紀)に至る初期のアラビア文字活版印刷の展開につづけて、エジプト、トルコ、イランで開設された官営印刷所の出版活動を経て、19世紀後半には中東世界に石版(リトグラフ)ついで活版の印刷が定着していくまでの過程を追うとともに、従来の写本文化との関係を字体、奥付、新記号の3点につき検討する。第5章(小杉麻李亜)は20世紀初頭に本格的に登場した聖典クルアーンの刊本につき、現代までの流れを通史的に概観した論稿。補足的に1980年代以降のデジタル化や1990年代以降のオンライン化にも言及している。最後に第6章(小杉泰)は写本時代以降のアラビア語圏の活版印刷の状況を概観するとともに、つづく「デジタル時代」におけるコンピュータ上のアラビア文字処理事情、タイポグラフィそしてクルアーン、ハディースなど古典コンテンツのデジタル・メディアへの移植に係る諸事情を紹介する。

本書の評価

本書の読者の多くは、まず本書の目次をひらいて、おそらく狐につままれたような感覚を覚えるのではないだろうか。「書物の歴史」とは言いながら、その大半の内容は一般に人がイメージするような「出版物」ではなく、手書きの写本に関するものだからである。もとよりそれは本書の著者たち、わけても編者の意図するところであったろう。そうした書物=印刷本というものの見方は、電子本が登場し、移行が進められつつあるとされる現代ではもはや通用しなくなってきているし、イスラーム世界では、西欧の数百年の印刷本の歴史に先行し、かつ併走する形で高密度の写本文化が存在していたからである。そうした読者の「常識」を覆し、写本に正当な位置を付与しようとする編者たちの意図は確かにすぐれて正当なものである。

 しかし、その意図が真っ当なものだとしても、本書は率直に言って通読するのにかなりの根気を必要とする一書である。まず「歴史」とはいっても本書は通史としての体裁をとっていない。各章の記述の端々に他の章へ誘導する文言が盛り込まれるなど、論稿相互に関連性をもたせようとする、それなりの工夫の跡は確かに窺えなくはない。しかし各章のテーマ、文体、書式はばらばらであり、各章の論稿の中には本書の趣旨をあまり汲み取っていないのではないかと思われるようなものも (ごく限られるとはいえ)目につく。読者が本書から「イスラーム 書物(実は概ね写本)の歴史」を一続きの流れとして読み取っていくのは簡単ではなかろう。たしかにいくつものテーマの論稿が並び立つさまは見ようによっては壮観であり、にぎやかで贅沢なつくりではある。しかし本書ではそれら個別のテーマがそれぞれどういう関係を有し、大きな歴史の流れを形作っていたかという点が実に見えにくいのである。編者の「水脈」という言葉を用いるならば、ここに示された写本文化の「水脈」はそれぞれどのようにつながっていて、どんな大河へ注ぎ込んでいると言うのか。通史的な記事として成功しているのは聖典クルアーンの歴史、正書法から書体(書道)、デジタル化までのアラビア文字の歴史ぐらいであろう。他のトピックに関しては、読者は各章の内容に個別的に興味関心を掻き立てられることはあっても、それが結局歴史的にどう今につながっていくのか、流れの中に位置づけるようなチャンネルが開けられておらず、いちいち消化不良を覚えるのではないかと懸念する。つまりこのままでは本書の内容の大半は論稿の羅列ないしはパッチワークにすぎぬといわれても仕方がないのではないか。編者はこの点、いますこし編者としての権限を駆使してreader friendlinessに意を用いるべきではなかっただろうか。

以上のような一書としてのまとまりの問題のほかに、本書は「イスラームの書物」を、その対象を写本に限ったにしても、必ずしも包括的に扱ってはおらず、その収録情報には不備も少なくないという点も指摘しておくべきであろう。この不備は主として書物のジャンル、そして書物が生産された地域の2点に関するものである。

まずジャンルとしては、まず聖典クルアーンについて、通史的な読み方が可能な例外的な要素として評価できるものの、そのほかの言語への移植、すなわちタフスィールの広がりについて網羅的な記述がないのはいかにも残念である。これは仏典やキリスト教の聖書の翻訳へのそれぞれの分野での扱われ方を見れば、この問題の重要性は明らかであろう。クルアーンばかりではない。「イスラーム圏の書物」全般につき、翻訳の問題は避けては通れない文化史上の大きな問題ではなかろうか。聖典以外にも、たとえば清水が第Ⅰ章5節(以下Ⅰ-5のように略記)において示したナディームの『目録』の構成(88-89頁)を見ただけでも、本書で示しえた「書物」のジャンルが極めて限定的であることは明らかである。

つぎに本書で扱われた地域について言えば、中東世界、とくにアラビア語圏が最重要の地域として優先的に扱われるのは当然としても、イランはほぼ美術史のみが扱われ、より広域のペルシア語圏の写本文化-これには中央アジア、アフガニスタン、インドそして中国も射程に入ってくる-について本書で知るところがほとんど無いのはどういうことだろうか。さらに現在では世界最大のムスリム国家インドネシアを有する東南アジア~海洋アジア世界につき一言半句もないのは納得がいかない。ついでに言えば評者の専門である中国領中央アジア(東トルキスタン)についても、まるで書物は存在しないかのごとき扱いである。

さらに、従来の印刷本中心の書物の歴史との違いを明示的にし、写本文化を前面に示すための措置とはいえ、イスラーム圏の印刷本についての記事が著しく少ない点は、やはりアンフェアではないだろうか。現在イスラーム圏の文化に接する人はひとしく印刷本を通じて文化を摂取している。本書の執筆者にしてもコアな研究史料として写本を読むとはいえ、膨大な印刷本の世話になっていない研究者は一人もいないのである。そもそも当の本書にしても、いくら編者がデジタル化の時代の到来を声高に唱えようとも、昔ながらの印刷媒体により発行されているという現実を見るべきであろう。そういう現実に目を向けずに、いささか偏りのあるアラビア文字印刷本の概説的な記事につづけて、一足飛びにデジタル化へと話題が及ぶのは明らかに飛躍である。小杉はあとがきにおいて「印刷物を取り巻く環境」の大きな変化に際し、「デジタル化以前・以後」を生きた世代の証言を残そうという意図を明らかにしている。さればこそ、その「証言」はむしろ将来は失われていくであろう、執筆者たちの実体験を踏まえたアラビア文字印刷本と人間の付き合い方に関するものになるのではないか、と評者などは考える。まだ活字を拾っていた時代からオフセット印刷が導入されるまでの印刷工房や、書物の制作過程、そしてインターネットでの売買が導入される以前の書物の流通、街角の書肆での読者たちの書物の探索と購入をめぐる問題など、むしろ失われゆく貴重な証言は印刷本をめぐることの方にある。技術的なコンピュータへのアラビア文字の移植の問題などは、そうした現下失われつつある問題に比べれば、あまり大きな意味を持たないのではないだろうか。

第Ⅲ部に配置された論稿のいくつかは、研究者にとってはありがたくても、書物の内容の統一性という見地からはやはり違和感がありはしないだろうか。写本の収書状況、研究者の体験記、さらには文字文化のデジタル化をめぐる個人的な体験談などは、いわば研究論文ないしは歴史記述の「バックステージ」の話である。これがシリーズものの論集ならば、それに挿入される『月報』のようなものに掲載されるべき筋の文章ということになる。例えば本書の後半に一括して別格の扱いで掲載されるべきであって、少なくとも「歴史」を「記述」した『イスラーム 書物の歴史』の本編に置くべきものではないだろう。

最後に、索引について、人名と書名の索引だけで、地名やとりわけ事項索引がないのは明らかに不便であり、改善を要する点であることを指摘しておきたい。いったい、本書の内容につき人名と書名だけをピンポイントで拾い読みするような読者はどれほどいるのだろう。それを意味なしとはしないものの、専門研究者、一般読者の別なく、目次に加えて一定のキーワードを手掛かりに横断的に本書の内容を眺められる事項索引があれば、本書の利便性はかなり増すはずである。


* * *

以上、僭越ではあるがいささか辛口の評価を書き連ねた。そのいくつかは要するに本書が完璧ではないことを勝手に咎めだてる、評者の手前勝手な「ないものねだり」の如きものであって、編者や、特に執筆者諸氏に本質的な反省を促す筋のものではない。この点は了とされたい。評者は一人の研究者の末席にある者として、本書をむしろ高く評価しているのである。

本書の最大の意義は、すでに冒頭で述べた通り、これまで読者が読み知ることが難しかったイスラーム圏の写本文化の歴史に関する論稿をひとまとめにした一書である、という点にある。本書を通じて読者は人類の書物の歴史のなかに燦然と輝くイスラーム圏の写本の存在をしかと認識させられることであろう。

より具体的には、まず写本文化の発展を担保した諸要素として製紙法の伝播(Ⅰ-2)、アラビア文字(ならびに書体:Ⅰ-3; Ⅰ-6; Ⅱ-2; Ⅲ-6)、中核的な書物としての聖典(Ⅰ-1; Ⅰ-4; Ⅲ-5)、製本・装丁技術(Ⅱ-1)そして挿画芸術(Ⅱ-3; Ⅱ-7)等の諸点につき、まとまった記述が日本語でここに提示されたことの意義は実に大きい。これら諸点は西欧や東アジアとも直接対照可能な要素であり、本書の登場は編者がねらいとしたように、より大きな視点からの書物の歴史の読み直しへの道を拓くこととなろう。

またそれ以外の写本文化(ならびにその継承文化)の諸相を扱った論稿の数々(Ⅰ-5; Ⅱ-4; Ⅱ-5;Ⅱ-6;Ⅱ-8;Ⅱ-9;Ⅱ-10; Ⅲ-4)は各々独自の価値があり(必要なコメントはさきに各章の紹介部分で示した通りである)一括してその価値を述べるのは難しい。しかし、雑駁な言い方ではあるが、いずれも「イスラームの書物」の奥深さを十分に示しえた価値ある内容であると言える。

さらに写本そのものというよりは写本を研究者がどう利用するか、あるいはどう利用したかという、書誌の総合やその利用に関する論稿(Ⅲ-1; Ⅲ-2; Ⅲ-3)は、読者が他の論稿とは全く別の角度からイスラーム圏の写本文化を眺める機会を提供している。この3編は読者、わけてもこれから写本を読もうと志す若き学徒には、写本研究の魅力と手立てを明瞭に示す一種の指南書としてこのうえなく有益だろう。

以上の点を踏まえて、評者もまた本文冒頭の惹句を復唱したい。まことに「これを知らずして」人類史における書物は語れないのだから。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

第13回中央アジア古文書研究セミナー

Wp_20150322_10_07_26_pro
2日目の会場。思えば中央アジア文書の講読に毎年これだけの人が集まるというのも、凄い。これ13年も続けているのですよ!?


------------------------------------------------------------
第13回中央アジア古文書研究セミナー
日時:2015年3月21日(土);3月22日(日)
会場:京都外国語大学国際交流会館4階会議室(No.941)

【プログラム】
第1日目:3月21日(土)―古文書講読・講演
趣旨説明(堀川)、参加者自己紹介
菅原純「カーディ文書を中心とする新疆テュルク語民間文書:概説と講読」
Baki Tezcan "The Portrait of the Preacher as a Young Man: The Education and Early Career of Kadizade Mehmed"

第2日目:3月22日(日)―古文書講読
矢島洋一「近世・近代西トルキスタンの合法売買文書」
磯貝健一「19世紀ブハラ・アミール国の訴状とその背面文書(または「判決文」)」
総合討論

-------------------------------------------------------------

このセミナーも13回目。今回はなんと私が初日のトップバッターとして「新疆文書」につきお話しする機会を頂戴し、文書講読もあわせ行うこととなった。「門前の小僧」としてこの会に参加すること10余年。ここに至り「耳学問」の成果を開陳する、というよりは「不出来な受講生の習熟度チェック」を公開で行う機会をいただいたと言う訳である。

以下、セミナーのプログラム順に自分なりの参加記をご紹介していくこととする。なお、今回は合衆国(カリフォルニア大学ディヴィス校)のバーキー・テズジャン准教授(オスマン朝史)がご参加になり、そのご講演の効果もあって参加者数は40人越えの大盛況であった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ 

第1日目:3月21日(土)―古文書講読・講演

菅原純「カーディ文書を中心とする新疆テュルク語民間文書:概説と講読」

今回、私の担当セッションでは、私が10年以上前に収集し、先ごろ新疆大学に移管した「新疆文書」(菅原コレクション)につき、そのあらましを紹介すると共に、今回は不動産契約に関する基礎的な文書2種をそれぞれ2点ずつ講読した。「新疆文書」の概要についてはこのブログでも新疆大学の講義などで割と詳しく紹介したので、ここで繰り返すことはしない。そちらについては当ブログの過去記事(1, 2)を参照されたい。

いくぶん新し目のコンテンツとしては、共産党の「革命」によってこうした文書類が忌まわしき旧時代の一つの象徴として槍玉にあげられ、儀式的に焼却されたという歴史事実につき、映像資料を示して紹介した。これは例えば1999年に刊行された写真集『新疆解放』(新疆美術撮影出版社、no.300)に掲載された「(抑圧から)解放された農民は、土地契約文書を焼却して勝利を歓迎する」というキャプション付きの写真や、1960年に制作された宣伝映画『夏合勒克乡的农奴制度』(中国科学院民族研究所委託、新疆電影制片廠撮制)の再現映像(カーディによる文書の作成シーン及び焼却シーン)等から窺うことができる。


宣伝映画『夏合勒克乡的农奴制度』(部分)01:31よりカーディによる文書作成の「再現場面」あり(ネットに上がっていない本編は全部で50分あり、解放後の文書焼却場面も含まれる。セミナーでは手持ちの本編映像資料から必要な部分を切り出しお見せした)。


文書講読については、一般的な「不動産売却文書」と「合法売却文書」を計4点、スウェーデン伝道団作成になる『書式集』掲載文書と実際の文書という組み合わせで読みあわせることとした。いちおう私は講師ということであったが、実質的には司会者の磯貝さんのご指導を拝聴するというスタイルで、そのいちいち周到な語釈、解説にはただただ感嘆するばかりで、実に勉強になった。いったいこの種の史料講読はその言葉に通じているだけではダメで、深いイスラーム法学の知識を必要とする。そのことを(門前の小僧として、それを感じていなかったわけでは断じてないが)改めて痛感させられた次第である。不出来ではあるが、今後もたゆまず励んでいきたい。

それにしても、何人かの方に読んでいただいた文書講読は、ペルシャ語やアラビア語、オスマン語、ウズベク語などをベースにする方々の「読み方」が、音声的にはそれぞれの「癖」を反映していて実に面白かった。カーシュガルの文書であるからして、住民は当然(まあ、私が拙く読むように)カーシュガル方言、平たく言えば現代ウイグル口語により近い発音でこれら文書を読んでいたに相違ないはずなのであるが、そうした別の地域のことをなさっている方々がお読みになると、まるで別のことばのように聞こえてくるのである。無論、実際にその文書が音声的に実際どう読まれていたかということは正確にはわからない。しかし細かなつづりや書き癖のようなものが頻繁に問題になるこの種の史料講読にあっては、書き手がそれを音声的にどう理解していたか、というのは極めて重要な問題であるように思われる。これはひとり新疆文書だけの問題ではなく、中央アジア文書においても個別的に考慮に入れられるべきポイントではないだろうか。

最後に私のセッションで、主として磯貝さんのご指摘の中で、これは要注意と思われたポイントを部分的に書き出しておく(中にはこのセミナーで幾度も繰り返された用語も含まれている。物覚えの悪い自分自身に対する「覚え」として示す)。

iqrarは(もっぱら私が用いた)「陳述」よりは、より法学的には「承認」(とりわけ、本来は本人に不利となる事柄についての承認)と解釈されるべきである。したがってiqrar-i shar'iは「聖法に則った承認」である。
ishiklikは戸(ishik)の数から転じて部屋数を示すと解釈されるのが一般的だが、間口の単位として解釈しうる可能性がある。これは今後の検討が必要。
ishiklikは、語釈としてはそうでも、綴り上はむしろishikleと読まれる可能性はないか(検討課題)。
◎ASKNHはusknaと読まれるべきで、(土地の)「上物」を指すものと理解される。
hoquq-i marafeq「恒久的占有権」
ghabn-ghrurdin otmek「売買の障害がない」
borlap beripはそれぞれの語の正確な解釈はひとまず措くにしても「登記して」と解釈するのが妥当か。
◎合法売却契約は、ここでは所定の期限終了後に対象物件を買い戻す契約すなわち「買い戻し約款売買」であり、伝道団書式集収録「抵当(rahn)文書」はその意味では筋がいい内容である(つまり私が指摘したような「異教徒の著作物としての誤解」は根拠がなく、むしろ雛型となった書式集の存在を考えてもよい)。
◎不動産売却文書では、その対象物件と売却者の所有関係の由来を明示することがまずもって必須である。講読文書での「父親から相続した(atamdin mirath qalghan)」や「金あるいは貨幣で購った(zarkharid)」などがそれにあたる。
◎書式集の「規範」文書の年号はいちいち刊行年が示されている点が注目される。これもまた書式集の刊行をめぐる出版者側の工夫(配慮)の一つと考えられよう(高松氏のご指摘による。あとで違う版を確認したら吃驚!まさにその通りであった)。

※ ※ ※ ※ ※ ※ 

Baki Tezcan "The Portrait of the Preacher as a Young Man: The Education and Early Career of Kadizade Mehmed"

テズジャン氏のご講演は16-17世紀オスマン朝の名望家(?)で一般にスーフィズムの敵対者とされるKadizadeliの指導者Kadizade Mehmedの初期の経歴につき検討したものであった。なにぶん自分のセッションの直後の講演ゆえかなり集中を欠いた状態で拝聴したためあまり記憶に残っていない(その点はお詫びします。何しろ疲労困憊していたので)。ただそのようなスーフィの敵対者と色分けされがちな人物であっても、すべてのスーフィと敵対していたわけではなく、一部スーフィとの交流もまた注目すべきである、というような点(確か議論ではムジャッデディーヤなども俎上に上がっていたものと記憶する)は意見の応酬があった。こちらはいずれ書かれたものなどで復習したい。


※ ※ ※ ※ ※ ※ 

第2日目:3月22日(日)―古文書講読

矢島洋一「近世・近代西トルキスタンの合法売買文書」

矢島さんの講義は前日私も扱った「合法売却文書」につき、西トルキスタンの事例を包括的に扱ったものであった。

「合法売却」契約については先にこのブログでもながながとその契約の内容につき説明を試みたことがあった。要するにイスラーム法の上で禁じられた利息の取得を「合法的」に行うための一つのトリックとして存在した契約であり、中央アジア(西トルキスタン)ではひろく行われた契約であったことが明らかにされている。

この契約でいつも初心者をまごつかせるのは、こんな脱法まがいの契約のどこが「合法」なのかという点である。この点につき。今回矢島さんは日本語での「合法ドラック」(「リーガル・ハイ」とも。現在は「危険ドラッグ」))の事例を引かれ、この事例と同様に「合法ぎりぎり」というニュアンスからひねり出された術語ではないかと指摘なさり、これには「なるほど、これだ!」と、思わず膝を打った。

今回講読予定として示された文書は4点で、3点がペルシャ語、最後の1点がテュルク語の帳簿(デフテル)収録文書で、私としては当然4番目の文書が一番の関心事であった(大変癖のある文字で書かれており、また書式も新疆のそれとはかなり違い、同時に示された一部ペルシャ語文書のスタイルを明らかに引きずっていた)。しかし、時間切れで会場での読みあわせが行われなかったのは残念至極であった。最後にいただいた「判読例」でこれは独習するしかない。無念であった。


※ ※ ※ ※ ※ ※ 

磯貝健一「19世紀ブハラ・アミール国の訴状とその背面文書(または「判決文」)」

磯貝さんの今回の講義は、ブハラ文書の訴状と判決につき詳しい解説がなされ、実に有益であった。とくに一般に訴状にはムフティの認印が押され、その訴状の適否をムフティが行っていたというのにはいささか驚きをもって拝聴した次第である。新疆文書の場合はムフティが認印を押した文書もないではないが、いくつかの文書は明らかにカーディが押しており、おそらくはカーディのデフテルに一緒に押したであろう「割印」が多くの場合に押されているのが特徴である。この辺のマナーの違いは今後掘り下げていくべきであろうと思われる。

また訴状の構成、訴訟のプロセス(この流れの説明図を見るのは初めてではないが、今回のものは特に詳細を極めている)についても、各段階でのターミノロジーが詳細に示されている点が注目され、これは新疆文書のみならず、イスラーム世界における係争の審理過程を比較考察する上で参照価値が高い。

ほかにも和解(示談は法廷外で行われるものゆえ和解とは明瞭に区別される、ということは私は暗愚にしてこれまで全然知らなかったことを告白する)、そして訴状の反対面に記された判決などはいずれもこれまで知らなかったことであり、今後の新疆文書講読の肥やしにしたいと思っている。

いつものことながらお二人には多くのことを今回も教えていただいた。これはいつも思うのであるが、お二人はこのセミナーで示された知見をぜひかっちりした概説の形で(出来れば英語で)お出しになるべきである。もしそういう本が出れば、さまざまな意味で学会に裨益するところは大なるものがあるであろう。

※ ※ ※ ※ ※ ※ 


ところで今年は2015年。つまりあの東北大震災から4年で、あの年に大学を入学した学生がこの春に学窓を巣立っていったという年である。それゆえ東京の法政大学では卒業式にあわせ4年前に行えなかった入学式もあわせ行った由。本当に、この4年間を思うと感慨深いものがある。この中央アジア古文書研究セミナーはといえば、実に震災後僅か2週間後の3月26日に「第9回中央アジア古文書研究セミナー」が開催され、「こういう時だから、関西が頑張らなければ」とあえて開催に踏み切られた堀川先生はじめ、主催者の心配りに深く感じ入ったことがあった。そのことがあらためて思い出される。

この会はいつも(傍目には)同じ種類の史料を、同じ会場で、同じような顔合わせの参加者が読みあわせ、打ち上げではこれまた同じように飲み語らうという、ある意味においては毎回変わり映えのしない集まりである。しかし13年も続けていると、変わり映えしないようでいて、確実にそれなりの成果が蓄積され、また折々のドラマが生まれていることに気付かされる。13年も続けていれば、その集まりはもはや特別なイヴェント(訪れる場所)というよりは、ある意味そこにいることが自明にさえ感じられる場所(帰って行く場所)のように思われてくるから不思議なものである。こういうところにも人生のひとつの奇跡があるかのようだ。

今回のセミナー冒頭で、当会の主催者である堀川先生は、あと2年でご自身が定年を迎えられること、京都外国語大学でのこの集いもあと2回となるであろうことに言及された。今後、磯貝さんや矢島さんが主導する形で会場を変えて続けるにしても、このセミナーをこの雰囲気のまま行えるのはあとたった2回と言う訳である。それ以降はどういう形であれ、これまでと同じというわけにはいかないだろう。あと2回が変わりなく有意義に開催されることを、また、できることならそれ以降も、何らかの形でこの枠組みが維持発展していくことを、心から望まずにはおれない。

※ ※ ※ ※ ※ ※ 


附記 今回のセミナーでは、三浦徹先生の「海を渡った皮紙(ヴェラム)文書-モロッコの契約文書コレクション」(東洋文庫編『アジア学の宝庫 東洋文庫-東洋学の方法と歴史』勉誠出版近刊、所収)のコピーをいただき、また阿部尚史(ABE Naofumi)さんからご近著"Preserving a Qazar Estate: Analysis of Fath-'Ali Khan Donboli's 'Property Retention Tactics'" in STUDIA IRANICA 43, 2014: 129-150.の恵贈を受けた。ここに記して深甚の謝意を表したい。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

にわか辞書作りの弁2009

--------------------------------------------

以下のエッセイも、2009年に執筆した、こちらはボツ原稿である。当時は『現代ウイグル語小辞典』が出版間際で、その状況下で「何か書け」と言われ「即座に書けるネタ」がこれしかなかった。あれから5年以上経過し、相変わらず私はウイグル語を教え、また辞書作りも細々と続ける羽目になっている。

あれから技術的にもレキシック・プロがSILのなかでも最前線を退き代わりのアプリが登場し、またウイグル語辞書も新しいものが出ている。とりわけ新疆での電子辞典の発達普及は恐ろしいものがある。おまけに文中で生まれたばかりの「愛しいわが子」であった長男もいまや7歳で、『妖怪ウォッチ』に夢中なクソガキに成り果てている(いや、愛しいわが子であることには変わりがないが…)。

そういう状況ではあるけれども、やはり辞書は地味で根気の要る作業の積み重ねで作られるものだし、そういう「汗」を反映させた、完成度の高い「編者畢生の辞書」のようなものはまだ出ていない。また今後も出るかどうかは分からない。してみれば、5年ぐらいたったからと言って、この内容が陳腐化したかどうかなんて分からないのではないかと言う気になった次第である。このエッセイは今に続く、過去の時点での私の辞書とのうんざりするような付き合いの記録としてお読みいただければ幸いである。

-----------------------------------------------



恥ずかしながら、最近、辞書を作っている。


「恥ずかしながら」というのは、自分のやっていることは確かに「辞書作り」ではあるけれども、世間一般の「辞書作り」に対するイメージよりはおおいに安直で能天気な代物だからである。私は辞書を作っている。それは疑いない。しかし、そう自分の仕事を紹介することであらぬ誤解を受けてしまうのは分不相応でいかにも格好悪いし恥ずかしい。

そもそも私の辞書作りは最初からベースとなる「底本」が複数あって、それらを言ってみれば自分勝手にまとめあげただけなのである。私がやったことは冒頭に載せるそのことばの概要(文法スケッチ)を書き、手前勝手な視点からエントリーする語を選び、個別の記載事項をチェックして必要に応じて追加と削除、内容の修正、加筆をおこない、辞書後半に機械的に日本語を見出しとするリバース・インデックスをつけたにすぎない。辞書の「要」とも言うべき用例は掲載できなかったし、組版も出来合いの辞書作成ソフトの出力機能に頼りっぱなし、という代物なのである。

確かに私は「辞書を作っている」。しかし、私のこの「辞書作り」はいまの段階ではとうてい「辞書編纂」などではなく、実際「辞書作り」と称するのも恥ずかしい。あえて言うなら「にわか辞書作り」とでも呼ぶべきものである。

*********************

申し遅れたけれども、いま私が「にわかに作って」いる辞書は、題して『現代ウイグル語小辞典』と言う。見出し語一万七千語弱に日本語の語釈と熟語、同義語、類義語、一部の語源、そして日本語見出しのインデックスを付した簡易辞書である。くどいけれども用例は収録していない。

「現代ウイグル語(以下ウイグル語と略記)」ということばは世間にあまりなじみがないかもしれない。ことばの系統としてはトルコ語の親戚にあたり、ウズベキスタンの国語であるウズベク語とは兄弟のようによく似たこのことばは、中国の西端に位置する新疆ウイグル自治区をはじめとして、隣接する中央アジア諸国などで話されている。その文字は変則的なアラビア文字を使用する。今日の話者人口は推定で一千万人はいると考えられ、星の数ほどもある世界のことばの中では比較的大きなことばに分類されるだろう。あるいは本誌の読者のなかには、近年の中国からの独立運動に関する報道や、NHKの人気番組『シルクロード』を通じて彼らをご存知の方もいるかもしれない。

*******************

そもそもこの私がなぜ「にわか」ではあっても辞書作りなんぞに手を染めることになってしまったのか。言っておくが私はことばの専門家ではない。新疆史を専攻する、どちらかと言えば出来の悪い歴史研究者であり、「手段」としてウイグル語文献を読んだり、その場の必要に応じてウイグル語を話したり書いたりすることはあっても、このことば自体を「目的」として取り組むつもりはもともとなかった。だいいち現代ウイグル語のレヴェルもそれほど高くない。新疆に二年暮らし、そこで自分なりにウイグル語を磨いたものの、日本人で私よりもこのことばの読み書き、会話に優れた人は少なくないだろう。

しかし縁あって大学で三年ほどウイグル語を教える機会があり、そこでウイグル語を学ぶための教材や、辞書のない不便におおいに煩わされることとなり、それが結局は「にわか辞書作り」へと私を向かわせることとなった。

日本語でウイグル語が学べる独習書は信頼できるものとしては竹内和夫の『ウイグル語四週間』(大学書林、一九九二年)のみだし、辞書も一九八二年にウルムチで出版された『維漢詞典』(現代ウイグル語―中国語辞典)を底本にした小松格『ウィグル語辞典』(泰流社、一九九三年)、飯沼英三『ウイグル語辞典』(穂高書店、一九九二年)が出ているけれども、どちらも絶版になって久しく、しかも授業を進めるうえでは使い勝手もそれほどよい代物ではなかった。お手製の粗末な教材と、絶版となった数百ページの対日辞書を毎年コピーしては学生に配り授業をするのはなかなか面倒なことであり、私はコピー機、裁断機そして製本機と格闘しながら、もし機会あらば、ぜひとも自分なりにウイグル語を学ぶための教材や、ウイグル語と付き合っていくための一定のボリュームの辞書を手がけてみたいと過分な志(妄想)を抱くに至ったのである。

この「志」は、三年にわたったウイグル語の授業が終了してからも、私の意識の中ではずっと蓄えられていた。しかし、具体的にどのようなかたちでそれに着手するか、という青写真のようなものは全然なかった。それがにわかに現実味を帯びてきたのはアジア・アフリカ言語文化研究所の「言語研修」でふたたびウイグル語を教える機会に恵まれたことによる。

アジア・アフリカ言語文化研究所(略称AA研)は東京外国語大学の付置研究所で、その「言語研修」は一九六七年いらいほぼ毎年実施されてきた、同研究所の基幹事業とも言うべきプログラムである。国内ではなかなか学びにくいことばを取り上げ、最大五週間、百五十時間にわたり研修を行う、ある先生の言葉を借りるならば「ブートキャンプ」さながらの、学ぶ側からすればまことに贅沢な機会と言えるだろう。教える側にしてみれば、この研修プログラムはプログラム独自の教材を作成し、それを実際の研修で用いる中でその教材の完成度を高めることが期待されており、一方的な「サービス」に終わっていないところが最大の特徴である。

それにしても盛夏の五週間を、土日の休みがあるとはいえ、ひたすらただひとつのことば(しかも、他ではなかなか学びにくい珍しいことば)の世界に浸るなんて体験は願ってもそうそう得られるものではない。このご時世にあって、この言語研修は存在そのものが奇跡にさえ思える。私がウイグル語言語研修の話をいただいた際に一も二もなく即座に承諾したのは、こうした伝統的、いや伝説的とも言うべき事業に一度は参与してみたいという長年のあこがれもさることながら、研修の教材作成の一環として、生臭い言い方で言うならばその予算を活用して、他でもないウイグル語辞書の雛形を作成することができるのではないかと考えたからであった。

さて、私の辞書作りに関して、まずもって大変幸いしたのは、記述言語学者である妻が専門家としてレキシコグラフィーの知識と経験を有していたということであった。言語研修の話が持ち上がったころ、妻はベンデ語と言うタンザニアのことばの語彙集(ベンデ語、日本語、英語、スワヒリ語の四言語対照語彙集)を出版した直後であり、タイミングとしては申し分なかった。妻からそのほやほやの辞書作りの段取りとノウハウにつき逐一レクチャーを受け、さらに妻が語彙集の作成に用いた辞書作成ソフトウェアの使い方を学ぶに及んで、戦略的にどのようなステップを踏めば、期日までに辞書とはいえぬまでも辞書の雛形のような語彙集を作成することができるか、という見通しが立てられたのであった。

さらにウイグル語はアラビア文字を使うことばだが、ほかのアラビア文字使用言語よりコンピュータ上での処理が格段容易な特性を有していることも大いに幸いした。アラビア語はじめペルシャ語、ウルドゥー語などの一般的なアラビア文字使用言語は長母音しか表記せず、短母音は読み手の側が適切に補って読むこととなっている。したがってアラビア文字から単純に機械的に長短の母音つきのラテン文字に置換することはまず不可能である。しかしウイグル語はアラビア文字使用言語としてはきわめて変則的なことに、母音が長母音、短母音を問わずすべて表記される。これはとりもなおさず、ラテン文字とアラビア文字の間の相互置換が可能であることを意味し、実際、あるウイグル人プログラマが開発したテキスト・エディタにはアラビア文字からラテン文字(これは一般にウイグルコンピュータ文字と呼ばれる)に一括変換させる機能がついているほどなのである。

この特性のおかげでウイグル語のデータソースはラテン文字による一元的な管理が可能なのである。ウイグル語アラビア文字のこうした変則性は二〇世紀初頭のソ連において、ゆくゆくは表音文字(ラテン文字やキリル文字)への転換を目指して暫定的に開発されたものではないか(そしてその暫定的であったはずの文字がどういうわけか中国領で今日まで用いられている!)と考えられるのだけれども、その変則性がはからずもこんなところで幸いしているということになるだろうか。

ここで「辞書作成ソフトウェア」なるものについてひとこと紹介しておく必要があるだろう。今回私が用いたソフトは合衆国のキリスト教系言語学団体「夏季言語学会Summer Institute of Linguistics (SIL)」がフリーで公開しているレキシック・プロ(Lexique Pro)なるソフトウェアである。このソフトウェアは基本的にユニコード(UTF-8)のテキストベースでデータを作成し、プログラムでそれをコンパイルして電子辞書に仕立て上げるというもので、UTF-8がカヴァーする文字を用いることばであればほぼ例外なく手軽に辞書を作成することができる。もちろん文字の並び順も自在にこちらで設定することができるし、その気になれば複数のことばによる対照辞書だって作成することができる。

テキストベースでタグによって情報項目を識別し辞書を生成する、というのがこのソフトウェアの最大の特徴である。コンピュータを用いて辞書作りを企てる人は、データベースソフトにとびつきがちだけれども、お気の毒ながらこれはまずうまくいかない。何なれば、―これは私淑するある先生の受け売りだけれどもーデータベースは表計算的発想、つまりX軸とY軸(タテとヨコ)の一対一の対応でもってデータを束ねていく。しかし普通の辞書の書式というものはは往々にしてそういう発想からは逸脱する振る舞いをするからである。単語の語義はひとつではなく、複数の語義を帯びている場合がほとんどである。また同音異義語の扱いをどうするかと言う問題もある。それ以外にも参照項目や同義語が複数にわたる場合はどうするのかとなると、一対一の発想ー表計算的なプログラムではどうにもうまく処理できないと言うわけだ。多少なりともデータベースや表計算を扱ったある人にはこの点はご理解いただけると思うのだが、どうだろうか。

いっぽうレキシック・プロでは、各見出し項目はそれを示すタグで区切られ、見出しタグと次の見出しタグで区切られたフィールドがすなわちひとつの単語のフィールドと言うことになる。見出しタグのすぐ後には見出し語が入力され、同様に発音記号、品詞、日本語語釈、日本語ふりがな、参照項目、同義語、借用語などが、それぞれのタグに情報を後置する形をとる。項目に対し情報が複数ある場合はスペース+セミコロン+スペースで区切ることになっている。また複数の語釈や同音異義語の取り扱いについてもそれぞれ特別なタグを付すことができ、それらをプログラムが適切に認識し、処理できるようになっているのである。

そしてさらに素晴らしいのは、このソフトが最初から紙媒体の辞書への出力とインターネットで公開する電子辞書出力を想定しており、何の苦もなく美麗な辞書の版下(リッチテキスト形式)とウェブ公開に対応したファイルを作ることができると言う点である。昨今の風潮はコンピュータを利用した辞書といえばすぐに電子辞書に発想が傾きがちで、言語研究者も電子辞書の構築や紙媒体の辞書のデジタル化には熱心でも、新たな紙媒体の辞書づくりには一般に関心が高くないように見受けられる。けれども、辞書を実際に使う側から見れば、私自身は辞書は紙のほうが使いやすいと確信している。電子書籍が紙の書籍に比べそれほど社会に受け入れられているわけではないのと同様に、需要の面からも、また機能面からも紙媒体の辞書はまだまだ電子辞書に一日の長があるように思われるのである。そういう意味においてレキシック・プロのこうした配慮はことばとの付き合いかたに対する開発者の見識の高さが窺われ、賞賛の念を禁じえない。

ともあれ、ことばは違うとはいえ辞書学の知見をもつ身内の存在、文字処理環境の担保、辞書の作成そして出版を支援するソフトウェアの存在といった心強さは、私に「にわか」ではあっても辞書作りをするうえで確かな見通しを与えるものだったのである。

*****************

現代ウイグル語研修を担当することが決まり、教材のひとつという枠組みで語彙集の製作に着手したのは、研修本番まで八ヶ月を残した二〇〇七年の正月のことだった。

その最初のステップは見出し語のリスト化である。これについては底本のひとつである一九九二年に合衆国で出版されたヘンリー・G・シュワルツ編になる『ウイグル語―英語辞典』を利用した。高名なモンゴル学者であるシュワルツのその辞書もやはり前出の『維漢詞典』を忠実になぞり、かつ独自の増補を施した重厚な辞書である。この辞書は見出し語をはじめ記事がすべてラテン文字で示されているため、スキャンすればOCRによってたやすくその内容をコンピュータに取り込むことができる。比較的高額な辞書の背を落とすのは心が痛んだが、蛮勇をふるい背を落とし高速ドキュメント・スキャナにかけ、かくてその日のうちにシュワルツの辞書の内容はすべて私のコンピュータの中に収まった。

その次の作業は、既刊の対日辞書のデータをその作成済みの見出し語に対応するフィールドに入力していくことであった。こればかりは機械任せでは行えないので、言語研修の教材作成予算を活用し、アルバイトの方々に骨を折ってもらうことになる。辞書によってウイグル語の字母表記が異なっているので、私のほうでまずそれを対日辞書の字母にあわせ変換し、かつ対日辞書の並び順に見出し語データを並べ替える処理をまず施した。字母ごとに仕事を引き受けたアルバイトの作業者は、対日辞書の該当する単語の必要とされるデータ(語釈とそのふりがな)を黙々と指定書式に従って入力していった。

つづく作業は入力済みのデータを吟味し、クリティカルにそのデータの検討、増補、修正、場合によっては削除をおこない、かつ辞書作成ソフトウェアの書式にしたがって適切なタグを項目別に適切に配置していくと言う作業であった。この作業は人任せにするわけにはいかず、部分的に書式の整形を妻に手伝ってもらったほかは、すべて私が一人で行った。いちばん時間と手間がかかった作業であり、まさにこの辞書雛形作成の核とも言うべきタスクであった。

テキスト・エディタにむかって数十万行からなるデータの検討・編集を行うのは気が遠くなるような作業である。辞書作成専用に「ウイグル」と名づけたノートパソコンは常に私の手元にあり、ちょっとした空き時間、移動時間、昼と言わず夜と言わず、テキスト・エディタに書き込まれた辞書データの検討と編集は続けられた。たまたまそれは妻の出産の時期に重なっており、検診に訪れた病院の食堂や待合室、はては分娩の際に提供されたベッドの傍らや出産後の病室でもその作業は続けられた。そういうわけで、この作業にまつわる苦労は、私の中では長男の産声の記憶とセットになっている。

言語研修が始まり、前述のとおり「ブートキャンプ」さながらの修羅場が始まっても、私の辞書のほうの作業は終わらなかった。目を回す私の様子を見かねた妻は乳飲み子を連れて会津の山奥の両親の家に引っ込み、私は昼は授業、夜はその準備と辞書の作業に専念し、研修期間中に愛しいわが子の顔を見ることができたのは二度ばかり週末に会津を訪ねたときだけであった。

東京―会津往復の電車の中ではひたすらパソコンにむかっていつもの作業を続けていたのであったが。夜、ひとりで電車にのって東京に帰る途上、どこあたりでのことだったろう、外では大きな花火が上がっていて、遠くからは盆踊りの囃子が聞こえてきた。そうした景色を横目に、私は「なんて夏だろう」と一人愚痴ながらパソコンをたたいていたのであった。

その後、データの編集は何とかめでたくも終了し、研修期間内に受講生たちにはどうにか簡易製本による見本版を配ることができた。しかしそれは日本語見出し索引の「ら」行がまるまる欠けているなどとんでもない間違いがあり、編者としてはひたすら恥ずかしい限りであった。それからまたいくらか修正を施し、百部限定でめでたく出版されたのが『現代ウイグル語語彙集(附日本語ー現代ウイグル語索引)』(五三三頁、AA研、二〇〇七年八月)である。

本書を差し上げた方々からはそれなりのお褒めのことばをいただき、中には本格的に辞書代わりに利用して(もともと接着剤による軟弱な綴じ方であったため)ついに本をばらばらにしてしまったという若い方もいた。しかし難を言えば本書はウイグル語がどういうことばであるかと言う説明の記述もなく、また用例は皆無で熟語の記載さえなく、細かな記載事項にいたっては誤りが多数見られる不完全この上ない代物であった。

******************

さて、いまの私の「にわか辞書づくり」はその不完全極まりない旧版『語彙集』をあらためてAA研の『アジア・アフリカ基礎語彙集』シリーズの五十三番目の一書として、増補改訂して発行部数を大いに増し加えて出版しようと言う取り組みである。旧版では『語彙集』としていたタイトルも、この増補改訂版では『小辞典』と改めることとした。文法スケッチなどを掲載し一定の体裁を整え、誤りを可能な限り正し、かなりの数の熟語を新たに盛り込むことによって本書の実用性が飛躍的に向上しているように私には思われたからである。

こうした本書の質的な向上は、とりもなおさず言語研修の受講生やそれ以外の方々から寄せられた詳細かつ膨大な修正意見、そして発行元であるAA研が手配した査読者の方々の高度に専門的なご助言の数々に負うところが大変に大きい。私は何度も言うとおり「にわか辞書作り」に過ぎないけれども、本書が「にわか辞書」と呼ぶには出来すぎな、ちゃんとした質を有している部分があったとしたら、それはそうした方々のおかげに他ならない。私はただそういう方々に尻をたたかれながら手を動かしただけなのである。


*****************

以上、私の「にわか辞書作り」は、苦労はなかったとは言わないけれども、「筆舌に尽くしがたい」難事ではなかったと言っていい。辞書編纂にまつわる、涙なくしては語れない英雄語りもない。

オーソドックスなイメージとしては、「辞書を作る」とは「辞書編纂事業」を意味するだろう。膨大な文献から書き抜いた言語情報をまず言語資料体(コーパス)として集積し、そのなかから辞書の見出し項目となる単語を吟味し選び出す。その過程で、たとえば一定期間における新聞での単語の出現頻度などが問題になることもあるだろう。見出しの採否もそれだけで大仕事だ。つぎに、個別項目につきその内容、すなわち発音、語釈、類義語、同義語、語源、そして熟語用例などをじっくり考察研究する。とりわけ用例は編纂者のセンスが問われる、辞書の要とも言うべきものだという。さらには印刷・出版の過程でもさらに複雑な工程が待っている。

辞書編纂とは、かように多くの手間を必要とする掛け値なしの大事業にほかならない。これまで多くの先達が個性的な辞書を世に送り出してきたけれども、その多くはこの大事業のなかで筆舌に尽くしがたいご苦労をされたのである。たいへんよくあると思われるのは、辞書編纂者が自分の畢生の仕事の成果を見ずに死んでしまうことで、そういう人の名前は辞書の責任表示の欄に「囲み」(=物故者を示す)で表示されることになる。死なないまでも、失明したり、親兄弟、妻子にとんでもない迷惑をかけたり、つくづく辞書編纂と言う仕事は、それをつくるひとを幸福にしない営為なのではないかとさえ思われる。

****************

私のこの「にわか辞書作り」は、ここまで縷々書いてきたように、既存の辞書の焼き直しのようなやくざな仕事だし独創性もない。妥協に継ぐ妥協の産物で私に出来るのは弁解以外の何ものでもない。はずかしいことこの上ない。しかし、それにしてもだ、もう作業もおおむね終わり、ほどなく辞書が印刷所から出てこようと言うのに、この仕事が終わった気がしないのはどう言う訳だろう。もうあんな地味な苦労はたくさんだし、他にも仕事としてやりたい研究や書きたいものが私には山ほどある。それなのに、この文は用例としてよさそうだとか、この語の同義語と類義語の区分をもう少し厳格に検討しないと、というような思いつきが依然として頻繁に私の意識をよぎる。そして単語の出現頻度や、適切な項目抽出のためのコーパスづくりのことが意識から去らない。それはあろうことか、厄介ごとというよりは、いつしか心地よい思考の営みになっている。

「にわか辞書作り」の仕事は終わったようでいて、実は死ぬまで続く大仕事のほんの始まりに過ぎないのではないか。そんな妙な不安を抱えながら、私はいま最初の『辞書』を手にする日を迎えようとしている。

[2009年9月 脱稿]

| | Comments (0) | TrackBack (0)

喀什笊作り横町旧事

(かしゅがるざるづくりよこちょうきゅうじ) 

------------------------------------------

以下のエッセイは、2009年にある文芸誌(だろうなあ、あれは)の依頼を受け、執筆したものである。入稿後その雑誌は予算不足により休眠状態となり、結果このエッセイは今なお出版されていない。あれからもう5年になるし、もしもあの雑誌がみごと復活を遂げたならば、その際は他のストックもないでもないので、これはここに示しておくこととしたい。ここで話題にしている文書の研究は、個人的には今まさに一番ホットな話題であり、今示すことにはそれなりの意味があるだろうと思われる。

(「研究余録」として、ご笑覧いただければ幸いです。)

------------------------------------------

Documents


その場所は、カシュガル(喀什)という町でははありふれた横丁だ。別段人の目を引くような施設があるわけでなし、また道幅も大人が手を広げればいっぱいで、自動車も通行することができない。そもそも、外国人である私がその横丁に足を踏み入れる理由も本来はなかったのだ。

実際、見慣れぬなりをした私がその横丁に足を踏み入れれば、そこに暮らす人たちは「こちらの奥には何もありませんよ、道をお間違えでしょう」と親切な言葉をかけてくれることだろう。本当に奇妙なことだけれども、私がそんな遠い、中国の西端の町の、縁もゆかりもない横丁のことを気にかけるようになって、もう数年が過ぎた。

******

笊(ざる)作り横丁、と私がこっそり呼ぶその場所には、もちろんその土地の言葉で「笊作り」を意味するいささか発音しにくい名前があるけれども、ここでは笊作り横丁と呼ぶことにしよう。その方が親しみやすいし、そのいかつい発音は正確には発音するのがちょっと難しいから。

ことのはじまりは世紀が改まって最初の夏のこと、その横丁ではなく、そこから少しばかり道を下った、ある裁縫屋の店先でのことだ。そのころの私はこの町の職人の暮らしにちょっとばかり興味があって、日本から用意した質問票を片手に、いろいろな職人の親方を訪ねては、やれ「あなたのお師匠はどなたになりますか」だの「お弟子さんは何人いますか」といった、初対面にしてはいささか不躾で図々しい質問を繰り返していた。若気の至り、というには不相応なくらいすでに私は年を食っていたけれども、そのときの私の振る舞い、図々しさは今思い出しても恥ずかしい。フィールドワークとは、どんなに周到に細心に気を使っても、多かれ少なかれ調査対象となる人々には不躾なものなのだ。「ある裁縫屋の店先」には、そういう不躾なインタビュー稼業にいい加減嫌気が差し始め、くさりながら町をぶらついているときにたまたま通りがかったのである。そして、足元に目を落とし、その刹那私の目はそこに釘付けとなった。

その店先にあったものは、お土産品として売られている古いコインやら紙幣の並べられた、その街中ではまあありふれたショウケースである。しかし、その陳列ケース部分の下の、まるで水槽のように四方をガラスで仕切られた部分におびただしい量の古紙が雑然と積み重なっている。思わず腰をかがめてガラス越しにじいっとみると、一枚、一枚に墨痕鮮やかなアラビア文字が書かれているではないか。牛乳瓶のふたほどの大きさの印章も押されており、それらが革命前の、古い契約文書の類であることは明らかだった。

もともとこの地域において、文書史料はその存在が絶望視されていた。この種の伝統文書はさきの革命のなか行われた土地改革の中で「人民」の旧体制からの「解放」を象徴づける定番のアイテムとして盛んに利用されたからである。つまり、公衆の面前でそれを焼却することで、人々を従前の社会の約束事から解き放つという「儀式」が行われ、それはこの地域に限らず、中国各地で等しくくりひろげられたのである。さらにそれから約二十年のインターバルをおいて、全中国で吹き荒れた「文化大革命」の動乱においてもそれは繰り返された。そういう歴史の経験を免れた文書類があろうとはーこの「発見」は大いに私を驚かせるものだった。

******

「発見」された文書類のその後の運命についてはそれだけで一文をものするだけの面白さがあるけれども、ここでは省略しよう。紆余曲折を経て、文書の画像データはすべて私のパソコンに収まり、その後現在にいたるまで私はそれを読み続けている。そして、そのなかの一塊の文書の束が私と「笊作り横丁」を結びつけることとなった。

日本に帰って、まとめてプリント・アウトした文書のコピーを一枚一枚ざあっと眺めているうちに、その「裁縫屋文書」の一部にある種の傾向があることが程なくわかってきた。文書に必ず記される当事者の名前やその居住地名に重複するものがあり、ざっと六十点の文書がすべて「笊作り横丁」のある一家に関係する「家族文書」とでも形容すべきものであることが分かったのである。

文書の最古層は十九世紀の末葉、一八八四年に作成されたもので、アシュル・ビビなる女性がモッラー・ニヤズなる人物に「笊作り横丁」の六部屋からなる家屋を売却した不動産契約文書である。他方、最も新しいものはまさに文化大革命が進行していた一九六八年に、前述のモッラー・ニヤズの孫に当たるトゥルスンなる人物が家族のプロフィールを素描した覚え書きである。すなわち、六十点ほどの「家族文書」は一八八四年から一九六八年までの約八十年間の家族の社会経済活動を裏づける証拠資料と考えることができるだろう。言うまでもなく、その八十年は清朝から中華民国、そして二つの短命の革命政権(いわゆる「東トルキスタン共和国」)をはさんで中華人民共和国へと、この地域をめぐる政治体制に大変めまぐるしい変化のあった八十年である。

これら「家族文書」のなかで最も多いのが不動産の取引に係る文書である。売買、賃貸あわせて二十二点が不動産関連であった。これら不動産文書の記事によれば、くだんのモッラー・ニヤズを頭に以後四世代にわたるこの家族は「笊作り横丁」に居住し、世代を通じて不動産の取得と経営にいそしんでいたことが分かる。彼らはおそらくは家族の増加に応じて「笊作り横丁」の中で家屋を買い足したし、またカシュガルのまちの周辺に点在する農村にいくつか農地を購入し、それはその土地の農民に一年単位の契約で貸し出された。言うまでもなく、このような家族の不動産経営のあり方は、一九四九年の共産党の「革命」で糾弾された不在地主の典型に他ならない。

さらにこの家族はカシュガルの代表的な常設市場(バザール)であるアンディジャン街で布の商売に従事する商人でもあった。そのことを裏付ける店舗の共同経営者との契約書や、店舗の賃借契約書が残っている。この一家の商売はなかなか手広く行われていたらしく、文書に記された商品の仕入れ元や販売先と思しき地名としてコムル(哈密)、クチャ、ヤルカンド、ホタンといった他のオアシス都市の名前が見える。なかでもカシュガルの南東二百キロほどの所に位置する町ヤルカンドとの結びつきは強かったと見え、モッラー・ニヤズの子供たちのうち四人が一九三〇年代にカシュガルからヤルカンドに移住したこと、一九五四年にはおそらく父親から相続した「笊作り横丁」の家屋をそこに住む兄弟の息子(甥)に売却したことなどが文書の記事から確認できるのである。

それら以外にも、これら文書に記された情報は多岐にわたっており、家族が経験した係争(訴訟)や、こまごました物品の貸し借り、日照権をめぐる、近所との関係を窺わせるような文書、さらにはアズィズという名前の十一歳の少年の一年の丁稚奉公契約書などがある。これらの情報は家族の具体的な社会・経済状況を窺い知る上で有用であるばかりでなく、もっと大きな意味で、かつてこのまちの社会がどのような社会構造を有していたかという問題にアプローチするための材料をヴィヴィッドに我々の前に示してくれるのだ。

モッラー・ニヤズ個人にしても、またその家族にしても、それなりに富裕であったことは疑いないけれども、彼らは政治や事件を中心とする歴史の大舞台には何らかかわりを持たなかった。それゆえに彼らは普通の歴史記述(ヒストリオグラフィー)には何ら痕跡を残してはいない。彼らは世の大半の個人と家族と同様に、確かに存在していたにもかかわらず、沈黙のまま過去に去った普通の人々なのである。しかし、まったくの偶然から私が目にした文書の記事の数々は、いまや彼らを歴史の一部として甦らせようとしている。

*******

モッラー・ニヤズ一家の住んでいた「笊作り横丁」を実際に私が訪ねたのは、文書を読み始めてから二年後のことである。文書の記事から「笊作り横丁」があの一家の住所であることは明らかであったし、同じ地名の横丁がいまでもカシュガルに現存していることも私はつかんでいた。そこを訪ねて何をしようという明確な計画は何もなかったのだけれども、とにかくそこに私は行かなければならないと強く感じていた。行かなければ何事も始まらず、自分はそれ以上先に進むことが出来ないような気がしていたのだ。

二年ぶりにカシュガルを訪れ、知人への連絡もそこそこにまちに出て、通りの物売りなどに尋ねながら行くと、「笊作り横丁」はすぐに見つかった。そこはカシュガルの旧城壁にも程近い、昔ながらの旧市街の一角にあり、文書を発見した裁縫屋からもそう遠くないところであった。車も通行することができない、「タル・コチャ(狭い横丁)」とカシュガル人が好んで形容するところの、住人によってこの上なく清潔に保たれた典型的なカシュガルの伝統的街区がそこにはあった。

「こちらの奥には何もありませんよ、道をお間違えでしょう」

横丁の入り口に佇んでいた婦人が私に声をかける。

「ここは笊作り横丁、ですよね」

と私。

「ええ、この奥がずうっと笊作り横丁になります」

「それならいいんです。ちょっと人探しにきたものですから、ありがとう。」

人探し、とはつい口をついて出た私のその場しのぎの言い訳だったけれども、それを口にしながら私は内心「そうか、自分は人探しに来たのだ」と自覚した。私はいったん数歩進んでから、再び考え直してその横丁の入り口にとって返し、親切なその婦人に問いかけてみた。

「ずいぶん昔のことなんですけれども、この笊作り横丁にアフマトとトゥルスンという兄弟が住んでいたはずなんです。生きていれば二人とも八十歳は越えているはずなんですが、知りませんか。」

アフマトとトゥルスンは家族文書に登場する最後の世代、モッラー・ニヤズの孫に当たる。文書によれば二人とも笊作り横丁に居を構え、さきにふれたようにトゥルスンの方は一九六八年に家族のプロフィルを紙に書付け、その書付が残っている。この兄弟を親しく知る人があるいはまだいるのではないかと思っての問いかけだった。

「さあ、どうかしらねえ。ここの人のことはちょっと私には分かりませんね。ちょっとお待ちなさい」

そう言うと、婦人は横丁の入り口の傍らの家に消え、中でアフマトとトゥルスンのことを家人に聞いてくれているようであった。やがて家長然とした白ひげの老人が出てきて、言った。

「アフマト・アホンとその弟のトゥルスン・アホンなら、もう亡くなってずいぶんになるね。アフマトのほうは十年ぐらいになるかな。家はこの奥だ。あの家族はもう女たちだけになってしまったよ。ところであなたはどこの人かね」

日本からだと答えるとその老人と婦人は目を丸くして、いったいどういうわけで日本人が亡くなって久しい兄弟のことを嗅ぎまわっているのかと、ちょっとした大騒ぎになった。そうこうするうちに外で遊んでいる子供たちが集まり、私はその老人と婦人に先導され、子供たちをぞろぞろ引き連れながらトゥルスンの未亡人だと言う女性の家の戸口までやってきた。老人が戸をたたくと、中から女性が答えた。

「誰だい?(キムゥ?)」

「私だよ!(メン!)」

面識の有無を問わず訪問者と家人との間で交わされるウイグル人の常套的な受け答えの後、相当の年だとは思われたが、がっちりと丈夫そうな体つきをした大柄の女性が戸口に現れた。

女性はニサ・ハンといい、年は八十歳を越えている。トゥルスンと死に別れてもう二十年余りになるのだと言う。なぜ自分を訪ねてきたのかと言う問いに、私は自分が裁縫屋の店先で文書を見つけたこと、その内容をたどってここまできたことを正直に説明した。そして自分はこのまちの昔のことを調べており、昔の町の姿や、商売や暮らしがどうだったかを本に書くつもりなのだと付け加えた。やはりそれも口をついて出た、その場しのぎのでまかせに過ぎなかったのだけれども、それを口にしながら、再び私は、いずれきっとその本を書くことになる、と予感めいたものを感じていた。

「あらら、あの「紙たち」はこの人が買ったのかい。あれまあ日本人がねえ。あの「紙たち」はいつだったか、商人たちが来て二束三文で買い取っていったんだよ。あなた、あれをいったいいくらで買ったんだい?日本ではあれはいくらで売れるんだい?」

文書をぶっきらぼうに「紙」と呼ぶニサ・ハンは、私が骨董商か何かだと思っているのかもしれなかった。私はそれにはことばを濁しながら、用向きを繰り返した。

「知らないけれども、あの「紙」はウルムチの大学に納められるはずですよ。あの、ご家族についていくつかお聞きしたいことがあるんですが、よろしければ、ちょっとお時間をいただけませんか。」

私がそう言うと、ニサ・ハンは一瞬戸惑った表情を見せたが、やがて何か決意したように「ふん」とため息ともつかぬ音を出すと「いいですとも」と答え、私を戸口から中へ手招きした。私を先導してきた老人と婦人、子供たちもそこで好奇心ありありの表情を見せながら引き上げていった。

ニサ・ハンが一人で住むというその家屋は、あまり手入れがされておらず柱の塗装ははげていたけれども、往時は相当のお金をかけて普請したと思しい、堂々たるものだった。外の往来が石畳と白い壁だけの無機的な場所なのに対し、中庭は樹木の緑が目に優しく、小鳥のさえずりさえ聞こえる安寧な空間であった。土地の人が「スパ」と呼ぶ涼み台に座るよう促され、そこで私はニサ・ハンと向かい合い、私が文書から知りえたことをひとつひとつ彼女に話し始めることにした。

突然やってきた異邦人である私が、自分の家族の詳しい事情について語ることにニサ・ハンは明らかに驚いていた。私は自分の手控えとして、モッラー・ニヤズから彼女の夫であるトゥルスンの次の世代までの系図を作成し持参してきていたけれども、一人ひとりの名前を私が問いただすたびに、彼女は眼を見開いて、驚きとともに、私が挙げる名前を手掛かりに、自分の記憶を手繰っているようだった。

「…それから、ヤルカンドに親戚がいらっしゃいますよね」

「何だって、そんなことまで知っているのかい?あの紙にはずいぶんいろんなことが書いてあったんだね。ええ、そうですとも。ヤルカンドに親戚はいますよ。もっとも、もう何年も行き来をしていませんけれどね。」

私の手控えの系図の最後の人名のあたりまで来たところで、見るとニサ・ハンの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。そして彼女は、系図には書いていない、つまり私が読んだ文書には書かれていなかったその後の家族について話し始めた。

文書が明瞭に示すように、モッラー・ニヤズ一家は布を商う裕福な商人であった。しかし一九四九年の革命以降はさまざまな迫害を受け、往時の豊かさは失われてしまったのだという。革命政府の指導により、一家の財産はまちの百貨店への「投資」という名目で政府に差し出すことを余儀なくされ、それによって一家は一転して困窮することとなった。

「これを見ておくれ、あなたならどうにかできるんじゃないのかい?このお金を私は返してもらいたいんだよ」

そう言ってニサ・ハンは私にぼろぼろの紙片を示した。それは一九五六年に中国百貨公司カシュガル分公司(支店)がトゥルスンから四千元の投資を受けたという臨時証券であり、年利5%が配当されることが明記されている。他の文書類はすべて売り払ってしまったが、この証文だけはいつの日かひょっとしたら日の目を見ることがあるのではないかと思い手元に置いているのだとニサ・ハンは言い、この金を回収するにはどうしたらいいか教えてくれないかと私に尋ねるのであった。

「私の夫も、息子たちもみんな死んでしまった。私はひとりだ、ひとりぼっちなんだ。」

そういうとニサ・ハンはしくしくと泣き始めた。封印していた過去の記憶、今は去ってしまった家族の記憶が呼び起こされたのかもしれなかった。私は老女を悲しませてしまった自分の配慮のなさと、さりとて何ら彼女のためにしてあげられることがないという事実の前に。そこではただただばつの悪さを感じるばかりであった。


Kocha


文書に登場する最初の家長モッラー・ニヤズが亡くなり、その子供たちの一半がヤルカンドへ移住するかはしないかという時期(一九三〇年代)にこのニサ・ハンはカシュガルの他の横丁からその孫の嫁としてここに嫁いできたことになる。そのころはまだモッラー・ニヤズの妻も健在だったし、その子供たち(すなわちニサ・ハンの舅の世代)も孫たちも笊作り横丁の住民であった。文書から窺われる限りでは少なくともニサ・ハンを含め十人の成人がそこには居住していたはずであり、もしもモッラー・ニヤズの子供たちのヤルカンド移住前であればさらに四名が加わることになる。そこには子供たちは数に入っていないし、奉公人がいた可能性もないとはいえない。要するに、彼女が笊作り横丁で暮らし始めたころ、この一家は賑やかな大家族であったと想像される。家族は商売や所有する土地からの収入でそれなりに豊かな暮らしむきであったろう。

しかし、今やニサ・ハンは夫を亡くし、三人いた息子もすべて若くして亡くなり、いま家族の家でたった一人で暮らしている。同じく笊作り横丁の住人であった夫の兄アフマトも、その息子も亡くなり、その家では結婚しなかった娘と、出戻りの孫娘が二人で暮らしているのだという。

「私は一人だ」と言って泣くニサ・ハンの気持ちは、不遜かも知れぬが私もごく僅かではあっても共有するものだ。なぜなら文書や手紙に書かれた一家のくらしはそれほど想像力を動員しなくても十分にきらきらと輝きを帯びたものであったことがあまりにも明らかだから。そういう家族がかつてあった。その家族たちの笑いや幸福、そういうものを継ぐものが孤独な老女だけだとしたら、それはあまりにも悲しい。輝かしい過去は飛び去った。それは鈍感な私にさえ十分に心の棘となって突き刺さってくる。そう、それを老女の心に呼び起こしてしまったという自責の念とともに。

*********

あれから数年たち、私は今でも笊作り横丁と、ほかの横丁や村々の過去の姿を追ってニサ・ハンの言う「紙たち」を読んでいる。あれから幾度か私は笊作り横丁を訪ね、またニサ・ハンとも再会を果たし違う昔語りも聞いた。しかし、「きらきらした」笊作り横丁の旧事に関する「本」はまだ書けていない。


(本文の人名はほぼすべて仮名にさせていただきました)

[2009年2月 脱稿」


| | Comments (0) | TrackBack (0)

«【授業内容】「歴史的東トルキスタン概説」(青山学院大学)